第88話 誰のための階段
時計台最終修復、八日目。
第一工程を終えた翌朝、修は一階から最上部まで続く階段を見上げていた。
【第二工程:内部安全設備】
【対象:階段・床・手すり・扉】
【予定期間:6日】
【完成目標まで:38日】
時計台には全部で二百七十一段の階段がある。
一階から中央機構。
中央機構から時計盤。
そこからさらに鐘楼へ。
長い年月の中で何度も補修されてきたため、石造りの階段、木製の階段、金属製の階段が混在していた。
修が鑑定する。
【内部安全設備損傷率:31%】
【危険箇所:17】
【要補修箇所:46】
【要交換箇所:12】
数字だけなら、第一工程より仕事は多い。
だが構造補強ほど難しくはない。
「六日あれば十分かな」
修が呟く。
隣にいたエルクも工程表を見る。
「俺もやっていいですか?」
「むしろ今回はかなりやってもらうよ」
「本当ですか?」
「大工仕事が多いから」
エルクが嬉しそうに工具袋を持ち直した。
三つの工房を辞めた少年。
その中で最初に入ったのが大工の工房だった。
本人は中途半端だと思っているようだが、覚えた技術がなくなったわけではない。
「私は?」
リペが尋ねる。
「運搬」
「またですか!」
「重要だぞ」
「もっと職人っぽい仕事がしたいです!」
修は少し考えた。
「じゃあ、補修が終わった階段に危ないところがないか確認して」
リペの目が輝く。
「安全検査ですね!」
「そう」
「いっぱい跳んで――」
「歩くだけ」
「少しだけ跳んで――」
「歩くだけ」
「転がるのは?」
「もっと駄目」
リペは残念そうだった。
最初に取りかかったのは、一階から二階へ続く木製階段だった。
全部で三十二段。
そのうち五段に傷みがある。
エルクが一段ずつ調べる。
「ここは交換ですね」
「理由は?」
「中央が削れすぎてます。板そのものも薄くなってます」
「うん」
「こっちは補強だけで大丈夫だと思います」
「どうして?」
「端はしっかりしてるので、裏から支えを入れればまだ使えます」
修も確認する。
鑑定結果と一致していた。
「任せる」
エルクが驚く。
「全部?」
「この階段は全部」
「修さんは確認しないんですか?」
「最後に見る」
「もし失敗したら?」
「直す」
エルクが黙った。
修は笑う。
「失敗するなとは言わない。でも、人が歩く場所だから確認だけは何回でもして」
「……はい」
エルクは階段へ向き直った。
修はその間、上階の確認を進めた。
二階。
三階。
中央機構。
危険箇所へ印を付ける。
腐食した手すり。
反った床板。
閉まりにくい扉。
一つずつ記録する。
派手な故障はない。
だが、人が使う建物では、こういう場所の方が事故につながる。
三階の踊り場。
修は一枚の床板の前で止まった。
【損傷率:12%】
交換するほどではない。
歩いてみる。
ギシ。
少し沈む。
もう一度。
ギシ。
「補強かな」
印を付けようとした時だった。
「修さん!」
下からエルクが呼んだ。
「ちょっと来てもらえますか!」
一階へ戻る。
エルクは階段の途中で困った顔をしていた。
「どうした?」
「高さが合わないんです」
交換する予定だった五段のうち、二段を外してある。
新しい板も加工済み。
寸法は合っている。
「どこが?」
「ここです」
エルクが新しい踏み板を仮置きする。
確かに寸法は同じだ。
しかし、階段を上ってみると一段だけ少し高く感じる。
「二ミリくらい?」
「二・四です」
「それくらいなら――」
修は言いかけて止まった。
階段の一段。
二・四ミリ。
構造上は問題ない。
鑑定する。
【安全性:正常】
【使用可能】
「問題ないって出るな」
「ですよね」
エルクも困っている。
「でも、なんか歩きにくいんです」
修も上る。
やはり気になる。
大きな段差ではない。
転ぶほどでもない。
だが、足が一瞬だけ引っかかるような感覚がある。
そこへリペがやってきた。
「完成しましたか?」
「まだ」
「検査します!」
「待て」
止める前にリペが階段を上った。
一段。
二段。
三段。
問題の段。
「おっと」
リペの体が少し前へ傾いた。
転びはしない。
だが明らかに歩調が変わった。
「引っかかりました!」
「やっぱりか」
リペはもう一度上る。
また同じ場所で歩調が乱れる。
「危険です!」
「そこまでじゃない」
「では、やや危険です!」
「それくらいかな」
修は古い階段を調べた。
理由はすぐ分かった。
二百年以上使われた階段。
人々が同じ場所を何度も踏んだことで、中央部分だけ少しずつ削れている。
すべての段が同じように減っていた。
そのため、古い階段同士では高さが揃っている。
しかし一段だけ新品へ交換すると、そこだけ本来の厚さへ戻る。
結果として高くなる。
「新品だから合わないのか」
エルクが呟いた。
「そうみたいだな」
「じゃあ、新しい板を削ります?」
修は考える。
新品をわざと古くする。
少し前なら抵抗があったかもしれない。
だが継ぎ輪を作った時にも似たことがあった。
古い時計台を新品の部品に合わせるのではない。
新しい部品を、今の時計台へ合わせる。
「削ろう」
「二・四ミリ?」
「まず二ミリ」
「残りは?」
「歩いて決める」
鑑定の数字だけではなく、人間の足で確かめる。
エルクが慎重に板を削る。
取り付ける。
修が歩く。
まだ少し高い。
〇・二ミリ削る。
もう一度。
「これならいい」
リペも歩く。
「引っかかりません!」
「合格」
エルクが笑った。
その日の午後。
修は町長を呼んだ。
「ちょっと時計台を上ってください」
町長が怪訝な顔をする。
「何のために?」
「検査です」
「お前たちでやれないのか?」
「やってます。でも、町長にも歩いてほしい」
「なぜ俺なんだ」
「年齢が違うから」
町長の顔が険しくなる。
「喧嘩を売ってるのか?」
「違います」
「修さん、それ言い方が悪いです」
エルクが小声で助言する。
「じゃあ、どう言えばいい?」
「人生経験が豊富だから、とか」
「余計駄目だろ」
町長がため息をついた。
「もういい。上ればいいんだな」
町長に階段を歩いてもらう。
一階から二階。
二階から三階。
「どうです?」
「普通だ」
「手すりは?」
「少し低いな」
修が止まる。
「低い?」
「ああ。昔は気にならなかったが、今は少し怖い」
修は手すりを見る。
高さ八十七センチ。
鑑定。
【安全性:正常】
問題なし。
だが、町長は使いにくいと言った。
「なるほど」
修は記録する。
「何がなるほどなんだ?」
「鑑定だと正常です」
「じゃあ直さなくていいだろ」
「でも町長は怖いんですよね?」
「……まあな」
「なら直します」
町長が少し驚く。
修は手すりを見ながら考えた。
時計台を修理しているのは、時計台のためではない。
人が使うためだ。
安全という数字だけでは足りない。
安心して使えるか。
疲れずに歩けるか。
怖くないか。
それも修理の一部だ。
翌日。
修は少し変わったことをした。
時計台の入口に紙を貼った。
『時計台・階段試験協力者募集』
『一階から三階まで歩いて、気になった場所を教えてください』
集まったのは十二人。
若者。
老人。
パン屋の主人。
町長。
ロイ。
そして、なぜか昨日も歩いたリペ。
「お前は関係者だろ」
「一般利用者の気持ちで参加します!」
「どうやって切り替えるんだよ」
一人ずつ歩いてもらった。
すると、修たちだけでは気づかなかった問題が次々に出てきた。
「ここ暗いねえ」
老人が言う。
二階と三階の間。
確かに窓が少ない。
「この踊り場、休む場所ないの?」
別の老人。
今までは必要ないと思っていた。
「手すりが冷たい!」
ロイが言う。
金属製だから当然だと思っていた。
しかし冬ならもっと冷える。
パン屋の主人は言った。
「この角、荷物持ってると曲がりにくいな」
修たちは工具を持って何度も通っていたのに、気づかなかった。
身体の横に工具箱を下げることに慣れていたからだ。
十二人。
十二通りの意見。
すべて採用する必要はない。
だが、どれも実際に使う人の感覚だった。
エルクが大量のメモを見る。
「増えましたね、仕事」
「増えたな」
「聞かなければ六日で終わったかもしれませんね」
「そうだな」
「聞かなかった方がよかったですか?」
修は首を振った。
「知らないまま完成するよりいいよ」
工程表を書き直す。
照明を二箇所追加。
踊り場に休憩用の腰掛けを設置。
金属製手すりの一部に木製の握りを追加。
荷物を持って通る場所は角を広げる。
予定六日。
修正後。
七日。
一日延びた。
【完成目標まで:37日】
まだ余裕はある。
「修さん」
エルクが尋ねる。
「完成日に間に合わなかったらどうします?」
修は少し考えた。
四十六日後の正午。
時計台の鐘を鳴らす。
町の人たちへそう約束した。
「間に合わせる」
「やっぱり?」
「でも、危ないまま開けるくらいなら延期する」
「約束したのに?」
「ああ」
修は工程表を見る。
「日付を守るために、人が転ぶ階段を作ったら意味ないから」
エルクは少し考えてから頷いた。
五日目。
新しい手すりが完成した。
高さを少し上げ、握る部分だけ木材にした。
冬でも直接金属へ触れなくていい。
六日目。
踊り場に小さな腰掛けが設置された。
時計台の構造を傷つけないよう、壁へ固定せず自立式にした。
七日目。
照明を追加。
暗かった階段にも柔らかな光が届く。
最後に、十二人の協力者へもう一度歩いてもらった。
老人が手すりを握る。
「これならいい」
ロイが走ろうとする。
「走るな!」
修と町長が同時に叫んだ。
広場まで笑い声が響いた。
パン屋の主人は荷物を持って角を曲がる。
「通りやすくなった」
最後にリペ。
一段ずつ歩く。
上る。
下りる。
また上る。
「どう?」
修が尋ねる。
リペは腕を組んだ。
しばらく考える。
「跳んでもいいですか?」
「駄目」
「では完璧です!」
「何を検査してたんだよ」
修が鑑定する。
【第二工程:内部安全設備】
【進捗率:100%】
【内部安全設備損傷率:31% → 3%】
【一般利用推奨範囲:三階まで】
【第二工程:完了】
「終わった!」
エルクが声を上げる。
修は工程表に二本目の線を引いた。
第一工程。
基礎・建物構造。
第二工程。
内部安全設備。
七つのうち二つが終わった。
【全体工程進捗率:27%】
【完成目標まで:35日】
予定より一日遅れた。
しかし修は、まったく気にならなかった。
その日の夕方。
職人たちが帰った後。
修とエルクは、新しく設置した踊り場の腰掛けに座っていた。
「修さん」
「何?」
「修理って、どこまでやれば終わりなんですか?」
修は少し考えた。
壊れた場所を直す。
それなら簡単だ。
損傷率をゼロにする。
それも違う。
昔の姿へ戻す。
それも、もう違うと分かっている。
「使えるようになった時かな」
修は答えた。
「使える?」
「誰かが使うものなら、その人がちゃんと使えるところまで」
エルクは新しい手すりを見る。
「じゃあ、使う人によって修理の答えが変わりますね」
「ああ」
「面倒ですね」
「面倒だな」
二人で笑った。
その時。
階段の下からリペが顔を出した。
「ご主人様!」
「何?」
「大変です!」
修とエルクが立ち上がる。
「どこか壊れた?」
「違います!」
リペが一枚の紙を持って走ってくる。
「王都から手紙です!」
封筒には王国公認修理師を管理する機関の紋章。
修が受け取る。
「俺に?」
「はい!」
封を開ける。
中には正式な文書が入っていた。
修が読む。
そして。
途中で止まった。
「修さん?」
エルクが覗き込む。
修はもう一度、最初から読み直した。
内容は短かった。
『王国公認修理師 修殿』
『アルド大時計台の最終修復開始を確認した。』
『同時計台は王国歴史技術遺産への指定候補となっている。』
『よって修復完了時、王国技術院より検査官を派遣する。』
そこまでは理解できる。
問題は次だった。
『なお、歴史技術遺産指定基準に基づき、建造当初の構造から著しく変更された箇所については、原状復帰を求める場合がある。』
エルクが新しい手すりを見る。
修は地下を見る。
そこには。
アルドの旧共鳴機構を修理せず、修たちが新しく作った振動調整機構がある。
さらに。
継ぎ輪。
交換可能な部品。
現在の時計台へ合わせた修理。
修が今回やってきたことは。
建造当初への復元ではない。
「原状復帰……」
エルクが呟く。
リペが尋ねる。
「元に戻すんですか?」
修は手紙を見つめた。
アルドと同じものを作ることが、時計台を守ることなのか。
今の時計台に合わせて変えることが、時計台を守ることなのか。
技術的には。
修の答えはもう決まっている。
だが今度の相手は。
壊れた機械ではない。
制度だった。
完成目標まで、三十五日。
時計台修復に。
新しい問題が加わった。




