第84話 修理屋の弟子
時計台最終修復、第一日目。
朝日が町へ差し込む頃には、時計台の周囲で職人たちが動き始めていた。
石工が石材を運び、大工が足場を確認し、鍛冶屋たちは補強金具を並べている。昨日まで静かだった広場には資材置き場と作業小屋が設けられ、時計台全体を囲むように足場が伸び始めていた。
目標は四十六日後の正午。
二百三十八年前、アルド大時計台が初めて動いたのと同じ日に、もう一度鐘を鳴らす。
修は時計台の入口で工程表を確認した。
【アルド大時計台・最終修復】
【第一工程:基礎・建物構造補強】
【予定期間:7日】
【全体工程進捗率:0%】
最初の七日間で時計台そのものを安定させる。
そこから内部安全設備、中央時計機構、時計盤、鐘楼、外装へ進み、最後に全体調整を行う予定だった。
「ご主人様!」
背後から元気な声が聞こえる。
振り返ると、リペが大きな木箱を抱えて立っていた。
「本日の運搬係、準備完了です!」
「橋の時から完全に運搬係になったな」
「得意分野です!」
「適材適所だな」
「あと、これも持ってきました!」
リペが腰からしゃもじを抜く。
「置いてこい」
「まだ何もしてません!」
「何かする前に言ってるんだよ」
リペは残念そうにしゃもじを木箱へ戻した。
持って帰る気はないらしい。
修が時計台へ入ろうとした時だった。
入口の横に、一人の少年が立っていることに気づいた。
ロイではない。
年齢は十五、六歳くらいだろうか。茶色い髪を短く切り、少し大きめの作業着を着ている。肩には工具袋を下げていた。
少年は修と目が合うと、勢いよく頭を下げた。
「お願いします!」
「……何が?」
修は足を止めた。
少年も固まった。
「聞いてませんか?」
「何を?」
「俺、今日から修さんのところで働くことになってます」
初耳だった。
修がリペを見る。
リペも首を傾げる。
「新しいご主人様ですか?」
「違うだろ」
「では新しいリペですか?」
「もっと違う」
少年が困った顔をしている。
「町長さんから話があるって……」
修は何となく事情を察した。
十分後。
町長が呼び出された。
「言うのを忘れていた」
「忘れないでください」
「忙しかったんだ」
「誰なんです、この子」
少年が自分で答えた。
「エルクです。十六歳です」
「大工見習いだ」
町長が補足する。
「大工?」
「だった、だな」
修が眉を寄せる。
「だった?」
エルクが少し気まずそうに視線を逸らした。
町長が説明する。
「親方のところを辞めた」
「何かあったんですか?」
「三回だ」
「何が?」
「三回、別の工房を辞めてる」
修はエルクを見る。
十六歳で三回。
なかなかの回数だ。
「最初は大工。次は鍛冶屋。その次は細工師」
「全部違うじゃないですか」
「そうなんです」
エルクが答えた。
「やってみたんですけど、なんか違って」
「何が?」
「分かりません」
「分からない?」
「嫌いじゃないんです。でも、ずっと木だけ削るのも違うし、鉄だけ叩くのも違うし、細かい飾りを作るのも……」
エルク自身もうまく説明できないようだった。
町長がため息をつく。
「腕が悪いわけじゃない。どこの親方も、覚えるのは早いと言っている」
「じゃあ、なんで俺のところに?」
「何でも直すだろ、お前」
修は黙った。
確かにそうだった。
時計。
鍋。
椅子。
橋。
水路。
玩具。
時計台。
修理屋という仕事は、扱うものが一つではない。
エルクが修を見る。
「弟子にしてください」
「弟子?」
「はい」
修は困った。
自分はまだ、人に教えられるほど立派な職人だと思っていない。
つい最近までアルドの残したものを追いかけ、各地で知らないことを学んでいた側だ。
「俺、弟子を取るつもりないんだけど」
エルクの顔が曇る。
「そうですか……」
「ただ」
修は少年の工具袋を見る。
使い込まれてはいない。
それでも、大工道具、鍛冶用の小槌、細工用のヤスリが入っている。
三つの工房を渡り歩いた痕跡だった。
どれも中途半端。
そう言ってしまえば簡単だ。
だが、三種類の仕事を少しずつ知っているとも言える。
「時計台の修理、手伝ってみる?」
エルクが顔を上げた。
「いいんですか?」
「弟子にするかは、その後で」
「やります!」
「ただし、いきなり重要なところは触らせないからな」
「はい!」
リペが横から手を挙げる。
「私が先輩です!」
「お前は弟子じゃない」
「先にいました!」
「それはそうだけど」
エルクがリペへ頭を下げる。
「よろしくお願いします、先輩!」
「任せてください!」
「変なこと教えるなよ」
修の仕事が一つ増えた気がした。
最初に行うのは、時計台基礎部分の確認だった。
建物を支える巨大な石組み。
二百三十八年間、時計台の重量を受け続けてきた場所だ。
修が鑑定する。
【基礎構造】
【損傷率:9%】
【重大損傷:なし】
【補修推奨箇所:14】
【目地劣化:37箇所】
【北東部沈下:6.2ミリ】
エルクが表示を見て目を丸くした。
「そんなことまで分かるんですか?」
「ああ」
「便利ですね」
「便利だよ」
「じゃあ、鑑定すれば何でも直せますね」
修はエルクを見る。
「それは違う」
少年がきょとんとする。
修は北東部の石へ手を当てた。
「ここが六・二ミリ沈んでることは分かる。でも、どうして沈んだかは別だ」
「鑑定では分からないんですか?」
「もっと深く見れば分かることもある。でも、表示された答えだけ見て直すと失敗することがある」
星渡り大橋でもそうだった。
数値だけでは分からないことがあった。
橋守が聞き分けた音。
昔の職人が残した補強。
町の人々が何を守りたいのか。
修理する対象だけ見ていても、本当の原因が見えない場合がある。
「じゃあ、何を見るんです?」
「周り」
修は立ち上がった。
時計台の北東側へ回る。
地面。
雨樋。
石畳。
近くの建物。
エルクもついてくる。
「何か気づく?」
「え?」
「北東側だけ沈んでる理由」
エルクは地面を見る。
石を見る。
上を見る。
「……分かりません」
「俺もまだ分からない」
「分からないんですか?」
「だから調べる」
修は笑った。
「分からないことを分からないままにしないのが、最初の仕事だ」
二人で周囲を調べた。
リペも参加した。
「怪しいものを探します!」
「壊すなよ」
「探すだけです!」
十分後。
「ご主人様!」
リペが呼んだ。
時計台の裏側。
古い雨樋の下だった。
「ここ、濡れてます!」
確かに地面が湿っている。
今日は晴れている。
昨日も雨は降っていない。
修が雨樋を調べる。
【対象:北東雨水管】
【損傷率:22%】
【地下部亀裂あり】
【漏水:微量】
地下へ流れるはずの雨水が途中で漏れ、長い年月をかけて基礎周辺の土を少しずつ削っていた。
「これか」
エルクが驚く。
「雨樋が原因なんですか?」
「正確には地下の排水管だな」
「でも、時計台の基礎を直すんですよね?」
「だから先にこっちを直す」
原因を残したまま基礎だけ持ち上げても、また沈む。
修はエルクを見る。
「これが、さっき言った周りを見るってこと」
エルクは何度も頷いた。
排水管の修理は、それほど難しくなかった。
破損部分を掘り出し、古い管を交換する。
エルクには掘削と部材加工を任せた。
大工、鍛冶、細工。
三つの工房で覚えた技術が、意外なところで役に立った。
木製の仮固定具を作る。
金属管の接続部を調整する。
細かな段差をヤスリで整える。
修は途中から口を出す回数を減らした。
「そこ、あと一ミリ削って」
「はい」
エルクがヤスリを動かす。
「削りすぎ」
「あっ」
「戻せないから少しずつ」
「すみません」
「失敗した部品は取っておいて」
「捨てないんですか?」
「後で見るから」
「何を見るんです?」
「なんで失敗したか」
エルクは失敗した接続部をしばらく見てから、工具箱の端へ置いた。
午後。
排水管の交換が終わった。
【北東雨水管】
【損傷率:22% → 2%】
【漏水:なし】
これで基礎沈下の原因は止まった。
だが、沈んだ六・二ミリは残っている。
石工たちと相談し、時計台の荷重を一時的に分散させながら、北東部分を少しずつ持ち上げることになった。
エルクが巨大な基礎を見る。
「六ミリだけ直すのに、こんなに準備するんですか?」
「六ミリだからだよ」
「どういうことです?」
「六センチなら誰でも異常だって気づく。六ミリは気づきにくい」
小さなずれ。
小さな亀裂。
小さな音。
それを放っておくと、いつか大きな故障になる。
第一の音。
傷みの音。
修は旅の最初に学んだことを思い出していた。
「大きく壊れてから直すより、小さいうちに直した方が楽だ」
「なるほど」
「だから修理屋は、壊れたものだけ直す仕事じゃない」
エルクが修を見る。
「壊れそうなものも?」
「ああ」
「壊れてないものも見る?」
「必要なら」
エルクは少し考えていた。
夕方。
第一日目の作業が終了した。
【第一工程:基礎・建物構造補強】
【進捗率:11%】
【全体工程進捗率:2%】
予定通りだった。
職人たちが帰っていく。
エルクも工具を片付けていた。
修は今日使った道具を確認している。
すると、エルクが昼間失敗した接続部を持ってきた。
「修さん」
「何?」
「これ、分かりました」
「何が?」
「削りすぎた理由です」
修は手を止めた。
「力を入れすぎた?」
「それもあります。でも、最初に測った時点で線が太かったんです」
エルクが部品を見せる。
加工位置を示す線。
確かに少し太い。
「線の内側まで削るのか、外側まで削るのか、自分でちゃんと決めてませんでした」
修は何も言わず続きを待った。
「だから途中から、どこまで削ればいいか分からなくなって……最後に合わせようとして削りすぎました」
自分で原因を見つけた。
「次は?」
修が尋ねる。
「細い線を引きます。それから、線を残す側を先に決めます」
「うん」
「それでいいですか?」
「俺に聞く前に、次やって確かめてみればいい」
エルクが少し笑った。
「はい」
少年が帰った後。
リペが修の隣に立った。
「ご主人様」
「何?」
「先生みたいでした!」
「やめてくれ」
「師匠です!」
「まだ弟子にしてない」
「でも教えてました」
「仕事を手伝ってもらったからな」
リペは少し考える。
「アルドさんと同じですね」
修の手が止まった。
「どこが?」
「アルドさんは、ご主人様にいっぱい教えました」
「直接会ったことないけどな」
「でも、教えてくれました」
遺産。
設計図。
記録。
失敗。
選択。
アルドが残したものから、修は多くを学んだ。
「今度は、ご主人様が教える番です!」
リペは単純にそう言った。
修は時計台を見上げた。
自分はまだ、アルドのような職人ではない。
きっと一生そうはならない。
なる必要もないのかもしれない。
継ぎ輪に書いた言葉を思い出す。
『私の設計にこだわる必要はない。』
アルドと同じになることが継承ではない。
アルドから受け取ったものに、自分が学んだことを加え、次へ渡す。
それでいい。
翌朝。
時計台へ行くと、エルクはすでに来ていた。
昨日失敗したものと同じ接続部材を加工している。
線は細い。
削る側には、小さく印まで付けてある。
修は少し離れたところから見ていた。
やがて加工が終わった。
エルクが寸法を測る。
「……できた」
修も確認する。
誤差〇・一ミリ以内。
十分だった。
エルクが嬉しそうに振り返る。
「修さん!」
「合格」
「やった!」
「じゃあ、それ使おう」
「本番で?」
「使えるものを練習用にする方がもったいないだろ」
エルクは完成した部品を大事そうに持った。
時計台の地下。
昨日直した排水管へ、新しい接続部が取り付けられる。
二百三十八年前の建物に。
十六歳の少年が作った部品が加わった。
修はその様子を記録帳へ書き込んだ。
『北東雨水管接続部交換』
『製作者――エルク』
横から覗いたエルクが驚く。
「俺の名前、書くんですか?」
「作ったんだから」
「でも、ただの接続部ですよ」
修は少年を見る。
「ただの部品だから書くんだよ」
「え?」
「大きな部品だけで時計台ができてるわけじゃない」
一万二千八百四十二個。
その一つ一つに役割がある。
誰かが作り。
誰かが取り付け。
誰かが直してきた。
名前が残っていない職人も大勢いるだろう。
「次にここを直す人が、この部品を見つけるかもしれない」
百年後かもしれない。
もっと先かもしれない。
「その時、誰がどうして交換したのか分かった方がいい」
エルクは自分の名前が書かれた記録を見つめていた。
「……修さん」
「何?」
「俺、もう一個作っていいですか?」
「壊れてないところまで交換するなよ」
「違います!」
エルクが笑った。
「次に必要なやつです」
「それなら頼む」
少年は工具を持って走っていった。
少しして、修が声を上げる。
「時計台の中では走るな!」
「すみませーん!」
遠くから返事が聞こえた。
リペが隣で腕を組んでいる。
「弟子ですね」
「まだ決めてない」
「弟子です」
「だから――」
「ご主人様」
リペが得意げに言った。
「直すところを見つけるのは得意ですが、自分のことは分からないんですね」
修は何も言えなかった。
時計台の中から、金槌の音が聞こえてくる。
修の音ではない。
アルドの音でもない。
これから職人になる少年の音だった。
カン。
カン。
カン。
時計台の修理は、まだ始まったばかりだ。
完成まで四十五日。
けれど修は、その音を聞きながら思った。
時計台が再び動き出すよりも先に。
もう一つ、新しいものが動き始めたのかもしれない。
技術は、人から人へ渡っていく。
それはどんな歯車よりもゆっくりで、不確かで、時には途中で止まる。
それでも誰かが次の一打を振るう限り、また動き始める。
修は工具箱を持ち上げた。
「さて、俺も仕事するか」
時計台の中に、二つの金槌の音が響き始めた。




