積層する虚飾、芯なき涙の果て
その街の境界、湿った風が吹き溜まる場所に、その「オーガニック・デリ」はあった。
今回、錆びついたドアを押し開けたのは、広告代理店で働く三十代の男、高城だった。
高城は、いわゆる「世渡り上手」だった。相手に合わせて表情を替え、言葉を選び、期待される通りの人間を演じる。上司の前では忠実な部下、部下の前では頼れる兄貴分、恋人の前では理想的なパートナー。
しかし、その器用さと引き換えに、彼は深刻な問題を抱えていた。
「……自分が、誰なのかわからないんだ」
鏡を見ても、そこに映るのは「誰かに見せるための仮面」を被った男の顔だけだった。自分自身の本当の望み、本当の怒り、本当の悲しみ。それらがどこにあるのか、幾層もの嘘に塗り固められた内側のどこを探しても、見つからなくなっていた。
店主の男は、高城の空虚な瞳をじっと見つめ、磨き抜かれた包丁を置いた。
「守りすぎたのですね。傷つかないよう、侵されないよう……でしたら、これをお試しください。中心を守るために、自らを幾重にも包み込んだ、高潔な品種です」
店主が差し出したのは、黄金色に輝く、驚くほど大玉の玉ねぎだった。
皮は薄く、しかし金属のような光沢を放っている。手に取ると、見た目からは想像もできないほどの「密度」と、かすかな熱を感じた。
「『オニオン・パラドックス』。これを、一枚ずつ丁寧に剥がし、生のまま食してください。剥がすたびに、あなたは自分を覆う余計な嘘を捨て、最後には『本当の自分』に出会えるでしょう」
高城は、すがるような思いで玉ねぎを家に持ち帰った。
深夜の書斎。彼は包丁を使わず、指先で慎重に玉ねぎの皮を剥ぎ取った。
パリッ。
乾いた、しかし鋭い音が響く。
一枚剥くたびに、部屋の中に鼻を突くような、強烈な刺激臭が立ち込めた。それは涙を誘う成分というよりは、肺の奥を直接掴まれるような、暴力的な「本能」の匂いだった。
彼は剥がした一片を口に運んだ。
……辛い。舌が痺れるほどの刺激。
しかし、飲み込んだ瞬間、高城はかつてない解放感に包まれた。頭の中にこびりついていた「仕事の段取り」や「明日の会食の予行演習」といった雑音が、スッと消えていく。
「もっとだ。もっと剥かなきゃ……本当の僕に会うために」
二枚、三枚と剥き進める。
そのたびに、高城の身体には「異変」が起きていた。
剥がした玉ねぎの欠片と同じ数だけ、彼の肌から、ポロポロと「薄い膜」が剥がれ落ち始めたのだ。それは日焼けの後の皮のようだったが、剥がれた後には新しい皮膚ではなく、また別の、半透明な膜が幾層も重なっていた。
一週間が過ぎる頃。
高城の生活は、この「剥く」という行為だけに支配されていた。
彼の身体は、もはや一つの生物としての輪郭を失いつつあった。
服を着ることもできない。少し動くたびに、全身からパラパラと「黄金色の皮」が剥がれ落ち、部屋の床を埋め尽くしていく。
彼の皮膚は、今や完全に玉ねぎのそれと化していた。
白く、瑞々しく、しかし恐ろしいほどに脆い。
そして、彼の感情は、異常なまでに高ぶっていた。
玉ねぎが発する強烈な成分のせいか、彼は一日の大半を、止まらない涙の中で過ごしていた。
悲しくもないのに、涙が溢れる。
悔しくもないのに、嗚咽が止まらない。
その涙は、彼の頬を伝うたびに皮膚を溶かし、さらに深い層へと浸食していった。
「……あ、あと少し……あと少しで……中心に……」
高城の声は、もはや湿った繊維の軋む音にしか聞こえなかった。
鏡を見る。
そこには、かつての彼の面影は微塵もなかった。
鼻も、耳も、唇も。すべてが、球体の積層構造の中に埋没し、滑らかなカーブの一部となっていた。
唯一残された眼球も、溢れ続ける涙によって白濁し、今や「中心を覗くための穴」に過ぎなくなっていた。
彼は最後の力を振り絞り、自分の胸元を指で掻いた。
ズブッ。
抵抗なく、指が身体の中に埋まる。
彼は、自分自身の肉体を一枚ずつ、剥がし始めたのだ。
肩を剥がし、腹を剥がし、胸を剥がす。
痛みはなかった。ただ、剥がすたびに、涙が洪水のように溢れ出し、部屋の中に青臭い、それでいて甘やかな匂いが充満していく。
そして。
ついに彼は、自らの「核」に到達した。
最後に残った、指先ほどの大きさの白い塊。
高城の意識は、そこに凝縮されていた。
「さあ、見せてくれ。これが、僕の……本当の……」
震える手で、最後の薄皮を剥ぎ取る。
……そこには、何もなかった。
核だと思っていた場所は、ただの空洞だった。
何万枚もの皮を重ね、守り、隠してきたその中心には、自分自身という「個」など存在していなかったのだ。
彼は、嘘を剥がしすぎた。
あるいは、彼は最初から、この幾重にも重なった「嘘の層」そのものだったのだ。
最後の皮が剥がれ落ちた瞬間、高城の肉体は、支えを失った建築物のように崩壊した。
ドロドロとした白い果汁と、大量の涙、そして黄金色の枯れた皮の山。
数日後。
高城の家を訪れた警察官が目にしたのは、閉め切られた書斎に充満する、眼を焼くような強烈な刺激臭だった。
部屋の中央、大量の黄金色の薄皮の中に、不気味なほど真っ白で、巨大な玉ねぎが一つだけ転がっていた。
警官がそれを拾い上げようと手を触れた瞬間。
玉ねぎは、まるで男の泣き声のような音を立てて、一気にバラバラに崩れ去った。
店主は、今日もエプロンの上に落ちた小さな塵を払う。
「自分を探しすぎると、形を失ってしまう。さて、次は……美しく着飾って、注目を浴びたい。誰よりも『華やか』でありたいという、渇いた方に。幾重にも花弁を広げる『カリフラワー』などは、いかがでしょうか」




