第56話 また春に
工房の中。
老婆は。
修の作業台に置かれた髪飾りを。
じっと見つめていた。
銀色の飾り。
青い石。
裏側には。
小さな刻印。
『エレナへ』
『また春に』
修は椅子を差し出した。
「どうぞ」
「……ありがとう」
老婆は。
ゆっくり腰を下ろす。
リペがお茶を持ってきた。
「どうぞ!」
「ありがとうね」
「熱いので気をつけてください!」
「ええ」
「私は昨日、熱いまま飲んで口から煙が出ました!」
「余計な情報を足すな」
「注意喚起です!」
「ゴーレム基準の注意喚起はいらない」
老婆が。
少し笑った。
張り詰めていた空気が。
ほんの少し。
柔らかくなる。
修は老婆の向かいへ座った。
「お名前を聞いても?」
「マーサです」
「マーサさん」
修は髪飾りを見る。
「これは」
「お母様の物で間違いありませんか?」
マーサは頷く。
「ええ」
「間違いありません」
「この青い石も」
「花の形も」
「母が大切にしていた髪飾りです」
修は。
髪飾りをそっと差し出す。
マーサは。
両手で受け取った。
「……」
指先で。
青い石を撫でる。
「直ってる……」
「留め具が壊れていたので」
「修理しました」
「そう……」
マーサは。
小さく笑った。
「昔」
「母が何度も直そうとしていました」
「でも」
「この辺りには」
「細工物を直せる職人がいなくて」
修が尋ねる。
「いつ頃壊れたんですか?」
「私が十歳くらいだったかしら」
「じゃあ」
「かなり前ですね」
「ええ」
マーサは笑う。
「かなり前よ」
リペが指を折る。
「マーサさんが十歳で」
「髪飾りが六十八年前に作られて――」
修が止める。
「年齢を計算しなくていい」
「なぜです?」
「いいから」
マーサが笑った。
「七十四よ」
「答えてくれた!」
「リペ」
再び。
小さな笑い声。
しかし。
修には。
一つ気になることがあった。
「マーサさん」
「はい」
「この刻印について」
「何か知っていますか?」
『エレナへ』
『また春に』
マーサの笑顔が。
少し消えた。
「……ええ」
「知っています」
リペも静かになる。
マーサは。
髪飾りを握る。
「それを贈ったのは」
「私の父です」
修は黙って聞く。
「父は」
「行商人でした」
「春になると町を出て」
「いろいろな村を回って」
「冬になる前に帰ってくる」
「毎年」
「同じ暮らしでした」
マーサは。
少し遠くを見る。
「母は」
「父が旅に出るのを」
「いつも心配していました」
「だから父は」
「出発する時」
「必ず言ったんです」
マーサは。
ゆっくり。
その言葉を口にする。
「また春に」
修が眉を寄せる。
「春に?」
「ええ」
「普通なら」
「また冬に」
「ですよね」
「そうね」
マーサは笑った。
「父は」
「帰ってくる約束をするのが嫌いだったんです」
「え?」
リペが首をかしげる。
「旅に絶対なんてない」
「何が起こるか分からない」
「だから」
「帰ってくるとは言わなかった」
「その代わり」
「次の旅に出る時も」
「また一緒にいよう」
「そういう意味で」
「また春に」
「と言っていたそうです」
修は。
刻印を見る。
帰る約束ではない。
その先の。
次の春の約束。
「素敵ですね」
リペが言う。
マーサは頷く。
「ええ」
「母も」
「その言葉が大好きでした」
修が尋ねる。
「それで」
「お父様は?」
マーサは。
しばらく答えなかった。
やがて。
「帰ってきませんでした」
静かな声。
「私が六歳の時です」
工房から。
音が消える。
「その年の秋」
「父の乗った馬車が」
「山道で事故に遭ったと聞きました」
「荷物だけが」
「戻ってきました」
「父は」
「見つからなかった」
リペが。
小さく呟く。
「……そうだったんですね」
「母は」
「ずっとこの髪飾りを持っていました」
「父が」
「最初の旅に出る時」
「贈ったものだったから」
「でも」
「母が亡くなった後」
「家を整理した時に」
「なくしてしまって……」
マーサは髪飾りを見る。
「もう」
「二十年以上前です」
「ずっと」
「捨ててしまったんだと思っていました」
修は。
ジークの言葉を思い出す。
廃品市。
銅貨一枚。
誰かにとっては。
ほとんど価値のない物。
でも。
マーサにとっては。
違う。
「……よかった」
修が呟く。
「え?」
「捨てられてなくて」
マーサは。
髪飾りを見る。
「ええ」
「本当に」
しばらく。
誰も話さなかった。
やがて。
マーサが尋ねる。
「おいくらですか?」
「え?」
「修理代と」
「髪飾りの代金」
修は首を振る。
「いりません」
「でも」
「これは商人から買った物でしょう?」
「まだ買ってません」
「え?」
「預かってるだけです」
ちょうど。
コンコン。
扉が鳴る。
「邪魔するぞ」
ジークだった。
大きな袋を背負っている。
「おっ」
「見つかったのか?」
修が頷く。
「エレナさんの娘さんです」
ジークはマーサを見る。
そして。
髪飾りを見る。
「そうか」
マーサが立ち上がる。
「あなたが」
「これを?」
「ああ」
「廃品市でな」
「おいくらでしたか?」
「銅貨一枚」
マーサは財布を取り出す。
ジークが手で止める。
「いらん」
「でも」
「銅貨一枚だぞ」
「商人でしょう?」
「ああ」
ジークは。
少し考える。
そして。
ニヤリと笑った。
「じゃあ」
「取引にしよう」
「取引?」
「この髪飾りの話を」
「聞かせてもらった」
マーサが驚く。
「それだけで?」
「商人にとって」
「物の話は大事なんだよ」
ジークは袋を叩く。
「どんな物にも」
「誰かの話がくっついてる」
「それを一つ勉強した」
「銅貨一枚なら」
「十分元を取った」
修はジークを見る。
「商売人に向いてますね」
「当たり前だ」
リペが手を挙げる。
「私も今の話を聞きました!」
「だから?」
「銅貨一枚ください!」
「なんでだよ」
マーサが。
声を出して笑った。
そして。
目元を拭う。
「ありがとう」
髪飾りを。
大切そうに胸へ抱いた。
その時。
修は気づいた。
「あの」
「一つだけ」
「はい?」
「お母様のお名前がエレナさんなら」
「この髪飾りを作った人は」
「お父様なんですか?」
「いいえ」
マーサは首を振る。
「父は細工物なんて作れませんでした」
「じゃあ」
「誰が?」
「旅先の職人に」
「作ってもらったそうです」
修は。
何となく。
髪飾りをもう一度見る。
花の彫刻。
銀細工。
青い石。
古い技術。
そして。
裏側の刻印。
「少し」
「見せてもらってもいいですか?」
マーサが渡す。
修は。
じっくり観察する。
昨日は。
修理箇所しか見ていなかった。
でも。
花びらの中心。
非常に小さな。
印がある。
歯車。
「……まさか」
修が触れる。
【詳細鑑定】
【対象:銀製髪飾り】
【製作年:約68年前】
【製作者:不明】
一瞬。
文字が揺れる。
そして。
【製作者情報:照合】
【アルド工房製】
「……え?」
修が固まる。
リペが覗く。
「どうしました?」
「これ」
「アルドの工房で作られてる」
「ええ!?」
ジークも驚く。
「伝説の時計職人の?」
修は頷く。
ただし。
表示は続く。
【製作者:アルド本人ではありません】
「本人じゃない?」
さらに。
【製作担当者:工房弟子】
そして。
【刻印登録名】
修は。
その文字を見る。
「……」
そこには。
一つの名前。
【ノア】
修は聞いたことがない。
リペも。
セラからも。
アルドの手帳からも。
一度も出ていない名前。
「ノア……?」
マーサが。
目を見開いた。
「その名前」
「知ってるんですか?」
「父です」
今度は。
修が驚いた。
「え?」
「私の父の名前」
「ノアです」
全員が黙る。
修は髪飾りを見る。
【製作担当者:ノア】
マーサを見る。
「お父様は」
「行商人だったんですよね?」
「ええ」
「少なくとも」
「私が生まれた頃には」
修は考える。
アルドの工房。
弟子。
ノア。
そして。
行商人。
六十八年前。
「もしかして」
ジークが言う。
「その親父さん」
「行商人になる前は」
「職人だったんじゃないか?」
マーサは。
ゆっくり首を振る。
「聞いたことがありません」
そして。
何かを思い出したように。
「あ……」
「どうしました?」
「母の家に」
「父の古い荷物が」
「まだ一つだけあります」
「古い荷物?」
「開かない箱です」
修とリペが顔を見合わせる。
「開かない?」
「ええ」
「父が旅に使っていた」
「古い工具箱」
修の表情が変わる。
「工具箱……」
マーサは頷く。
「母も開けられませんでした」
「私も」
「ずっと」
「ただの壊れた箱だと思っていました」
修は。
アルド修理手帳を思い出す。
七つの遺産。
四つまで見つけた。
そして。
突然現れた。
アルドの弟子。
ノア。
その工具箱。
リペが。
目を輝かせる。
「ご主人様!」
「ああ」
「行きましょう!」
修は立ち上がる。
しかし。
ジークが腕を組む。
「お前」
「さっきまで普通の鍋を直して喜んでなかったか?」
修は工具箱を持つ。
「そうなんですけどね」
「帰ってきた翌日だぞ?」
「そうなんですけどね……」
リペが叫ぶ。
「寄り道です!」
修が止まる。
「いや」
「これはたぶん寄り道じゃない」
アルドの言葉。
『急がなくていい。寄り道こそ、旅の宝物だから。』
修は苦笑する。
「向こうから」
「道が来た感じだな」
その日の午後。
修とリペは。
マーサの家へ向かった。
物置。
一番奥。
埃をかぶった。
古い木箱。
鉄の補強。
錆びた鍵。
そして。
蓋の中央には。
見覚えのある。
歯車の紋章。
修が手を置く。
「さて」
「どこが痛い?」
【対象:職人工具箱】
【損傷率:12%】
【所有者:ノア】
【所属:アルド工房】
そして。
最後。
【内部に未登録遺産反応あり】
修は。
息を止めた。
リペが。
小さな声で言う。
「ご主人様」
「これって……」
「ああ」
第五の遺産。
そう表示されたわけではない。
でも。
四冊の修理手帳を追ってきた修には。
分かった。
帰ってきたばかりなのに。
次の旅は。
もう。
工房の扉を叩いていた。




