深泥の絆、空洞の歌
その街の境界線、霧が溜まる場所にある「オーガニック・デリ」の店主は、今日も静かに包丁を研いでいた。
今回、カランという乾いた音を立ててドアを開けたのは、派遣事務として働く二十代の女性、香苗だった。
彼女は、病的なまでの「孤独」への恐怖を抱えていた。
SNSの通知が数分途絶えるだけで、自分の存在が世界から消えてしまったような錯覚に陥る。職場の昼休み、誰の輪にも入れず、スマホの画面だけを見つめて飲み込むサンドイッチは、彼女にとって砂を噛むような苦痛だった。
「誰かと、繋がっていたいんです。心も、身体も、もっと深く……糸を引くような強い絆で。私だけが独りぼっちなのは、もう耐えられない」
店主の男は、粘土のような色をした瞳で彼女を見つめた。そして、奥の棚から新聞紙に包まれた「それ」を取り出した。
「繋がり、ですね。それも、一度結べば二度と解けないような……でしたら、これをお勧めします。泥の底で、あらゆる生命の記憶を繋ぎ止めてきた品種です」
新聞紙を解くと、中から現れたのは、不気味なほど白く、そして長いレンコンだった。
節々は赤子の腕のようにふっくらと膨らみ、表面には毛細血管のような細い根の跡が走っている。何より異様だったのは、その断面から、微かに「呼吸」のような音が漏れていることだった。
「『ムリナール・リンク』。これを薄く切り、酢に漬けず、そのまま煮込んで食べてください。空洞を通して、あなたは世界と繋がることになります」
香苗は、藁にもすがる思いでそのレンコンを調理した。
包丁を入れるたび、レンコンからは糸が引いた。それは一般的なレンコンのそれとは違い、まるで生きている蜘蛛の糸のように粘り強く、香苗の指に、手首に、執拗に絡みついた。
煮込まれたレンコンを口に運ぶ。
シャクリ。
独特の歯応え。咀嚼するたび、レンコンの「空洞」に溜まっていた泥のような、重たい芳香が鼻を抜けた。食べ終える頃には、彼女の胸の奥にあった孤独の「空白」が、何かに占拠されていくような奇妙な充足感に包まれていた。
変化は、その夜のうちに訪れた。
布団に入った香苗は、自分の身体の中に「道」ができているのを感じた。
喉から胃、そして腸にかけて、幾つもの円筒形の空洞が形成されていく感覚。それは痛みというよりは、身体が「管」へと作り替えられていく、ひどく静かな改造だった。
翌朝、彼女が職場に行くと、驚くべきことが起きた。
同僚たちが何を考えているのか、言葉を交わさずとも「わかる」ようになったのだ。
隣のデスクの女性が抱える小さな不満。上司が隠している嘘。それらが、香苗の身体に新しくできた「空洞」を通り、風のように流れ込んでくる。
「すごい……繋がってる。みんなと繋がってるわ!」
香苗は歓喜した。しかし、繋がりは一方的なものではなかった。
彼女が喜びを感じるたび、彼女の指先から、あの粘り気のある「糸」が糸のように伸び、デスクに、床に、そして同僚たちの服の裾へと、見えない速度で絡みついていったのだ。
一週間が過ぎる頃、香苗の身体は変容の極致にあった。
彼女の四肢は、節ごとに丸く膨らみ、肌はレンコンの皮のように白く、カサカサとした粉を吹き始めた。
そして、最も凄惨だったのは、彼女の「穴」だった。
耳、鼻、口。そして皮膚の至る所に、不規則な円形の空洞が開き始めたのだ。
そこからは常に、泥の匂いのする冷たい風が吹き抜け、彼女の意志とは無関係に、周囲の「音」や「感情」を吸い込み続けた。
「……苦しい……誰の……声……?」
もはや、自分の感情と同僚の感情の区別がつかない。
数千人の思念が、彼女の身体という「空洞の集合体」を通り過ぎ、削り取っていく。
彼女の肉体は、内側から空洞によってスカスカに侵食され、今や体重は羽のように軽くなっていた。
そして、彼女は気づいた。
自分が求めた「繋がり」とは、自分という個体を消し去り、巨大な「網」の一部になることだったのだと。
ある雨の夜。
香苗は、自室のベッドの上で動けなくなっていた。
彼女の指先、足先、そして無数に開いた身体の穴から、真っ白な蔓のような根が噴き出し、床を突き破り、アパートの基礎を超えて、大地深くへと根を張っていた。
階下の住人の話し声、隣の部屋のテレビの音、街を走る車の振動。
それらすべてが、彼女の身体に開いた空洞を共鳴させ、一つの巨大な「歌」となって彼女の意識を粉砕した。
彼女の肺はもはや酸素を取り込むためではなく、土の中の情報を濾過するための空洞へと変わっていた。
「ああ……やっと……みんなと……ひとつに……」
最後の一言を漏らした瞬間、彼女の頭部は節に沿って崩れ落ち、そこから幾つもの空洞が開いた。
もはやそこには、香苗という女性は存在しなかった。
あるのは、泥の中にどこまでも横に伸び、互いに複雑に絡み合い、繋がった、巨大な「人型のレンコン」の塊だけだった。
数日後。
香苗のアパートからは、誰も出てこなかった。
不審に思った大家がドアを開けると、そこには家具一つない真っ白な部屋があり、床一面を覆い尽くすように、泥から引き揚げられたばかりのような瑞々しいレンコンが、糸を引きながら横たわっていた。
そのレンコンの「穴」を覗き込むと、深い暗闇の向こうから、何百人もの囁き声が聞こえてくるという。
店主は、今日もエプロンの紐を締め直し、新しい野菜をカウンターに並べる。
「繋がりすぎた心は、もう自分を支えられません。さて、次は。自分の殻に閉じこもって、誰にも中を見せたくない……そんな頑なな方に。幾重にも重なった『玉ねぎ』などは、いかがでしょうか」




