第39話 海へ出たがる老船
翌朝。
ベルマーレの港。
修が宿を出ると、港の方から大きな声が聞こえてきた。
「無理だって言ってるだろ!」
「この船はもう限界だ!」
「沈んだらどうする!」
何やら揉めている。
修とリペが近づくと、そこには一隻の小さな漁船があった。
古い。
とにかく古い。
船体には何度も板を張り替えた跡。
帆には継ぎはぎ。
船首の塗装もほとんど剥がれている。
そして、その前で二人の男が言い争っていた。
一人は白髪の老人。
もう一人は四十歳ほどの漁師。
「父さん!」
「もう引退させてやれ!」
「こいつはまだ走れる!」
「三日前にも浸水しただろ!」
「船は水に浮くもんだ!」
「中に入ってきちゃ駄目なんだよ!」
修は思わず吹き出しそうになった。
リペは真剣な顔で頷く。
「息子さんが正しいと思います。」
「俺もそう思う。」
⸻
老人が修に気づいた。
「お前さん。」
「噂の修理屋か?」
「一応。」
老人は修の両肩をつかむ。
「頼む!」
「こいつを直してくれ!」
息子が慌てて止める。
「待ってください!」
「直さなくていいです!」
「どっちですか。」
修は困った顔をする。
老人は船を指差した。
「こいつは『シーラ』。」
「わしが十五の頃から乗っている。」
修は船を見る。
「十五歳から?」
「今年で五十八年目じゃ!」
リペが指を折りながら数える。
「えーっと……。」
しばらく考える。
煙が出そうなほど考える。
「いっぱいです!」
「計算諦めたな。」
⸻
息子はため息をついた。
「親父は、この船で最後にもう一度だけ沖へ出たいと言ってるんです。」
「でも船大工には全員断られました。」
「修理するより、新しい船を買った方がいいって。」
老人は悔しそうに船体を叩く。
「新しい船じゃ意味がない。」
「こいつと行きたいんじゃ。」
修は老人を見る。
そして船を見る。
「……分かりました。」
「まず。」
「この子の話を聞いてみます。」
老人は首をかしげる。
「船の?」
「はい。」
修は船体へ手を添えた。
「さて。」
「どこが痛い?」
【対象:小型漁船『シーラ』】
【使用年数:58年】
【損傷率:81%】
【通常航行:危険】
【修理可能】
そして――
【対象から強い意志を確認】
修は目を丸くした。
「意志?」
景色が流れ始める。
⸻
少年が船へ飛び乗る。
『今日からよろしくな!』
若き日の老人だった。
初めての漁。
大荒れの海。
大漁の日。
何も釣れなかった日。
船の上で昼寝。
結婚。
息子が生まれる。
幼い息子を初めて船へ乗せる。
『怖い!』
『海は怖くないぞ!』
『揺れる!』
『それが海じゃ!』
『帰る!』
記憶の中の修は思った。
――いや、普通に怖いだろ。
景色はさらに進む。
老人になる。
漁へ出る回数も減った。
船は何度も壊れた。
そのたびに直した。
最後の記憶。
老人が船首を撫でている。
『もう一回だけ。』
『一緒に沖へ行きたいな。』
風が吹く。
古い帆が、小さく膨らんだ。
まるで船が、
『行こう』
と答えるように。
⸻
修は目を開けた。
「……行きたがってます。」
息子が驚く。
「親父が?」
「船が。」
「船!?」
老人は大笑いした。
「そうじゃろ!」
「シーラはまだ海へ出たいんじゃ!」
息子は頭を抱える。
「似た者同士すぎる……。」
⸻
ただし。
修は真剣な表情になった。
「条件があります。」
老人も姿勢を正す。
「何じゃ。」
「今のままでは絶対に出せません。」
「船底。」
「竜骨。」
「帆柱。」
「全部直します。」
「それから私が安全だと判断するまで、海へは出さない。」
老人は少し不満そうだった。
「今日じゃ駄目か?」
「駄目です。」
「夕方は?」
「駄目です。」
「ちょっとだけ。」
「駄目です。」
リペも腕を組む。
「駄目です!」
老人はしょんぼりした。
「二対一か……。」
息子が小さく呟く。
「俺も入れて三対一です。」
⸻
修理が始まった。
船を陸へ引き上げる。
腐った板を外す。
まだ使える板は残す。
新しい木材で補強。
古い釘は一本ずつ交換する。
リペも船底へ潜り込んで手伝っていた。
「ご主人様!」
「釘を発見しました!」
「そこにあるのは全部釘だよ。」
「大量です!」
「船だからな。」
⸻
しばらくして。
船の下からリペの声がする。
「ご主人様。」
「どうした?」
「出られません。」
「……え?」
修が覗き込む。
リペの頭が船底の隙間に完全にはまっていた。
「どうしてそうなった?」
「奥にネジが見えまして。」
「取ろうとしたら。」
「こうなりました。」
老人は腹を抱えて笑う。
「面白い助手じゃな!」
修はため息をつきながら工具を持つ。
「まずリペから修理するか。」
「お願いします!」
⸻
夕方。
修理は半分ほどまで進んだ。
【対象:小型漁船『シーラ』】
【損傷率:81% → 39%】
【安全性:大幅向上】
老人は見違えるようになった船を撫でる。
「シーラ……。」
新品ではない。
傷も残っている。
五十八年間の航海の跡も、そのままだ。
ただ。
もう一度海へ出るための力だけが戻っていた。
修は言う。
「明日、仕上げます。」
老人は頷いた。
今度は素直だった。
「頼む。」
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帰り道。
リペが尋ねる。
「ご主人様。」
「なんだ?」
「どうして全部新品にしないんですか?」
修は少し考えた。
「全部取り替えたら。」
「それはシーラなのかなって思って。」
リペは首をかしげる。
「難しいです。」
「俺にも難しいよ。」
修は笑った。
「でも。」
「直せるものは直す。」
「残せるものは残す。」
「その方が。」
「この子が歩いてきた五十八年も、一緒に海へ戻れる気がする。」
リペはしばらく考える。
そして笑った。
「では私も。」
「なるべく部品交換しないでください!」
修はリペを見る。
傷。
へこみ。
交換されたネジ。
何度も外れた腕。
「そうだな。」
「その傷も全部、リペだからな。」
リペは嬉しそうに胸を張った。
「はい!」
その拍子に。
ポロッ。
胸のネジが一本落ちた。
二人は黙ってネジを見る。
「……。」
「……。」
リペが拾う。
「これは交換した方がいいでしょうか。」
修は吹き出した。
「それは交換しよう。」
「はい!」
二人の笑い声が港に響いた。
⸻
その夜。
港では今日も漁船が帰ってきた。
「ただいま!」
「おかえり!」
昨日よりも多くの声。
昨日よりも多くの笑顔。
そして。
コン……。
灯台の鐘が、小さく応える。
修は宿の窓から、その音を聞いていた。
「明日。」
「シーラも帰ってこられる船にしよう。」
遠くに見える古い漁船は、月明かりを浴びながら静かに海を見つめていた。
五十八年目の航海を、
楽しみに待つように。




