第89話 昔のまま残すということ
王国技術院から届いた手紙を、修はその日のうちに町長へ持っていった。
町長は最初から最後まで二度読み、それから大きく息を吐いた。
「面倒なことになったな」
「やっぱりそうですか」
「王国歴史技術遺産に指定されること自体は悪くない。むしろ町にとっては大きな話だ」
指定されれば、今後の維持管理に王国から補助を受けられる可能性がある。時計台を目当てに訪れる人も増えるだろうし、何より二百年以上残る建造物として公的に保護される。
しかし、保護されるということは、自由に直せなくなるということでもある。
町長は手紙の一文を指で叩いた。
『建造当初の構造から著しく変更された箇所については、原状復帰を求める場合がある。』
「どこまでが著しい変更なんでしょう」
「それを決めるために検査官が来るんだろう」
「いつ?」
「修復完了時と書いてある」
修は考えた。
完成まで三十五日。
検査官が来るのは、その後。
つまり、今すぐ工事を止める必要はない。
だが、完成した後に「元へ戻せ」と言われれば、新しく作った部分を再び外すことになる。
「先に確認できませんか?」
「技術院へ問い合わせてみる」
「お願いします」
町長は頷いた後、修を見た。
「それで、お前はどうしたい?」
修はすぐに答えた。
「今の計画で直したいです」
迷いはなかった。
旧共鳴機構を建造当初の状態へ戻せば、現在の時計台には合わない。継ぎ輪も、アルドが作ったものではない。
しかし、どちらも時計台を未来へ残すために必要なものだ。
「なら、それを説明できるようにしておけ」
「説明?」
「お前は分かってる。俺もここまで見てきたから分かる。だが検査官は知らん」
町長は机の上の手紙を修へ返した。
「『こっちの方がいいから変えました』では通らんぞ」
「……確かに」
「なぜ昔の状態へ戻さなかったのか。なぜ新しい構造にしたのか。昔のものをどこまで残したのか。それを全部説明できるようにしろ」
修は手紙を受け取った。
時計台を直すだけでは足りない。
なぜそう直したのか。
それも残す必要がある。
継ぎ輪を作った時と同じだった。
翌朝。
時計台の作業は予定通り始まった。
第三工程。
中央時計機構の本格修復である。
【第三工程:中央時計機構】
【予定期間:9日】
【中央時計機構損傷率:17%】
【要修理部品:86】
【要交換部品:19】
【調整必要箇所:34】
一万二千個を超える時計台の部品の中でも、ここから先は修が中心にならなければならない。
巨大な歯車。
軸。
脱進機。
重り。
動力伝達機構。
二百三十八年前の技術が詰まっている。
「すごいですね……」
エルクが中央機構を見上げる。
「触るなよ」
「分かってます」
「絶対だぞ」
「そんなに信用ないですか?」
「これは失敗すると部品一個じゃ済まないから」
巨大な歯車の一つを間違って動かせば、その力が別の歯車へ伝わる。
最悪の場合、連鎖的に破損する。
「まず見るだけ」
「はい」
エルクは素直に一歩下がった。
リペも一歩下がる。
「お前はなんで下がった?」
「空気を読みました!」
「成長したな」
「褒められました!」
修は中央機構を調べ始めた。
最初に見つかったのは、第三伝達歯車の摩耗だった。
【損傷率:26%】
【歯欠け:2】
【交換推奨】
直径およそ六十センチ。
青銅製。
製作年は百十二年前。
「アルドの部品じゃない」
エルクが気づいた。
「そうだな」
建造当初の歯車は、もっと前に交換されている。
修理記録を調べる。
百十二年前。
時計守ベルンより後の時代だ。
製作者の名前は残っていない。
「これも元に戻すんですか?」
エルクが尋ねる。
「どういう意味?」
「王国が言ってる原状復帰です。アルドさんが作った歯車と同じ形に」
修は現在の歯車と、アルドの設計図を比較した。
形状が少し違う。
歯の数も違う。
建造当初は四十八歯。
現在は五十歯。
その代わり、隣の歯車も変更されている。
二つを組み合わせて、同じ回転比を維持していた。
「なんで変えたんだろう」
修は記録を探した。
交換記録はある。
しかし理由がない。
『第三伝達歯車及び第四補助歯車交換』
それだけだった。
「元と同じものを作れなかったとか?」
エルクが言う。
「あり得る」
当時の材料。
加工技術。
費用。
理由はいくらでも考えられる。
修は歯車を外した。
裏側まで確認する。
すると、小さな刻印があった。
『50/25』
現在の歯数。
その横。
さらに小さな文字。
『48/24 不可』
「不可?」
修は周辺を調べた。
現在の歯車を外したことで、奥の軸受が見える。
鑑定する。
【第四軸受】
【製作年:約147年前】
【建造当初品から変更】
こちらもアルドの部品ではない。
寸法を測る。
そこで理由が分かった。
「軸が太くなってる」
建造当初より三ミリ太い。
おそらく九十年以上使った段階で、旧軸が交換された。
その時に強度を上げるため太い軸へ変更した。
結果、元の四十八歯の歯車では周囲の空間が足りなくなった。
そこで後の職人が五十歯へ変更し、隣の歯車も調整した。
一つの修理が。
次の修理へつながっている。
「元に戻そうとしたら?」
エルクが尋ねる。
「軸から戻す必要がある」
「その軸を戻したら?」
「さらに奥も変えないと駄目だな」
調べれば調べるほど広がる。
現在の一部だけを昔へ戻すことはできない。
修は紙へ構造を書き出した。
百四十七年前の軸交換。
百十二年前の歯車交換。
七十三年前の外壁修理。
そして今回の新型振動調整機構。
時計台は、一度も変わらず残ってきたのではない。
変わり続けたから残ってきた。
「エルク」
「はい」
「これ全部記録して」
「俺が?」
「俺は続きを調べるから」
「分かりました」
エルクが机へ向かう。
少しして声が飛んできた。
「修さん、製作者不明って書いていいんですか?」
「分からないなら分からないって書いて」
「推定とかは?」
「推定なら推定って付ける」
「たぶん百十二年前に変更、は?」
「『記録上、約百十二年前』」
「細かいですね」
「百年後に誰かが読むかもしれないから」
「……なるほど」
エルクは丁寧に書き直した。
午後。
修は交換予定だった十九部品をすべて再確認した。
結果。
十九個すべてを交換する必要はなかった。
【交換必須:11】
【補修継続使用可能:6】
【現状維持推奨:2】
その二個は、かなり古い部品だった。
摩耗している。
だが、交換すれば周囲の部品との噛み合わせまで変わってしまう。
「直さないんですか?」
「今は」
修は二つに札を付けた。
『定期確認』
放置ではない。
見守る。
エルクがそれを見ている。
「壊れるまで使う?」
「違う。交換した方がいい時まで使う」
「その時って分かります?」
「分からない」
修は笑った。
「だから記録する」
現在の摩耗量。
振動。
音。
回転抵抗。
半年後、一年後に比べればいい。
今の状態を残しておけば、変化が分かる。
夕方。
交換用の歯車を作るため、鍛冶屋が寸法を取りに来た。
修は第三伝達歯車を見せる。
「これと同じものをお願いします」
鍛冶屋が設計図を見る。
「アルドの図面と違うぞ」
「今使ってる方に合わせます」
「王国は昔の形に戻せと言ってるんじゃなかったか?」
「まだ言われてません。戻せと言われる可能性があるだけです」
「もし言われたら?」
修は少し考えた。
「説明します」
「駄目だと言われたら?」
「その時考えます」
鍛冶屋が笑った。
「お前、旅に出る前なら先に悩んでただろ」
「そうですかね」
「たぶんな」
修自身には分からない。
だが、少しは変わったのかもしれない。
三日後。
王国技術院から返事が届いた。
町長が時計台まで持ってきた。
「早かったですね」
「向こうも時計台の修復を気にしてるらしい」
修は封を開ける。
今回は前回より長い。
内容を読む。
王国歴史技術遺産における原状復帰とは、必ずしも建造当初と完全に同一の状態へ戻すことを意味しない。
後世の修理や改修についても、歴史的価値が認められる場合は保存対象となる。
ただし、新規改修については、建造物本来の価値を著しく損なわないこと。
可能な限り可逆的であること。
変更内容を記録すること。
修の目が止まった。
「可逆的?」
エルクが聞く。
「後で戻せるって意味」
継ぎ輪。
交換できる。
新型振動調整機構。
旧共鳴機構を撤去せず、追加する形で設置している。
手すり。
元の構造を壊さず追加した。
腰掛け。
自立式。
修が今まで選んできた方法の多くが、結果的に条件を満たしていた。
「じゃあ大丈夫なんですか?」
リペが尋ねる。
「たぶん」
「たぶん?」
「最終判断は検査官がする」
まだ安心はできない。
そして手紙の最後。
『修復完了後の検査では、完成状態のみならず、修復過程の記録を確認する。』
『特に、原構造から変更した箇所については、その必要性及び判断根拠を提示されたい。』
修はエルクを見る。
エルクも修を見る。
二人同時に。
机の上を見る。
そこには。
ここ数日で作った大量の記録が積まれていた。
測定値。
失敗した試作品。
旧共鳴機構を直さなかった理由。
南側外壁の材質。
階段の高さ。
手すりを変えた理由。
交換しなかった歯車。
「これ……」
エルクが言う。
「全部必要だったんですね」
「みたいだな」
修はアルドの修理記録を思い出した。
ノアの記録。
ベルンの記録。
昔の職人たちが残した短い記録。
その時は、未来の誰かに読まれるとは思っていなかったものもあるだろう。
それでも。
残っていたから、修は判断できた。
「記録も修理なんですね」
エルクが呟いた。
修はその言葉を聞いて、少し考えた。
「そうかもしれない」
物を直す。
そして。
次に壊れた時、誰かが直せるようにする。
そのためには。
今、何をしたのか残さなければならない。
修は新しい帳面を一冊取り出した。
表紙に書く。
『アルド大時計台 修復記録』
第一頁。
『最終修復責任者 修』
そこで筆が止まった。
少し考える。
その下に書き加えた。
『修復補助 エルク』
「また俺の名前書くんですか?」
「嫌?」
「嫌じゃないですけど」
エルクは少し照れたように笑った。
その横からリペが覗く。
「私の名前がありません!」
「お前も書く?」
「もちろんです!」
「役職どうする?」
リペは胸を張った。
「副工房長です!」
「却下」
「では主任修理師!」
「却下」
「王国公認しゃもじ師!」
「もっと却下」
エルクが笑う。
修は少し考えてから、帳面へ書いた。
『作業補助 リペ』
リペが見る。
「普通です!」
「正確だろ」
「もっとかっこいいのがいいです!」
「百年後の人が読むかもしれないんだぞ」
「では百年後にも私の名前が!」
そこでリペは急に嬉しそうになった。
「これでいいです!」
修は笑った。
そして三人で。
今日の修理記録を書き始めた。
第三伝達歯車。
建造当初四十八歯。
約百十二年前、五十歯へ変更。
変更理由は第四軸受交換による寸法変化と推定。
今回。
五十歯を維持。
『原状復帰は行わない。』
修はその次の行を書く。
『理由――現在まで使われてきた修理も、この時計台の歴史であるため。』
書き終えて。
少し考えた。
もう一行。
『ただし、過去の修理であるという理由だけで残すものではない。現在も安全に使えることを確認した上で継続使用する。』
昔だから残すのでもない。
新しいから変えるのでもない。
今必要なものを見極める。
それだけだ。
翌日。
新しい第三伝達歯車が届いた。
五十歯。
百十二年前の名も知らない職人が選んだ形を、今の職人が作り直したもの。
修が取り付ける。
歯車が噛み合う。
ゆっくり回す。
一回転。
二回転。
三回転。
異常なし。
【第三伝達歯車】
【交換完了】
【中央機構適合率:99.2%】
【継続使用:可能】
エルクが表示を見る。
「百じゃないですね」
「十分」
「リペさんならあと〇・八って言いますよ」
「言うだろうな」
少し離れたところから声がした。
「あと〇・八です!」
二人が振り返る。
部品箱を抱えたリペが立っていた。
「ほらな」
修とエルクが笑う。
中央機構の中で、新しい歯車が回り始める。
アルドが作った部品。
ベルンの時代に交換された部品。
名も知らない職人が残した部品。
そして今日作られた部品。
すべてが一緒に動いている。
どれが本物の時計台なのか。
修にはもう、その問いに意味があるとは思えなかった。
全部だ。
二百三十八年間。
壊れて。
直されて。
変わって。
それでも残ってきた。
そのすべてが。
今、目の前で動いている時計台だった。
修は次の歯車へ手を伸ばした。
完成まで、三十二日。
第三工程は、まだ半分にも届いていない。
だが。
急ぐ必要はない。
一つずつ。
過去を消さず。
過去に縛られず。
今の時計台を直していけばいい。
カチ。
新しい歯車が。
古い歯車を、次の一歯へ送った。




