第92話 鐘を鳴らすもの
時計台最終修復、二十二日目。
第五工程の朝、修は鐘楼へ続く最後の階段を上っていた。
先頭を歩くのは修。その後ろをエルク、さらにリペが続いている。
「ご主人様」
「何?」
「鐘を鳴らしていいですか?」
「駄目」
「まだ鐘楼に着いてませんよ?」
「着いてから聞かれても駄目だから先に答えた」
「先回りされました!」
エルクが笑う。
「リペさん、昨日からずっと狙ってますもんね」
「鐘があったら鳴らしたくなるのが人情です!」
「ゴーレムだろ」
「ゴーレム情です!」
「初めて聞いたよ」
そんな話をしているうちに、階段の先から朝の光が差し込んだ。
鐘楼。
時計台の最上部に近い場所だ。
中央には大鐘が吊られている。
修はこれまでにも何度か調査のために上がっているが、今日からは調査ではない。
本格的な修復が始まる。
【第五工程:鐘楼機構】
【予定期間:7日】
【鐘楼機構損傷率:46%】
【鐘本体損傷率:3%】
【吊り具損傷率:27%】
【打鐘機構損傷率:51%】
【時報連動機構損傷率:58%】
【安全制御機構損傷率:64%】
【完成目標まで:24日】
鐘そのものは、ほとんど傷んでいない。
問題は、それを鳴らすための周囲の機構だった。
「鐘は元気なのに、周りがボロボロですね」
エルクが言う。
「百年以上まともに使ってないからな」
「最後に鳴ったのは?」
「記録だと、定期的な時報として使われなくなったのは百二十年以上前。特別な日に何度か鳴らした記録はあるけど、それも途中で終わってる」
ベルンの記録が残る時代には、すでに鐘の音に異変が出ていた。
その後、鐘そのものではなく共鳴機構の問題だと気づいたベルンは、鐘を直さなかった。
だが打鐘機構は、その後も少しずつ傷んでいった。
修は鐘を見上げた。
直径は二メートルを超える。
青銅製。
二百三十八年前、アルドが時計台と共に作ったものだ。
表面には町の古い紋章と、短い文字が刻まれている。
『時は、人が刻むもの。』
アルドの言葉。
「これ、アルドさんが彫ったんですか?」
エルクが尋ねる。
「たぶん」
「鑑定では?」
「製作者はアルド。でも文字を本人が彫ったかまでは分からない」
「分からないこと、結構あるんですね」
「鑑定は何でも教えてくれるわけじゃないからな」
「最近それ、よく分かります」
エルクは笑った。
修も少し笑い、鐘から視線を下ろした。
「まず鳴らす前に、鳴らさない状態で全部調べる」
「はい」
「リペ」
「はい!」
「絶対に鐘を叩かない」
「信用してください!」
「そのしゃもじを置いて」
「信用されてません!」
当然だった。
午前中は分解調査に使った。
最初は吊り具。
巨大な鐘を支える梁と金具だ。
主吊り金具には二十七%の損傷がある。
だが、金具そのものより問題だったのは木製の支持梁だった。
【鐘楼主支持梁】
【損傷率:19%】
【内部含水率:高】
【表面損傷:軽微】
【内部劣化:進行】
修が眉をひそめる。
「表から見たより悪いな」
エルクが木槌で軽く叩く。
コン。
コン。
場所を変える。
コン。
少し音が変わる。
「ここ、中が違います」
「分かる?」
「大工の工房で腐った梁を探す時にやりました」
エルクはさらに叩く。
「この辺から……この辺まで」
修が鑑定範囲を絞る。
【内部腐朽範囲:全長の18%】
ほぼ一致していた。
「当たり」
「やった」
最近、エルクがこういう時に素直に喜ぶようになった。
最初の頃は、自分の判断に自信がなく、修の鑑定結果を見るまで不安そうにしていた。
今は違う。
まず自分で考える。
その後で答え合わせをする。
「交換ですか?」
エルクが尋ねる。
修は梁を見る。
全長の十八%だけが傷んでいる。
残り八十二%は使える。
「全部は替えない」
「傷んだ部分だけ?」
「うん」
梁を丸ごと新品へ交換する方が作業は簡単だ。
だが、この梁は建造当初から残っている。
それだけを理由に残すわけではない。
八割以上が今も十分な強度を持っているから残す。
腐朽部分を切り出し、新しい木材を継ぐ。
「継いだ場所、弱くなりません?」
「普通に継いだらな」
修は紙を取り出す。
荷重方向。
鐘が揺れた時の横方向の力。
新型振動調整機構によって軽減される振動。
それらを考慮して継ぎ方を決める。
エルクも覗き込む。
「金属板も入れるんですか?」
「補助で」
「木だけじゃ駄目?」
「できるけど、鐘は重いから余裕を持たせたい」
「なるほど」
「ただし金属板で全部固定しすぎると、今度は木が逃げられなくなる」
「ああ。前にやったやつですね」
「そう」
木は動く。
だから、少し動けるようにする。
継ぎ輪。
新型振動調整機構。
階段。
鐘楼。
別々の修理なのに、考え方はつながっていた。
午後。
打鐘機構を調べる。
鐘を叩く槌。
それを引く腕。
歯車。
滑車。
時報連動軸。
部品を一つずつ確認していく。
「これ、かなり駄目ですね」
エルクが言った。
打鐘腕。
【損傷率:57%】
【軸部摩耗:重大】
【継続使用:非推奨】
「交換だな」
修も即答した。
残せるものは残す。
だが危険なものまで残す必要はない。
打鐘腕を外す。
長さ一・四メートル。
鉄製。
製作年は百五十三年前。
アルドの時代から一度交換されている。
表面には補修跡が七箇所。
「すごいですね」
エルクが触れる。
「七回直してる」
「七回直して、それでも交換なんですね」
「ああ」
「もったいない気もします」
修は古い打鐘腕を見る。
「役目を終えたんだよ」
第四の遺産。
氷時計を思い出す。
直せるから直す。
それだけが修理ではない。
終わらせることもある。
「これは保存しておこう」
「記録用?」
「それもあるけど、七回直して百五十三年使った部品だから」
「十分働きましたね」
「十分すぎる」
リペが古い打鐘腕へ近づいた。
「お疲れ様でした!」
ぺこりと頭を下げる。
修とエルクも顔を見合わせる。
「まあ、そうだな」
修も軽く頭を下げた。
百五十三年間。
何回鐘を鳴らしたのか。
もう誰にも分からない。
それでも、その役目は確かに終わった。
二日目。
鐘楼支持梁の補修が始まった。
大工たちが腐朽部分を慎重に切り出す。
その横でエルクが新しい継ぎ材を加工していた。
「修さん」
「何?」
「ここ、二ミリ残した方がいいですか?」
修は見に行く。
「理由は?」
「最後に現物合わせしたいので」
「いいと思う」
「じゃあ残します」
もう「何ミリにすればいいですか」とは聞かない。
理由を持って、自分の案を出す。
それでいい。
昼過ぎ。
問題が起きた。
古い木材の内部から、細い金属棒が出てきた。
「止めて!」
修が作業を止める。
大工が手を離す。
梁の内部。
木の中心近くを、金属棒が通っている。
図面にはない。
「何です、これ?」
エルクが覗く。
修が鑑定する。
【内部補強棒】
【製作年:約129年前】
【材質:鋼】
【製作者:不明】
【損傷率:38%】
約百二十九年前。
修はすぐに思い当たった。
「ベルンの時代だ」
記録箱を調べる。
ベルンの修理記録。
三冊目。
鐘楼関係の記録を探す。
あった。
『主梁、わずかに歪みあり。』
その三年後。
『主梁補強。交換せず。』
それだけ。
方法は書かれていない。
「これが補強なんですね」
「たぶん」
梁を交換せず、内部に金属棒を通した。
百二十九年前。
ベルンが行った可能性が高い。
だが。
現在の金属棒は錆びている。
木の内部で膨張し、周囲を少しずつ圧迫していた。
【内部補強棒による木材圧迫】
【現状:軽度】
【長期予測:亀裂発生可能性あり】
「外します?」
エルクが聞く。
修は迷わなかった。
「外す」
ベルンが入れたものかもしれない。
時計台を百年以上支えた補強かもしれない。
それでも。
今は害になり始めている。
「残さないんですね」
「残さない」
修は金属棒を見た。
「これを入れた時は必要だった。でも今は違う」
星渡り大橋で、ミレアが祖父の補強材を外した時と同じだ。
過去の修理を尊重することと、永遠に残すことは違う。
金属棒を慎重に抜く。
途中で折れないよう、少しずつ。
一時間近くかかった。
ようやく最後まで抜けた時、錆びた棒が床へ置かれた。
エルクがそれを見る。
「これも保存します?」
「記録と一緒に一部だけ残そう。全部はいらない」
「ベルンさん、怒りませんかね」
修は少し考える。
「怒らないと思う」
「どうして?」
「この人も、アルドの仕組みをそのまま直さなかったから」
ベルンは過去より現在を見た。
なら、自分の補強が百年以上後に外されることも受け入れる気がした。
もちろん。
本人に聞くことはできない。
だから修は記録へ理由を書く。
『旧内部補強棒を撤去。』
『設置時には有効な補強であったと推定する。』
『現在は腐食膨張により梁へ負荷を与えるため、継続使用を不適当と判断。』
そして新しい補強方法を書く。
未来の誰かが。
また外すかもしれない。
それでいい。
三日目。
支持梁補修完了。
【鐘楼主支持梁】
【損傷率:19% → 3%】
【荷重安全率:良好】
【振動許容:正常】
次は打鐘機構。
新しい打鐘腕を作る。
旧部品をそのまま複製はしない。
昔の打鐘腕は重かった。
鐘を強く叩く。
大きな音は出る。
だが鐘と鐘楼への負担も大きい。
「軽くするんですか?」
「少し」
「音、小さくなりません?」
「試す」
旧打鐘腕。
重量三十八・二キロ。
新試作。
三十二・五キロ。
取り付ける。
「鳴らします?」
リペが待っていたように尋ねる。
「鳴らす」
リペの目が輝く。
「私が!」
「俺がやる」
「なぜです!」
「試験だから」
「私も試験できます!」
「力加減できる?」
「全力なら!」
「だから駄目なんだよ」
新型振動調整機構も起動。
各部へ測定器を設置。
エルクが鐘楼。
鍛冶屋が中央機構。
大工が支持梁。
修が打鐘機構。
「一回だけ鳴らす」
全員が頷く。
修が操作する。
打鐘腕が動く。
鐘へ近づく。
そして。
ゴォォォン――。
音が町へ広がった。
広場。
通り。
家々。
遠くの畑。
鐘楼の中では、新しい打鐘腕がゆっくり戻っていく。
修は測定値を見る。
【鐘本体負荷:正常】
【鐘楼支持梁負荷:正常】
【中央機構振動:正常】
【新型振動調整機構:正常】
【打鐘音量:旧設計比 86%】
少し小さい。
だが十分に町へ届く。
「どう?」
修がエルクを見る。
エルクは窓から外を見ていた。
「町の端まで聞こえたと思います」
「確認しよう」
広場へ降りる。
すると。
人が集まり始めていた。
鐘を聞いたからだ。
「鳴ったな!」
「試験です」
「もう直ったのか?」
「まだです」
「久しぶりに聞いた気がする」
老人が言う。
隣の老人が笑う。
「お前が子供の頃には、もう毎日は鳴ってなかっただろ」
「祭りで鳴ったことがある」
「何年前だよ」
「知らん」
ロイが走ってくる。
「修!」
「走るな」
「鳴った!」
「聞こえた?」
「めちゃくちゃ聞こえた!」
「うるさくなかった?」
「もっと大きくていい!」
「子供の意見として記録しておく」
「大きくしろ!」
「採用するとは言ってない」
修は町の人たちに聞いて回った。
広場。
十分聞こえる。
市場。
十分。
町の東端。
聞こえる。
南の農地。
少し小さいが聞こえる。
工房の中。
聞こえる。
十分だった。
昔と同じ大きさの音である必要はない。
今の町に必要な範囲へ届けばいい。
修は試作一号を正式採用することにした。
【新打鐘腕】
【旧部品比重量:85%】
【鐘本体負荷:18%低減】
【鐘楼構造負荷:14%低減】
【町内可聴範囲:必要条件達成】
「百じゃないですね」
エルクが言う。
「最近わざと言ってない?」
「ちょっとだけ」
「リペに影響されてきたな」
「危険ですね」
「聞こえてます!」
少し離れた場所でリペが抗議した。
その日の夕方。
修は鐘楼へ一人で戻った。
正確には。
途中からリペがついてきたので二人だった。
「何しに来たんですか?」
「鐘を見るだけ」
「鳴らしません?」
「鳴らさない」
「一回だけ」
「今日鳴らしただろ」
「鐘は何回鳴らしても鐘です!」
「よく分からない理屈だな」
修は大鐘の前へ立つ。
鐘本体。
損傷率三%。
二百三十八年間。
ほとんど壊れていない。
だが。
鐘だけでは音は鳴らない。
吊るす梁。
叩く腕。
動かす歯車。
時刻を伝える中央機構。
振動を受け止める時計台。
そして。
その音を聞く町。
全部があって。
初めて鐘になる。
修はアルドの言葉を見る。
『時は、人が刻むもの。』
以前なら。
時計を作るのは人だという意味だと思っていた。
今は少し違って聞こえる。
時刻を知らせるだけなら。
時計だけでいい。
だが。
朝の鐘を聞いて店を開ける人。
昼の鐘を聞いて仕事を休む人。
夕方の鐘を聞いて家へ帰る子供。
そういうものが積み重なって。
町の時間になる。
「ご主人様」
リペが隣に立つ。
「何?」
「完成したら、毎日鳴るんですか?」
「その予定」
「朝も?」
「たぶん」
「昼も?」
「うん」
「夜も?」
「夜中は鳴らさない」
「なぜです!」
「寝てるから」
「鐘も寝るんですか?」
「町の人がだよ」
リペは少し考えた。
「じゃあ、お昼の鐘がいいです」
「どうして?」
「ご飯の時間が分かります!」
「お前らしいな」
修は笑った。
正午。
最終修復が終わる日。
二百三十八年前に時計台が初めて動いたのと同じ日。
最初の鐘も。
正午に鳴らす。
残り二十四日。
第五工程はまだ半分以上残っている。
時報連動機構。
安全制御。
鐘楼の最終調整。
やることは多い。
だが。
今日。
時計台は一度だけ。
町へ音を返した。
ゴォォォン――。
もう消えたはずの余韻を。
修はしばらく聞いていた。
その音が。
二十四日後には。
試験ではなく。
町の日常として鳴る。
その時。
七つ目の音が何なのか。
まだ修は知らなかった。




