第91話 町から見える時計
時計台最終修復、十八日目。
朝。
修が工房の扉を開けると、向かいの道にロイが立っていた。
「修!」
「おはよう」
「時計、動いてるぞ!」
「昨日から動かしてるからな」
「知ってる!」
ロイは興奮した様子で時計台を指差した。
中央機構の長時間試験運転は、夜を越えて続いている。
外から見ると、四面の時計盤に取り付けられた古い針が、ゆっくりと時を刻んでいた。
もっとも、まだ修理前の針だ。
東面の長針は先端が欠け、西面は塗装がほとんど剥がれている。南面の短針には錆が浮き、北面に至っては遠くから見ると時刻がほとんど読めない。
それでも。
針は動いている。
「昨日、母ちゃんが三回見てた」
「時計を?」
「うん。時間なら家の時計で分かるのに」
ロイは不思議そうだった。
修は時計台を見上げた。
その気持ちは、少し分かる。
止まっていたものが動き始めると、つい見てしまう。
「学校行かなくていいの?」
「行く!」
「じゃあ行け」
「帰ったら見に来る!」
ロイは走っていった。
「走るなよ!」
昨日まで時計台の中で何度も言った言葉を、今度は道端で叫ぶことになった。
今日から第四工程。
四面の時計盤と針の修復に入る。
【第四工程:時計盤・時計針】
【予定期間:5日】
【東面時計盤損傷率:34%】
【西面時計盤損傷率:29%】
【南面時計盤損傷率:41%】
【北面時計盤損傷率:37%】
【時計針総合損傷率:32%】
【時刻表示機能:動作可能】
中央機構は直った。
つまり、時計としてはもう動く。
しかし「町から時刻を読めるか」と考えると、まだ完成とは言えない。
「全部新品にした方が早そうですね」
足場の上で、エルクが時計盤を見ながら言った。
「早いな」
「作り直せないんですか?」
「作れる」
時計盤そのものは、中央機構ほど複雑ではない。
数字。
目盛り。
針。
それらを新しく作り直せば、見た目もきれいになる。
「でも、やらないんですよね」
エルクが先回りする。
「分かってきたな」
「最近の修さんならそう言うと思いました」
「俺が面倒な人みたいじゃない?」
「違うんですか?」
「……否定しにくいな」
まず東面から始める。
時計盤の外周には細かな傷が無数に残っている。
雨。
雪。
風。
砂。
二百年以上、それらを受け続けた跡だ。
一部には過去の補修跡もある。
【建造当初部材:72%】
【後世補修部材:28%】
文字盤の数字も、すべてアルドの時代のものではない。
四。
七。
十一。
三箇所は後世に交換されていた。
しかも十一だけ、少し形が違う。
「これ、下手ですね」
エルクが言う。
「結構はっきり言うな」
「だって他と形が違います」
確かに。
他の数字は線が均一だ。
十一だけ、片方がわずかに太い。
鑑定する。
【時計盤数字板・十一】
【製作年:約96年前】
【製作者:不明】
【損傷率:14%】
【継続使用:可能】
「交換します?」
エルクが尋ねる。
「しない」
「ですよね」
「聞く意味あった?」
「確認です」
修は十一の数字板を外した。
交換するためではない。
裏側を確認するためだ。
すると。
小さな文字が刻まれていた。
『失敗 二枚目』
修とエルクが顔を見合わせる。
「二枚目?」
周囲を探す。
記録には残っていない。
「一枚目はもっと下手だったんですかね」
「かもな」
「これ作った人、見習いだったとか?」
「ありそう」
九十六年前。
名前も残っていない誰かが、時計台の数字を作った。
一度失敗した。
もう一度作った。
それでも少し形が違った。
そして、その数字は九十六年間、町へ時刻を知らせ続けた。
「残そう」
修は数字板を元へ戻した。
「はい」
今度はエルクも迷わなかった。
問題は時計盤の表面だった。
汚れを落とすと、予想以上に色が薄くなっている。
文字と背景の差が小さい。
近くなら読める。
だが広場からでは見にくい。
「塗り直します?」
「必要だな」
修は答えた。
歴史を残すことと、機能を失ったままにすることは違う。
時計盤は時刻を伝えるためにある。
読めなければ意味がない。
そこで問題が起きた。
「何色にする?」
塗装職人が尋ねた。
修が止まる。
「元の色で」
「元って、どれだ?」
時計盤を見る。
現在は灰白色。
しかし、表面を少し調べると、その下に複数の塗装層がある。
灰白色。
その下は乳白色。
さらに下は薄い青。
最古層。
濃い青。
「青かったんですか?」
エルクが驚く。
鑑定する。
【建造当初色:濃青】
【約181年前:淡青へ変更】
【約123年前:乳白色へ変更】
【約64年前:灰白色へ変更】
二百三十八年間で、少なくとも三回色が変わっている。
「どれが本当の色なんでしょう」
エルクが尋ねた。
修は時計盤を見る。
アルドが作った時の色なら濃い青。
だが、町の人たちが知っている時計台は灰白色だ。
「聞いてみるか」
「誰に?」
「町の人」
午後。
広場に四枚の板が並べられた。
濃青。
淡青。
乳白色。
灰白色。
その前に町の人が集まっている。
「何してるんだ?」
「時計盤の色を決めます」
町長が呆れた。
「お前が決めればいいだろ」
「町から見るものなので」
修は四色の由来を説明した。
建造当初。
五十七年後。
百十五年後。
百七十四年後。
「最初の青がいい!」
ロイは即答した。
「格好いいから?」
「勇者の時計台っぽい!」
「聞いた俺が悪かった」
老人の一人は灰白色を選んだ。
「時計台はこの色だろ」
パン屋の主人は乳白色。
「遠くから一番見やすそうだ」
若者の一人は濃青。
「観光客には珍しくていいんじゃない?」
意見は割れた。
修は少し困った。
多数決でもいい。
だが、それで決めていいのだろうか。
その時。
広場の端にいた老婦人が口を開いた。
「針は何色なんだい?」
修が振り返る。
「針?」
「時計なんだから、針が見えなきゃ意味ないだろう」
修は四枚の板を見る。
確かに。
時計盤だけで考えていた。
「針も合わせて試しましょう」
黒。
白。
金属色。
それぞれの針を模した細長い板を四色の上へ置く。
見え方がまるで違った。
濃青に黒は見にくい。
灰白色に黒はかなり見やすい。
濃青に白もよく見える。
乳白色に黒も悪くない。
「離れて見よう」
広場の反対側へ移動する。
さらに道の先。
町の入口。
場所によっても違う。
修は気づいた。
色を決める問題ではない。
時刻を読むための組み合わせを決める問題だった。
夕方まで試した。
結果。
最も視認性が高かったのは、濃い青の時計盤に明るい針。
アルドが作った当初に近い組み合わせだった。
ただし、まったく同じではない。
当時の針は金属色。
今回は、遠くから見やすいよう淡い白銀色にする。
町長が腕を組む。
「結局、昔の色へ戻るのか」
「結果的には」
「王国の検査官が喜びそうだな」
「理由は違いますけどね」
歴史的だから青へ戻すのではない。
今の町で使いやすいから青にする。
その結果、昔の姿に近づいた。
それだけだ。
エルクが修復記録へ書く。
『時計盤色――濃青』
『選定理由――広場及び主要道路からの視認性試験による』
少し考え。
もう一行。
『建造当初色と近似するが、原状復帰を目的としたものではない』
修が横から見る。
「いいね」
「最近、記録の書き方が分かってきました」
「俺より上手くなるかも」
「それは困ります?」
「全然」
修は笑った。
翌日から塗装作業が始まった。
すべてを塗り潰すわけではない。
交換されてきた数字板は残す。
傷も、構造に問題のないものは無理に消さない。
表面を保護しながら、時刻が読める状態へ戻す。
東面。
西面。
北面。
順番に濃い青が戻っていく。
南面だけは少し時間がかかった。
損傷率四十一%。
時計盤の下地そのものに亀裂がある。
「ここは交換ですね」
エルクが言う。
「一部だけな」
亀裂部分を切り出す。
その時だった。
裏側から、小さな手形が出てきた。
「何です、これ?」
塗料で付いたような手形。
子供のものだ。
鑑定する。
【付着物:塗料】
【推定年代:約64年前】
前回、灰白色に塗り直された時代。
「子供が触った?」
「たぶん」
修は手形を見る。
誰なのか。
なぜここにいたのか。
分からない。
「消します?」
エルクが尋ねる。
修は少し考えた。
時計盤の裏側。
外からは見えない。
構造にも影響しない。
「残そう」
「ですよね」
「また先に分かった?」
「分かりますよ、これくらい」
新しい補修材を手形へ重ねないよう加工する。
少し手間が増えた。
だが、それでいい。
作業四日目。
四面の時計盤が完成した。
最後は針。
八本すべてを外して並べる。
最も傷みが大きいのは南面の長針。
【損傷率:48%】
【先端部腐食】
【内部亀裂あり】
これは交換が必要だった。
「新しく作ります?」
エルクが尋ねる。
「作る」
「同じ形?」
修は古い針を見る。
二百年以上前の形。
細く、美しい。
だが先端に重量が集中している。
長年、軸へ余計な負荷をかけていた。
「少し変える」
外から見た形はほぼ同じ。
だが内部を中空構造にする。
重さを二割減らす。
軸への負担も減る。
「見た目は昔。中身は今、ですか」
「そういうこと」
「検査官に怒られません?」
「説明する」
最近、この言葉を何度も使っている。
新しい長針を作ったのは鍛冶屋だった。
仕上げをエルクが手伝う。
修が最終調整する。
【南面長針】
【旧重量:18.4kg】
【新重量:14.7kg】
【外形一致率:98%】
【中央機構負荷:低減】
取り付ける。
最後に四面の針を白銀色へ仕上げる。
夕方。
足場の一部が外された。
広場には自然と人が集まっていた。
誰かが呼び集めたわけではない。
時計台が見えるようになったから。
濃い青の四面。
白銀色の針。
夕日を受けている。
「青かったんだな」
誰かが言う。
「昔はね」
老人が答える。
「俺が子供の頃はもう白かったぞ」
「じゃあ俺も知らん」
そんな会話が聞こえる。
修は広場の端から時計台を見る。
針が動く。
午後五時二十九分。
長針が少しずつ上がる。
そして。
午後五時三十分。
まだ鐘は鳴らない。
だが。
町のあちこちで、人が時計台を見上げている。
パン屋の主人が店の看板を片づけ始めた。
子供たちが家へ帰る。
荷車を引く男が時刻を確認する。
時計が。
町の中へ戻ってきていた。
ロイが修の隣へ来る。
「修」
「何?」
「もう直ったんじゃないの?」
「まだ」
「時間分かるぞ」
「時計だけならな」
「じゃあ何が残ってるんだ?」
修は工程表を思い浮かべる。
第五工程。
鐘楼機構。
第六工程。
外壁と屋根。
第七工程。
全体調整。
「まだ三つ」
「あとちょっとじゃん!」
「三つが長いんだよ」
「いつ鐘鳴る?」
「予定通りなら二十五日後」
「長い!」
「二百年以上ある時計台からしたら短いよ」
「俺には長い!」
修は笑った。
翌朝。
第四工程の最終確認。
【第四工程:時計盤・時計針】
【進捗率:100%】
【時計盤総合損傷率:35% → 4%】
【時計針総合損傷率:32% → 2%】
【四面視認性:良好】
【時刻表示機能:正常】
【第四工程:完了】
工程表。
四本目の線。
【全体工程進捗率:61%】
【完成目標まで:25日】
半分を越えた。
「次はいよいよ鐘ですね」
エルクが言う。
修も鐘楼を見上げる。
ベルンが百二十九年前に異変を見つけた鐘。
鐘そのものは壊れていない。
旧共鳴機構の問題も解決した。
残っているのは。
【鐘楼機構損傷率:46%】
七工程の中で、最も損傷率が高い場所だった。
「明日からやろう」
「はい」
リペがしゃもじを掲げる。
「鐘を鳴らす係は私が!」
「駄目」
「なぜです!」
「絶対必要以上に鳴らすから」
「三回だけです!」
「一回でいい時に三回鳴らすだろ」
「では二回!」
「交渉するな」
その日の作業を終え、三人は工房へ戻った。
夕暮れ。
修は途中で一度だけ振り返る。
青い時計盤。
白銀の針。
動いている。
それだけのことなのに。
止まっていた頃とは、町の景色が少し違って見えた。
時計台が変わったのではない。
町の人が、また時計台を見るようになったのだ。
忘れられていた時計が。
再び町の時間の中へ戻り始めている。
だが。
まだ足りない。
時計台には。
時刻を見るための針だけではなく。
時刻を聞くための鐘がある。
修は鐘楼を見上げた。
「次は、あそこか」
二十五日後。
あの鐘を。
本当の意味で鳴らす。
そのための修理が。
いよいよ始まる。




