第83話 最後の修理を始めよう
【時計台・最終修復条件達成】
その文字を、修はしばらく見つめていた。
長かった。
この町へ来て、リペア工房を始めた頃から、ずっと目の前にあった時計台。
最初に調べた時は、あまりにも壊れている場所が多すぎて、どこから手を付ければいいのかさえ分からなかった。
一つ直せば、別の問題が見つかった。
地下にはアルドの工房があり、そこから七つの遺産へつながる旅が始まった。
傷みの音を知った。
風を待つことを覚えた。
帰る場所の意味を知った。
終わらせることも修理だと学んだ。
技術は次へ渡さなければ残らないと知った。
誰かに答えを与えられるのではなく、自分で選ばなければならない時があることも知った。
そして最後に、自分自身で第七の遺産を作った。
継ぎ輪。
それが完成した今、ようやく時計台のすべてを直すことができる。
「ご主人様」
リペが隣から表示を覗き込んだ。
「最終修復です!」
「ああ」
「最終ということは、最後ですね!」
「そういう意味だな」
「直したらどうするんですか?」
修は答えようとして、少しだけ止まった。
時計台を直す。
それはずっと目標だった。
だが、直した後のことを真剣に考えたことはなかった。
星渡り大橋が直った時のミレアと同じだ。
「……直してから考えるよ」
「ミレアさんと同じです!」
「俺も今そう思った」
修は笑った。
先のことは、その時に決めればいい。
今は目の前に、まだ壊れているものがある。
翌朝。
修は一人で時計台の前に立っていた。
まだ町が動き始める前の時間だった。
朝靄の中に、巨大な時計台がそびえている。
針は動いている。
昨日修復した駆動機構と継ぎ輪によって、試験運転は続いていた。
しかし、まだ時計として完成したわけではない。
鐘は鳴らない。
時刻にも微妙なずれがある。
内部には未修復の機構がいくつも残っている。
外壁も傷んでいる。
階段もすべてを一般開放できる状態ではない。
修は時計台へ手を当てた。
「さて」
いつものように問いかける。
「どこが痛い?」
鑑定が始まった。
【対象:アルド大時計台】
【建造年:約238年前】
【設計者:アルド】
【全高:47.3メートル】
【総部品数:12,842】
修の表情が止まった。
「一万……」
後ろからリペがやってきた。
「ご主人様、おはようございます!」
「おはよう」
「何個壊れてました?」
「まだそこまで見てない」
リペも表示を覗き込む。
「一万二千八百四十二!」
「ああ」
「いっぱいです!」
「見れば分かる」
鑑定は続く。
【総合損傷率:28%】
【主要機構損傷率:17%】
【外装損傷率:39%】
【鐘楼機構損傷率:46%】
【内部安全設備損傷率:31%】
【基礎構造損傷率:9%】
以前に比べれば、かなり改善している。
旅へ出る前までに修復した部分。
昨日直した針駆動部。
継ぎ輪。
それらが総合損傷率を押し下げていた。
だが二十八%。
小さな道具なら、とっくに使用禁止と判断する数字だ。
さらに表示が現れる。
【最終修復推定期間】
修は身構えた。
星渡り大橋では十二日という数字が出た。
今回は、それより遥かに大きい。
【単独作業:約143日】
「長っ」
思わず声が出た。
「百四十三日ですか?」
「ああ」
「寝なければ――」
「その計算はもういい」
「今回は成功するかもしれません!」
「しない」
四か月以上。
しかもこれは一日八時間程度を作業時間とした場合の推定だろう。
一人で直すなら、それくらいかかって当然だった。
「また人を集めますか?」
リペが尋ねる。
修は時計台を見上げる。
星渡り大橋では、東西の職人たちが一緒に作業した。
だが今回は少し事情が違う。
精密な時計機構が多い。
誰にでも任せられる仕事ではない。
「まず工程を分けよう」
修は時計台内部へ入った。
一階。
二階。
三階。
鐘楼。
中央機構。
針駆動部。
地下。
一つずつ確認していく。
午前いっぱいを使って、修復が必要な箇所を分類した。
昼前。
工房の作業台には巨大な工程表が広げられていた。
「できました!」
リペが端を押さえている。
「お前は何もしてないだろ」
「紙が丸まらないようにしています!」
「重要だった。ありがとう」
「やりました!」
修復工程は、大きく七つに分けられた。
第一工程。
基礎と建物構造の最終補強。
第二工程。
階段、手すり、床などの安全設備。
第三工程。
中央時計機構。
第四工程。
四面の時計盤と針。
第五工程。
鐘楼機構。
第六工程。
外壁と屋根。
そして第七工程。
全体調整。
リペが工程表を見る。
「七個です!」
「偶然だろ」
「遺産も七個です!」
「偶然だって」
「アルドさんが狙ってます!」
「工程を分けたのは俺だ」
「では、ご主人様が狙ってます!」
「狙ってない」
修は各工程に必要な技能を書き込んでいった。
石工。
大工。
鍛冶屋。
屋根職人。
左官職人。
時計機構だけは、修が中心になる。
「これなら……」
一人で百四十三日。
しかし、一人で全部やる必要はない。
その日の午後。
修は町長を訪ねた。
「時計台の最終修復を始めます」
町長は一瞬黙った。
そして椅子から立ち上がった。
「ついにか」
「はい」
「どれくらいかかる?」
「俺一人なら百四十三日」
「長いな」
「なので、人を借りたいです」
修は工程表を広げた。
町長はしばらく眺めた後、尋ねる。
「何人必要だ?」
「まだ分かりません」
「予算は?」
修が止まった。
「……予算?」
「当たり前だろ」
「ですよね」
「まさか全員ただで働かせるつもりだったのか?」
「そこまで考えてませんでした」
町長が頭を抱えた。
「お前、橋を直して帰ってきても、その辺は全然成長してないな」
返す言葉がない。
時計台は町の建物だ。
当然、修復費用が必要になる。
材料費。
人件費。
足場。
安全設備。
修は技術的なことばかり考えていた。
「見積もりを作ります」
「そうしてくれ」
「何日くらいで?」
「それを俺に聞くな」
「ですよね」
工房へ戻り、修は生まれて初めてと言っていいほど真剣な見積書作りを始めた。
必要な材料を数える。
職人数を計算する。
作業日数を見積もる。
足場費用。
運搬費。
予備費。
リペも隣で手伝っている。
「ご主人様」
「何?」
「しゃもじ代がありません」
「いらない」
「現場で使うかもしれません!」
「使わない」
「橋では使いました!」
「泥を一回すくっただけだろ」
「実績があります!」
「却下」
リペが残念そうに『しゃもじ予備費』の文字を消した。
三日かかった。
修理そのものではなく、見積もりに三日。
修にはこちらの方が疲れた。
町長へ提出する。
「……高いな」
「ですよね」
修もそう思う。
時計台の規模を考えれば当然だが、小さな修理とは桁が違う。
町長は数字を眺める。
「ただ、払えない額じゃない」
修が顔を上げる。
「本当ですか?」
「時計台修復用の積立がある」
「そんなものが?」
「昔からな」
町長は苦笑した。
「直せる人間がいなかったから、ほとんど使われなかったが」
何十年も。
何代もの町長が。
いつか時計台を直せる日が来るかもしれないと、少しずつ金を残していた。
「それと」
町長が別の書類を出す。
「王都から補助金が出る」
「王都?」
「お前が王国公認修理師になっただろ」
修は完全に忘れていた。
「そういえば」
「そういえばじゃない」
アルドの時計台。
七つの遺産。
王国公認修理師。
条件を満たせば、歴史的建造物の修復支援制度を利用できるという。
町長が計算する。
「町の積立と王都の補助。残りを今年度予算から出せば……いける」
修は工程表を見る。
これで材料が買える。
職人も雇える。
「ただし条件がある」
町長が言った。
「何です?」
「町民に説明する」
「説明?」
「町の金を使うんだ。勝手に始めるわけにはいかない」
当然だった。
一週間後。
時計台前の広場に、大勢の町民が集まった。
修は時計台を背に立っている。
人前で話すのは得意ではない。
「ご主人様、緊張してます?」
「少し」
「私が話しましょうか?」
「余計怖い」
「得意です!」
「だから怖いんだ」
町長が前へ出る。
「これから、時計台の最終修復について説明する」
ざわめきが止まる。
修復費用。
工期。
町の負担。
王都からの補助。
そして修復後の利用計画。
町長が一通り説明した後、修へ交代する。
「修理を担当する修です」
知ってる、とどこかから声が飛んだ。
少し笑いが起きる。
おかげで緊張が和らいだ。
「この時計台は、昔とまったく同じ姿には戻しません」
人々が静かになる。
「もちろん、残せるものは残します。でも、安全のために交換するものもあります。今の材料を使う場所もあります。それから、将来また修理できるように、構造を少し変える場所もあります」
老人たちも。
子供たちも。
店主たちも聞いている。
「俺が直して終わりにはしたくありません」
修は時計台を見上げた。
「十年後、五十年後、百年後。また壊れると思います」
少しざわめきが起きる。
修は続けた。
「壊れます。建物なので」
今度は笑いが起きた。
「だから、次に壊れた時も直せる時計台にします。今回使う材料、交換した部品、失敗したこと、全部記録に残します」
継ぎ輪と同じだ。
完成とは、二度と触らなくていい状態にすることではない。
次の人へ渡せる状態にすること。
質問が始まった。
「鐘は鳴るのか?」
「鳴らします」
老人が嬉しそうに頷く。
「上まで登れる?」
ロイだった。
「安全確認が終わったら、展望階まで開放できるようにします」
「やった!」
子供たちから歓声が上がる。
パン屋の主人が聞く。
「観光客が増えたら、広場に店出していいか?」
町長が答える。
「それは別の話だ」
笑いが起きる。
最後に、一人の女性が尋ねた。
「いつ完成するんですか?」
修は工程表を見る。
職人を確保した場合の推定。
約四十五日。
「順調なら、一か月半くらいです」
おお、と声が上がる。
その瞬間。
リペが横から修の服を引っ張った。
「ご主人様」
「何?」
「四十五日後って、何の日ですか?」
「何の日?」
「カレンダーです」
修は日付を確認した。
四十五日後。
特別な祝日ではない。
だが町長が言った。
「一日ずらせないか?」
「一日?」
「四十六日後」
町長は時計台を見る。
「アルド大時計台が最初に動いた日だ」
修は驚いた。
「記録が残ってるんですか?」
「ああ。町の創設記録にな」
二百三十八年前。
アルドが時計台を完成させ、初めて鐘を鳴らした日。
その日まで、四十六日。
「一日余裕がありますね!」
リペが言う。
「余裕って言うほどじゃないけどな」
「では決まりです!」
「勝手に決めるな」
しかし。
修も時計台を見上げた。
悪くないと思った。
二百三十八年前。
この町に初めて時を告げた日。
その同じ日に。
もう一度、鐘を鳴らす。
修は町長を見る。
「目標にしましょう」
「ああ」
こうして。
時計台最終修復の完成予定日が決まった。
四十六日後。
正午。
アルド大時計台の鐘を鳴らす。
町の人々から拍手が起こった。
その中でリペが、誰よりも大きな声で叫んだ。
「時計台修理、開始です!」
「まだ職人集めてないぞ」
「気持ちの開始です!」
「便利な言葉だな」
翌朝。
時計台の周囲に最初の足場が組まれ始めた。
石工が来た。
大工が来た。
鍛冶屋が来た。
屋根職人が来た。
町の人々が足を止め、その様子を眺めている。
修は工具箱を持って時計台の入口に立った。
隣にはリペ。
腰には、なぜかしゃもじ。
「それ必要?」
「念のためです!」
「何の念だよ」
修は笑って、時計台の扉を開けた。
四十六日後。
この町に、鐘が鳴る。
だが今はまだ。
直すべき場所が山ほどある。
だから。
一つずつ直せばいい。
修は時計台へ手を触れた。
「最後の修理を始めよう」
二百三十八年の時を越えた大時計台。
その最終修復が、ついに始まった。




