第64話 今の音
翌朝。
音の森。
エルドの小屋。
修が目を覚ますと。
外から。
コン。
コン。
コン。
規則的な音が聞こえた。
「……?」
窓を開ける。
エルドが。
薪を割っている。
コン。
コン。
コン。
静かな森の中では。
その音が。
やけに大きく聞こえた。
修は。
しばらく。
その音を聞いていた。
昔の祭りでもない。
昔の歌でもない。
ただ。
今日の朝。
一人の老人が。
冬に備えて。
薪を割っている音。
「今の音……」
修が呟く。
その後ろ。
「ご主人様!」
「うわっ」
リペが。
突然。
真横から顔を出した。
「起きましたか!」
「近い近い」
「朝です!」
「知ってる」
「朝ご飯です!」
「それが本命だろ」
「はい!」
即答だった。
小屋の中。
朝食。
黒パン。
卵。
野菜のスープ。
そして。
リペの前だけ。
山盛り。
「多くない?」
修が尋ねる。
エルドが答える。
「こいつが」
「五回おかわりした」
「まだ食べてる途中です!」
「それを五回って言うんだよ」
リペは。
スープを飲む。
もちろん。
しゃもじで。
「まだ使ってるの?」
「慣れました!」
「人間は慣れなくていいこともある」
エルドが。
少しだけ笑った。
昨日まで。
修たちを追い返そうとしていた人とは。
思えない。
修は。
パンを置く。
「エルドさん」
「なんだ」
「昨日の話」
エルドの表情が。
少し硬くなる。
「記憶樹へ」
「今日」
「行ってくれますか?」
沈黙。
リペも。
食べる手を止めた。
エルドは。
窓の外を見る。
「……鳴らさないなら」
修は答える。
「約束はできません」
エルドが。
修を見る。
「でも」
修は続ける。
「勝手には鳴らしません」
「あなたに見てもらって」
「それから決めます」
「……」
「俺は」
「昔の音を復活させたいわけじゃない」
修は言う。
「今の森を」
「確認したいんです」
エルドは。
長い間。
黙っていた。
やがて。
立ち上がる。
「飯を食ったら行くぞ」
リペが。
両手を上げる。
「やったー!」
「ただし」
エルドが言う。
「余計な物には触るな」
リペが。
ゆっくり手を下ろす。
「……はい」
修が尋ねる。
「なんで俺じゃなくて」
「リペを見ながら言ったんです?」
「経験だ」
「一日で把握された」
朝食後。
三人は。
森の奥へ向かった。
エルドは。
杖を使っているが。
歩くのは速い。
古い道。
石畳。
廃村。
そして。
記憶樹。
巨大な銀色の葉。
風。
サァァァ……。
でも。
森は。
まだ静か。
エルドが。
樹を見上げる。
「……変わらんな」
修が尋ねる。
「最後に来たのは?」
「三日前だ」
「音が止まった日?」
「ああ」
エルドの顔が曇る。
「それまでは」
「共鳴軸を抜いていても」
「森そのものは」
「少し鳴っていた」
「少し?」
「風が強い日は」
「古い残響が」
「森の中を回っていた」
「じゃあ」
「三日前に」
「それも消えた」
「ああ」
修は。
記憶樹へ触れる。
【対象:記憶樹のオルゴール】
【損傷率:0%】
【保存記憶数:0】
【共鳴軸:未装着】
【森内音響同期:待機】
さらに。
詳細。
【周辺音響樹接続数:462】
【応答数:462】
「全部」
「応答してる」
エルドが眉を寄せる。
「何?」
「森の木は」
「全部生きてます」
「機能も止まってない」
リペが言う。
「じゃあ」
「やっぱり」
「オルゴールだけ?」
修は首を振る。
「いや」
「何かが足りない」
ノアの手帳。
『鳴らなくなった音にも理由がある。』
修は。
周囲を見る。
そして。
一つずつ。
耳を澄ませる。
風。
自分たちの服。
リペの足。
エルドの杖。
遠く。
水。
「……水?」
修が顔を上げる。
エルドが。
森の奥を指す。
「小川がある」
「行ってみましょう」
記憶樹から。
少し歩く。
細い小川。
水は。
普通に流れている。
チャプ。
チャプ。
音がする。
リペが。
水へ手を入れる。
「冷たいです!」
「当たり前」
「森の音」
「ありますね」
「ああ」
修はしゃがむ。
水。
石。
風。
足音。
薪割り。
笑い声。
完全に。
無音ではない。
消えたのは。
「森が鳴らす音」
だけ。
修は。
小川のそばにある。
一本の音響樹へ触れる。
【対象:音響樹】
【損傷率:2%】
【音響機能:待機】
【同期信号:未受信】
「同期信号……」
エルドが言う。
「昔は」
「記憶樹が」
「森全体に合図を送っていた」
「どんな合図です?」
「知らん」
「村の者は」
「そんな仕組みまで」
「気にしていなかった」
修は考える。
記憶樹。
記憶音板。
共鳴軸。
森全体。
何かを。
鳴らすための起点。
その時。
リペが。
小川の石を拾った。
「これ」
「いい音します!」
カン。
石同士を叩く。
カン。
その音。
直後。
音響樹が。
わずかに震えた。
「……」
修が見る。
リペが。
もう一度。
カン。
木の幹。
ごく小さく。
ポォン……。
「鳴った」
エルドが。
目を見開く。
リペも驚く。
「私ですか!?」
「たぶん」
修が。
音響樹へ触れる。
【一時音響反応】
【外部音入力を検知】
【同期条件:未達成】
「外部音を」
「拾ってる」
修は。
エルドを見る。
「この森」
「記憶を再生するだけじゃない」
「今の音も」
「受け取れるんじゃないですか?」
エルドは。
答えない。
修は。
記憶樹へ戻る。
扉を開ける。
内部。
共鳴機構。
修は。
ノアの共鳴軸を。
差し込み口の前へ持っていく。
まだ。
入れない。
代わりに。
内部を調べる。
「ここ」
「何です?」
リペが。
小さな漏斗のような部品を指す。
修が触れる。
【対象:集音口】
【機能:外部音響記録】
「やっぱり」
記憶樹は。
過去を再生するだけじゃない。
外の音を。
新しく記録できる。
「エルドさん」
「昔」
「村の音は」
「どうやって保存してたんです?」
エルドが。
内部を見る。
「知らん」
「気づいたら」
「増えていた」
「祭りが終わると」
「新しい音板ができていた」
「誰かが作ってたわけじゃない?」
「ああ」
修は。
集音口へ触れる。
【記録条件】
【一定量の生活音】
【一定量の感情反応】
【一定量の継続時間】
「……生活音」
「感情反応?」
リペが首をかしげる。
「笑ったらいいんですか?」
「単純ではないと思うけど」
「泣くのでも?」
「たぶん」
エルドが。
少し顔を伏せる。
「最後の日も」
「そうだった」
「泣いて」
「笑って」
「別れを言った」
「それが」
「記録された」
修は。
分かり始める。
記憶樹は。
音を集める機械ではない。
人が。
そこで生きた。
その痕跡を。
音として残す。
「だから」
「今」
「保存記憶がゼロなのは」
エルドが言う。
「俺が全部抜いたからだ」
「それだけじゃないです」
修は答える。
「新しい記憶が」
「何十年も」
「作られてない」
「……」
「この森で」
「誰も暮らしてないから」
風。
記憶樹の中。
静寂。
エルドが。
小さく言う。
「それでいい」
修が。
エルドを見る。
「村は終わった」
「新しい記憶なんて」
「必要ない」
「本当に?」
修の問いに。
エルドの表情が。
険しくなる。
「何が言いたい」
「エルドさん」
修は。
落ち着いて言う。
「この何十年」
「ここで暮らしてますよね」
「森の外れだ」
「それでも」
「森の中です」
「……」
「薪を割って」
「飯を作って」
「畑をやって」
「歩いて」
「今日」
「俺たちと笑った」
「……」
エルドが。
黙る。
「それ」
「今の音じゃないですか?」
リペも。
小さく頷く。
「あります」
「今の音」
「たくさん」
「……」
エルドは。
顔を背けた。
「そんなもの」
「残してどうする」
修は答える。
「残すかどうかは」
「まだ分かりません」
「でも」
「なかったことにする必要も」
「ないと思います」
「村は終わった!」
エルドの声が。
響く。
「分かってる!」
修も。
少し強い声で返す。
「終わったものを」
「戻そうとしてるんじゃない!」
静寂。
修は。
少し呼吸を整える。
「昔の村を」
「復活させるつもりはないです」
「昔の祭りを」
「もう一回やれとも言わない」
「でも」
「終わった後にも」
「今はある」
エルドが。
修を見る。
「……今?」
「はい」
「ミュゼ村が終わった後も」
「あなたは」
「何十年も」
「生きてきた」
「それは」
「昔の続きじゃなくて」
「今です」
エルドの手が。
震える。
修は。
記憶樹を見上げる。
「この遺産」
「もしかしたら」
「そこを間違えて使われたんじゃないですか」
「何?」
「過去を」
「再生するための道具じゃなくて」
「今を」
「残して」
「次へ渡すための道具だったんじゃないか」
エルドの目が。
大きくなる。
その時。
修の鞄。
ノア修理記録が。
淡く光った。
「……!」
取り出す。
ページ。
今まで。
白紙だった場所。
文字が。
ゆっくり。
浮かび上がる。
『エルドへ』
エルドが。
息を呑む。
修が読む。
『お前はきっと』
『昔の音を消そうとする。』
エルドの顔が。
固まる。
『それでいい。』
『過去は』
『人を助けることもある。』
『人を縛ることもある。』
次。
『だから』
『昔の音を』
『無理に残す必要はない。』
エルドの目に。
涙が浮かぶ。
そして。
最後。
『でも』
『今日の音まで』
『消すな。』
「……」
誰も。
喋らない。
修は。
その先を読む。
『人は』
『昨日のために』
『今日を生きるんじゃない。』
『今日を生きたから』
『それが明日の記憶になる。』
最後に。
小さな文字。
『また春に。』
エルドの肩が。
震えた。
「……馬鹿が」
ぽつり。
「何十年経ってから」
「言うことか」
エルドは。
目元を拭う。
リペが。
そっと。
しゃもじを差し出す。
「涙を拭きますか?」
「それで拭けるか!」
「布じゃない!」
修が思わず笑う。
エルドも。
涙を流しながら。
笑った。
その瞬間。
ポォン。
「……」
小さな音。
記憶樹の奥。
誰も触れていない。
なのに。
一本の弦が。
震えた。
ポォン。
森の外。
別の木。
ポォン。
さらに。
遠く。
ポォン。
エルドが。
顔を上げる。
「鳴ってる……」
修が。
記憶樹へ触れる。
【外部音響入力を検知】
【感情反応を検知】
【新規記憶生成条件:12%】
「始まってる」
リペが。
目を輝かせる。
「何がです?」
「新しい記憶」
修は答える。
「昔のじゃない」
「今の」
その表示を。
エルドも。
見ることはできない。
でも。
音は。
聞こえる。
ポォン。
ポォン。
森のあちこち。
長い間。
止まっていた木々が。
少しずつ。
今の音へ。
反応し始めている。
その日の午後。
修は。
共鳴軸を。
まだ戻さなかった。
「付けないのか?」
今度は。
エルドの方から聞いた。
修が頷く。
「まだ早いです」
「どうしてだ」
「これ」
修は共鳴軸を見る。
「森全体を」
「本格的に鳴らす部品ですよね」
「たぶんな」
「なら」
「今の音が」
「もう少し必要です」
リペが。
手を挙げる。
「歌います!」
「一人で埋めようとするな」
「早いです!」
「量の問題じゃない」
「では」
「踊ります!」
「もっと違う」
修は。
少し考える。
「人を」
「呼びましょう」
エルドが。
固まる。
「人?」
「はい」
「ハルネ村から」
「何人か」
「ここへ?」
「無理にじゃないです」
「見たい人だけ」
「森を知りたい人だけ」
エルドの顔に。
迷い。
「村を」
「戻すつもりか」
「違います」
修は即答する。
「新しい村を作るつもりもない」
「ただ」
「この森を」
「誰かが知る」
「それだけです」
エルドは。
記憶樹を見る。
何十年も。
守ってきた。
誰も。
近づけなかった場所。
でも。
ノアの言葉。
『今日の音まで消すな。』
「……一日だけだ」
エルドが言う。
「え?」
「一日だけ」
「呼んでもいい」
リペが。
飛び上がる。
「お祭りです!」
「祭りじゃない!」
「では宴会!」
「もっと違う!」
「ピクニック!」
エルドが。
少し考える。
「……それくらいなら」
リペが。
修を見る。
「許可されました!」
「良かったな」
「お弁当です!」
「やっぱりそこか」
翌日。
音の森に。
何十年ぶりかに。
村の外から。
人が訪れることになった。
昔を。
再現するためではない。
昔の村を。
取り戻すためでもない。
今の森で。
今の人たちが。
今の音を。
鳴らすため。
第五の遺産。
記憶樹のオルゴール。
その修理は。
ようやく。
始まろうとしていた。
壊れていない機械を。
直すのではなく。
止まっていた。
「今日」を。
もう一度。
動かすために。




