第40話 五十八年目の航海
翌朝。
ベルマーレの港。
修は朝日が昇る前から、シーラの前にいた。
船底を確認。
帆柱を確認。
舵を確認。
最後に船体を軽く叩く。
コン、コン。
「よし。」
リペが横から覗き込む。
「完成ですか?」
修は頷いた。
「最後の仕上げだ。」
シーラへ手を添える。
「さて。」
「もう一度、海へ行こうか。」
「修理。」
淡い光が船全体を包み込んだ。
傷んでいた木材が締まり、補強した板が船体になじんでいく。
帆が風を受け、小さく膨らんだ。
【対象:小型漁船『シーラ』】
【損傷率:39% → 8%】
【航行安全性:良好】
【修理完了】
修は船体を撫でた。
「お待たせ。」
「行っておいで。」
⸻
「シーラ!」
老人が走ってきた。
昨日とは違う。
漁師の服。
長靴。
帽子。
完全装備だった。
その後ろから息子が歩いてくる。
「親父。」
「無茶するなよ。」
「分かっとる。」
「遠くまで行くな。」
「分かっとる。」
「天気が変わったら戻れ。」
「分かっとる。」
息子は疑いの目を向ける。
「本当に?」
老人は視線を逸らした。
「善処する。」
「分かってないだろ!」
⸻
修は笑いながら船へ荷物を積む。
すると老人が言った。
「修理屋。」
「お前さんも乗れ。」
「私も?」
「自分が直した船が、本当に走れるか。」
「見届けたくないか?」
修は少し考える。
確かにその通りだった。
「じゃあ、お邪魔します。」
リペも元気よく手を挙げる。
「私も!」
老人と修が同時にリペを見る。
「……。」
リペが首をかしげる。
「なんですか?」
修が尋ねる。
「リペ。」
「泳げる?」
「泳いだことありません!」
「沈みそうだな。」
「ゴーレムですからね!」
なぜか誇らしげだった。
老人が大笑いする。
「浮き輪を三つ持ってこい!」
「三つ!?」
⸻
そして。
シーラは五十八年目の海へ出た。
帆が大きく膨らむ。
ザァァァ……。
船首が波を切る。
老人は舵を握り、満面の笑みを浮かべていた。
「どうじゃ!」
「まだまだ走るじゃろ!」
修も船体の感触を確かめる。
軋みは少ない。
水漏れもない。
「絶好調ですね。」
「そうじゃろ!」
リペは船首に立って両手を広げていた。
「海ですー!」
修が慌てる。
「危ないぞ!」
「大丈夫です!」
その瞬間。
大きな波。
ザバーン!
「わぁぁぁ!」
リペが消えた。
「リペ!?」
修が船縁から覗き込む。
海面には誰もいない。
「沈んだ!?」
数秒後。
船の横から声。
「ご主人様ー!」
見ると。
海底に立っていた。
「本当に沈んでる!」
透明度の高い海だったため、海底からこちらへ手を振るリペが丸見えだった。
老人は腹を抱えて笑う。
「浮き輪の意味がない!」
修はロープを投げた。
「つかまれ!」
「はーい!」
数分後。
びしょ濡れのリペが甲板へ戻ってきた。
「海底、綺麗でした!」
「楽しめたなら何よりだよ……。」
⸻
船は沖へ進む。
やがて老人が速度を落とした。
「ここじゃ。」
修は周囲を見る。
何もない。
ただ青い海が広がっている。
老人は帽子を取り、静かに海を見つめた。
「女房と初めて一緒に漁へ来た場所じゃ。」
修とリペは何も言わなかった。
「若い頃は毎日のように喧嘩してな。」
「船が狭いから逃げ場がない。」
老人は笑う。
「それでも。」
「帰る時には、いつも仲直りしていた。」
潮風が吹く。
老人はシーラの舵を優しく撫でた。
「この船には。」
「わしの人生が全部乗っとる。」
修は静かに答える。
「だから。」
「全部残しました。」
老人は驚いて修を見る。
「傷も。」
「継ぎはぎも。」
「奥さんと乗った頃の船板も。」
「使えるものは全部。」
老人はしばらく何も言わなかった。
そして。
「……ありがとう。」
それだけ言った。
⸻
老人は釣り糸を海へ垂らした。
「せっかく来たんじゃ。」
「釣って帰ろう。」
リペも釣り竿を借りる。
「私も!」
十分後。
老人、一匹。
修、二匹。
リペ、ゼロ。
二十分後。
老人、三匹。
修、三匹。
リペ、ゼロ。
三十分後。
「釣れません!」
リペが立ち上がった。
「魚さん!」
「お願いします!」
修は笑う。
「頼んでも来ないよ。」
その瞬間。
グイッ!
竿が大きく曲がる。
「来ました!」
「引け!」
「はい!」
リペが全力で竿を引く。
スポーン!
海から何かが飛び出した。
全員が身構える。
甲板へ落ちたのは――
古い長靴だった。
「……。」
リペは長靴を見る。
「魚ではありません。」
老人が大笑いした。
「海まで修理依頼を持ってきたぞ!」
修も吹き出す。
「直して帰るか。」
「はい!」
⸻
夕方。
シーラはベルマーレへ戻ってきた。
港が見える。
老人が目を細めた。
「……なんじゃ?」
岸壁に、大勢の人が立っている。
エリオット。
マリア。
ルカ。
老人の息子。
子どもたち。
漁師たち。
市場の人々。
みんなが待っていた。
ルカが一番最初に叫ぶ。
「帰ってきたぞー!」
そして。
「おかえりーーー!」
声が広がる。
「おかえり!」
「爺さん!」
「シーラ!」
老人は呆然としていた。
「わしを……。」
「待ってたのか。」
修は笑う。
「帰ってくる人がいたら。」
「迎える町になったんですよ。」
老人は帽子を深くかぶり直す。
顔を隠すように。
そして大きく叫んだ。
「ただいま!」
その瞬間。
ゴォォォォン――!
海が震えた。
全員が灯台を見上げる。
百年間沈黙していた鐘。
誰も綱を引いていない。
それなのに。
ゴォォォォン――!
二度目。
港から歓声が上がる。
「鐘だ!」
「鳴った!」
「帰港の鐘だ!」
ルカは飛び跳ねている。
マリアはランタンを胸に抱き、涙を流していた。
修は静かに鐘を見つめる。
【帰港の習慣】
43% → 71%
【完全修復条件達成】
【帰港の鐘が修理を望んでいます】
修は微笑んだ。
「やっと。」
「準備ができたんだな。」
⸻
岸へ降りる。
老人の息子が父親を迎える。
「親父。」
「どうだった?」
老人はシーラを振り返った。
「最高じゃった。」
「じゃあ……。」
息子は少し寂しそうに尋ねる。
「これで引退だな。」
老人は考えた。
そして。
「いや。」
「え?」
「近海専門にする。」
「親父!」
「修理したんじゃぞ!」
「乗らなきゃもったいないじゃろ!」
息子は頭を抱えた。
修は笑った。
それでいい。
修理は、終わらせるためにするものではない。
これからを選べるようにするためにするものだ。
リペが元気よく手を挙げた。
「私もまた乗ります!」
修は即答した。
「まず泳ぐ練習しよう。」
「はい!」
ベルマーレの港に笑い声が響く。
そして、その上から。
ゴォォォン――。
帰港の鐘が、もう一度鳴った。
それは別れを告げる鐘ではない。
今日も無事に帰ってきた誰かへ贈る――
「おかえり」の音だった。




