第73話 百年待った町
「橋を完全に直して」
西星町の橋守、ミレアはそう言って頭を下げた。
周囲に集まった人々も、修を見つめている。
期待。
それだけではない。
不安。焦り。願い。
百年という時間が積み重なった視線だった。
修は、すぐには答えなかった。
「まず、話を聞かせてください」
ミレアが顔を上げる。
「東星町でも同じことをしました。橋を直すかどうか決める前に、西星町のことも知りたい」
「……分かった」
ミレアは頷いた。
「なら、見てほしいものがある」
西星町を歩く。
東星町とは、明らかに様子が違った。
人が少ない。
それ以上に目立つのは、使われなくなった建物だった。
閉じた宿。
看板を下ろした商店。
雑草に覆われた工房。
窓を板で塞いだ家。
それでも廃墟ではない。
道は掃除されている。
水路も手入れされている。
残った人々が、この町をまだ生活の場所として守っている。
「人口は?」
修が尋ねる。
「今は六百十二人」
ミレアが答えた。
「一番多かった時は?」
「二千人を超えていたらしい」
リペが驚く。
「四分の一くらいです」
「ああ。特にこの三十年で減った」
ミレアが一軒の閉じた店を見る。
「若い人間から出ていく。仕事がないから」
「橋が原因?」
「大きい」
完全には直されない橋。
風向きによって通行できない。
重い荷物を運べる日も限られる。
商人にとって、安定しない道は使いにくい。
結果。
少しずつ交易路から外された。
「東には王国街道がある。でも西には、この橋しかない」
ミレアが言う。
「橋がなくなれば?」
リペが尋ねる。
ミレアは少し黙った。
「町としては、終わると思う」
その言葉は静かだった。
歩いていると、一人の老人が小さな店の前に座っていた。
店先には木箱。
中には乾燥させた薬草。
老人がミレアを見る。
「客か?」
「修理屋」
「ほう」
老人の目が修へ向く。
「橋を直す奴か」
修は苦笑した。
「まだ決めてません」
「そうか」
老人は意外にも怒らなかった。
「それでいい」
ミレアが少し驚く。
「爺さん?」
「橋はでかいからな。鍋みたいに、穴塞いで終わりってわけにはいかん」
「鍋も物によりますけどね」
修が答えると、老人が笑った。
「真面目な修理屋だ」
リペが胸を張る。
「ご主人様は鍋も時計台も同じ顔で直します!」
「褒めてる?」
「もちろんです!」
老人の店。
屋根の端。
一枚の板。
外れかけている。
修は見上げた。
「屋根、危ないですよ」
「知っとる」
「直さないんですか?」
「直せる奴が減った」
老人はあっさり言った。
「大工の若いのも去年、東へ行った」
ミレアが工具を取り出そうとする。
だが修が止めた。
「俺がやります」
「橋を見に来たんじゃないのか?」
「こっちも壊れてるので」
リペが嬉しそうに言う。
「始まりました!」
「何が?」
「出張リペア工房です!」
「勝手に開店するな」
屋根板。
損傷率十三パーセント。
釘が二本抜け、下地が少し傷んでいるだけだった。
板そのものは、まだ使える。
修は古い釘を抜き、下地を補強して固定し直した。
十分ほど。
「終わりました」
老人が屋根を見上げる。
「早いな」
「軽いうちでしたから」
「いくらだ?」
修が考える。
「薬草って何に使えます?」
「傷薬になる」
「じゃあ少しください」
老人が笑う。
「ノアみたいな奴だな」
修の手が止まった。
「……ノア?」
ミレアも老人を見る。
「知ってるの?」
「知っとるよ」
老人は何でもないように答えた。
「俺がガキの頃、一度この町に来た」
修とリペが顔を見合わせる。
「旅商人でしたか?」
「ああ。変な商人だった」
老人は笑う。
「売るより直してる時間の方が長かった」
「やっぱり……」
「橋も見てたぞ」
修の表情が変わる。
「橋を?」
「ああ。何日もな」
老人は少し考える。
「確か、橋守と喧嘩してた」
「喧嘩?」
リペが食いつく。
「ノアさん強かったんですか?」
「そっちじゃない」
「残念です」
「何を期待してるんだ」
老人によれば、ノアがこの町を訪れたのは六十年以上前。
その頃から橋はすでに壊れた状態を維持していた。
ノアは橋を調べ、東と西を何度も往復した。
「最後に何か言ってませんでした?」
修が尋ねる。
老人は目を閉じる。
遠い記憶。
「……全部直せばいいってもんじゃない、とか」
修が黙る。
「それから……そうだ」
老人は指を一本立てた。
「橋を直す前に、橋がなくても生きられるようにしろ」
ミレアの顔が強張った。
「橋がなくても?」
「ああ。そんなこと言ってた」
「無理よ」
ミレアは即座に答えた。
「西には街道がない。水も少ない。橋がなくなったら――」
「俺に言うな」
老人が笑う。
「六十年以上前のノアに言え」
リペが小声で修に言う。
「ノアさん、難しい宿題を置いていきました」
「ああ」
修は鞄からノア修理記録を取り出した。
ページをめくる。
今まで何度も読んだ記録。
荷車。
扉。
木馬。
第五の遺産。
だが。
星渡り峡谷という文字はない。
「書いてない……」
「忘れたんでしょうか?」
「ノアが?」
修は首を振る。
あの男は、自分が必要だと思った修理を記録していた。
なら。
書かなかった理由があるのかもしれない。
町の奥へ進む。
次にミレアが案内したのは、小さな貯水池だった。
水面。
低い。
「これが西の水?」
「ああ。峡谷から来る三割の一部を貯めている」
修は水路を見る。
古い。
何度も補修されている。
【対象:西星町導水路】
【損傷率:23%】
【漏水率:17%】
「……十七パーセント」
「何が?」
「来た水の十七パーセントが途中で漏れてます」
ミレアが目を見開く。
「そんなに?」
修は水路沿いを見る。
石積み。
亀裂。
継ぎ目。
地盤沈下。
一箇所ではない。
長い年月。
少しずつ。
漏れている。
「これ、直してないんですか?」
ミレアが苦い顔をした。
「直してる。でも人が足りない」
大工。
石工。
水路職人。
若い者。
町から減った。
直す人が減る。
壊れる。
暮らしにくくなる。
さらに人が出ていく。
また直す人が減る。
悪循環。
修がしゃがみ込む。
「全部は無理だけど」
「漏れが大きいところだけなら」
ミレアが驚く。
「今やるの?」
「橋を考えるためにも」
修は水路へ触れる。
「今の西が、どこまで自分で生きられるのか知りたい」
鑑定。
漏水箇所。
大。
四。
中。
十一。
小。
多数。
「ミレアさん」
「何?」
「水路の修理ができる人」
「何人います?」
「私を入れて七人」
「呼べます?」
ミレアは少し考えた後、頷いた。
一時間後。
七人。
集まった。
修が。
全部を直す。
のではない。
「一番漏れてる四箇所だけ、今日やります」
「残りは?」
一人の職人が聞く。
「やり方を見せます」
修が答える。
「俺が帰った後も直せるように」
フロストベルで学んだこと。
修理屋がいなくなったら、また壊れる。
それでは。
修理したことにならない。
石。
外す。
古い目地。
除去。
新しい材料。
ただし。
この土地で。
手に入るものだけ。
特殊素材。
使わない。
一箇所目。
修が直す。
二箇所目。
ミレアと一緒。
三箇所目。
西の職人たち。
修は横から助言。
四箇所目。
修はほとんど。
手を出さない。
夕方。
水。
流す。
【西星町導水路】
【損傷率:23% → 16%】
【漏水率:17% → 8%】
リペが歓声を上げる。
「半分以下です!」
ミレアは流れる水を見つめる。
貯水池へ。
今までより。
少し強く。
水が流れ込む。
「こんなに……」
修が言う。
「橋だけじゃなかったんですね」
ミレアが修を見る。
「何が?」
「西星町が苦しくなった理由」
橋。
だけではない。
人が減った。
修理する人が減った。
水路が壊れた。
水が減った。
暮らしにくくなった。
また人が減った。
百年。
全部が。
絡んでいる。
リペが水路を見る。
「じゃあ」
「全部直せば」
「橋を直さなくても大丈夫ですか?」
修は首を振った。
「そこまでは分からない」
物流。
仕事。
医薬品。
食料。
橋の役割。
大きい。
でも。
一つ。
分かった。
『橋を直す』
『橋を直さない』
本当に。
選択肢は。
二つだけなのか。
その夜。
西星町。
ミレアの家。
小さな食卓。
修とリペ。
夕食。
ミレア。
一人暮らし。
らしい。
パン。
豆の煮込み。
干し肉。
リペ。
しゃもじ。
「……」
ミレアが見る。
「それで食べるの?」
「はい!」
「使いにくくない?」
「慣れました!」
修がため息。
「慣れなくていいのに」
食事中。
修が尋ねる。
「ミレアさんは」
「どうして橋守に?」
「父も橋守だった」
「その前は?」
「祖父」
「その前は?」
「曾祖父」
修は少し驚く。
「ずっと?」
「ああ」
ミレアがパンをちぎる。
「うちの家は、四代ずっと橋を直してきた」
「完全に直さないように?」
「……そう」
「辛くなかったですか?」
ミレアの手が止まる。
「辛いよ」
静かな声。
「橋守なのに、橋を直しちゃいけない」
修は何も言わない。
「父がよく言ってた」
ミレアは続ける。
「今日も橋を直した。でも今日も橋は壊れたままだ、って」
リペも黙って聞いている。
「毎日直して」
「毎日壊れたまま」
「それを何十年も」
ミレアは自分の手を見る。
傷。
油。
「だから私は」
「完全に直したい」
修が尋ねる。
「西星町のためだけじゃなく?」
ミレアは少し笑った。
「……そうかもしれない」
初めて。
本音。
出た。
「私は」
「直った橋を見たい」
ミレアが言う。
「曾祖父も、祖父も、父も見られなかった」
「私もこのまま」
「壊れた橋を直し続けて死ぬのは嫌だ」
正しい。
それも。
間違っていない。
町を救いたい。
家業を終わらせたい。
自分の仕事を。
完成させたい。
全部。
本当。
修はアルドの言葉を思い出す。
『天秤に嘘は置けない。』
ミレアは。
今。
自分の本音を。
置いた。
夜。
皆が寝た後。
修は宿の外に出た。
西星町。
静か。
遠く。
橋。
月明かり。
その中央。
第六の遺産。
星渡りの天秤。
まだ。
扉の中。
「眠れませんか?」
リペ。
後ろ。
しゃもじ。
持っている。
「なんでしゃもじ持ってるの?」
「護身用です」
「武器にするな」
リペが。
修の隣。
座る。
「ご主人様」
「ん?」
「今日」
「水路直しました」
「ああ」
「橋を直しに来たのに」
「ああ」
「いつも通りですね」
修が笑う。
「そうだな」
目的地。
行く途中。
壊れたもの。
見つける。
直す。
寄り道。
第二の遺産。
『急がなくていい。寄り道こそ、旅の宝物だから。』
そして。
ノア。
『橋を直す前に、橋がなくても生きられるようにしろ。』
修が。
ノア修理記録を。
もう一度。
開く。
ぱら。
ぱら。
ページ。
最後。
何もない。
はずだった。
だが。
一枚。
薄く。
文字。
浮かんでいる。
「……リペ」
「はい?」
「出た」
「何がです?」
修が。
ランタンを。
近づける。
文字。
ゆっくり。
濃くなる。
『星渡り峡谷』
リペが。
目を見開く。
「ノアさん!」
続く。
『師匠。』
『俺には』
『この橋を直せなかった。』
修。
息を止める。
『東も正しい。』
『西も正しい。』
『だから』
『俺は』
『どちらも選べなかった。』
ページ。
下。
さらに。
『でも』
『今なら』
『少しだけ分かる。』
『橋を直すかどうかを』
『最初に決める必要はなかった。』
修が。
顔を上げる。
リペも。
静か。
読む。
『橋がなくなれば困るなら』
『橋がなくても困らないようにする。』
『水が減れば困るなら』
『水が減っても困らないようにする。』
そして。
『選べないなら』
『選ばなくていい方法を』
『先に探せ。』
修の目。
少し。
大きくなる。
「……ノア」
最後。
『それでも』
『最後に一つしか選べなかった時』
『その時は』
『逃げずに選べ。』
文字。
止まる。
リペが。
長く。
息を吐いた。
「ノアさん」
「答え」
「知ってたんですね」
修は首を振る。
「違う」
「え?」
「答えじゃない」
ノア自身。
書いている。
橋を直せなかった。
選べなかった。
これは。
正解。
ではない。
「やり方を」
「一つ残しただけだ」
リペが。
首を傾げる。
「やり方?」
「ああ」
修は西星町を見る。
水路。
今日。
直した。
漏水。
十七から。
八。
もし。
もっと直せば。
西は。
三割の水でも。
今より。
使える。
なら。
東は?
東も。
今の七割から。
五割になっても。
困らないように。
できることが。
あるかもしれない。
修が。
立ち上がる。
「明日」
「東へ戻る」
リペも。
立つ。
「橋を直すんですか?」
「違う」
修は。
橋を見る。
「東星町の」
「水の使い方を見る」
「西の水路みたいに?」
「ああ」
「無駄があるかもしれない」
「古い設備があるかもしれない」
「直せるものがあるかもしれない」
「もし」
修は。
少し。
笑う。
「東が五割でも暮らせて」
「西も五割で暮らせるなら」
リペの顔。
明るくなる。
「橋を直せます!」
「まだ分からない」
「でも」
「調べる価値はある」
二つから。
一つを。
選ぶ。
その前に。
本当に。
二つしかないのか。
確かめる。
それも。
修理屋の仕事。
翌朝。
修は。
ミレアへ。
伝えた。
「東星町へ戻ります」
ミレアの顔。
曇る。
「……やっぱり」
「違います」
修が言う。
「橋を直さないって」
「決めたわけじゃない」
「じゃあ?」
「橋を直せるようにするために」
修は。
昨日直した。
水路を見る。
「先に」
「二つの町を直します」
ミレアが。
黙る。
「町を?」
「はい」
「橋を直したら困る町と」
「橋がなくなったら困る町」
「そのままの状態で」
「橋だけ直そうとするから」
「二択になる」
リペが。
横から。
得意そうに。
言う。
「第三の道です!」
修が。
少し笑う。
「作れるかどうかは」
「まだ分からないけどな」
ミレアは。
しばらく。
修を見る。
やがて。
腰の工具を。
外した。
一本。
古い。
小さな。
金槌。
修へ。
差し出す。
「これは?」
「父の」
「橋守の金槌」
「持っていって」
修が。
受け取る。
【対象:橋守の金槌】
【損傷率:31%】
【使用年数:47年】
【修理履歴:多数】
「壊れてますよ」
ミレアが。
少し笑う。
「だから」
「修理屋に渡すんでしょ」
修も。
笑った。
「分かりました」
「直して返します」
その時。
金槌。
柄。
小さな。
刻印。
修が。
気づく。
『完全に直すな』
古い。
文字。
その下。
もっと。
小さい。
別の文字。
『いつか』
『完全に直せる日のために』
修は。
その文字を。
指でなぞった。
百年間。
橋を。
壊れたまま。
守った人たち。
彼らも。
諦めていた。
わけではない。
橋の向こう。
東星町。
そのさらに先。
水。
暮らし。
人。
直すものは。
橋だけではない。
修は。
工具箱を背負う。
「行こう、リペ」
「はい!」
リペが。
しゃもじを。
掲げる。
「東星町を修理します!」
「町を分解しないでね」
「しません!」
「その返事が怖いな」
星渡りの天秤は。
まだ。
開かない。
二つの正しさ。
まだ。
皿に。
乗っていない。
修は。
答えを。
出す前に。
まず。
問題そのものを。
直してみることにした。




