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地中の捕縛、粘液に沈む執着の触手

 その街の境界、かつては底なし沼であった場所に無理やり土を盛り、家々を建てたという曰く付きの土地。どれほど晴れた日でも足元からは湿った土の香りが立ち上り、一歩踏み出すごとに何かが足首を掴もうとするような感覚に襲われる場所。その路地の突き当たりで、「オーガニック・デリ」は、地中深くまで突き刺さった巨大な楔のように、震えるような拍動を伴って佇んでいた。


店主はカウンターの奥で、自身の「触覚」を研ぎ澄ませていた。

 彼の指先からは、もはや爪ではなく、数メートルにも及ぶ「半透明な粘液質の繊維」が、触手のように蠢きながら床の隙間へと伸びていた。店主の神経はすでに街全体の地下に張り巡らされた根系と完全に同期しており、数キロ先で歩く住人の心音さえも、微かな振動として感じ取ることができた。

「……逃げられませんよ。一度この土に触れたものは、すべて私の毛細血管の一部なのですから」


 カラン、と泥の中で何かが弾けるような音がして、ドアの鈴が鳴った。

 入ってきたのは、かつて執念深い追跡で恐れられた元私立探偵の男、黒田くろだだった。


 黒田は「喪失」という名の病に侵されていた。

 彼は長年、ある未解決事件を追い続けていた。相手を追い詰め、その正体を暴き、自分の手の中に完全に収めること。その執着だけが彼の生きる糧だったが、対象は煙のように消え、彼の手元には何も残らなかった。彼は、二度と獲物を逃さないための「絶対的な捕縛力」を求めていた。一度掴んだら離さない、相手の骨の髄まで絡みつき、一つに溶け合うような粘り強い力が欲しかった。

「……指の隙間から、すべてが零れ落ちていくんだ。真実も、愛した女も、憎い仇も。私は、自分の手をもっと強くしたい。地中に深く指を突き立て、地球そのものを掴み取って離さないような、そんな執念の化身になりたいんだ」


 黒田の声は、乾いた土が擦れ合うような、しかし異様な湿度を帯びた響きを放っていた。

 店主は、黒田の震える指先を、獲物の動きを止める粘着トラップを仕掛ける蜘蛛のような目で見つめた。そこには、対象を求めてさ迷う、飢えた触手が見えた。店主はカウンターの下から、恐ろしく長く、泥を纏ってうねる塊を取り出した。


「執着、ですね。荒れ狂う土壌の中で、何年もかけて岩を砕き、自らの体を深く、鋭く突き立てていく、地中の指……でしたら、これをお試しください。あなたが探し求めていた、永劫の捕縛です」


 差し出されたのは、表面に無数の細かい根毛が生え、生き物のように微かに蠢く、巨大な「自然薯じねんじょ」だった。

 それは野菜というよりは、地中から引き抜かれた「巨人の指」、あるいは「千切れた触手」のようにも見えた。表面を覆う薄い皮からは、野性的な土の匂いと、一度触れたら二度と剥がれない「接着剤」のような、濃厚な粘り気を予感させる香りが漂っていた。


「『ワイルド・バインド(野生の縛鎖)』。これを、皮を剥かずに生のまま、あなたの『執着の対象が最後に触れた私物』と一緒に、荒々しく摺り下ろしてください。そして、その粘り気があなたの両腕を完全に固めるまで、一切の動きを止めて待つのです。あなたの手は、運命そのものを掴み取るでしょう」


 黒田は、失ったものを取り戻すための呪具を手に入れたかのように、それを持って帰宅した。

 彼は、かつて追っていた対象が残した手袋を皿の底に敷き、あの自然薯を、狂ったように摺り下ろした。


 シュリ、シュリ、シュリ……

 

 摺り下ろすたびに、部屋中には「息が詰まるほどの粘り気」が充満した。自然薯の液は、もはや食べ物ではなく、触れるものすべてを一体化させる「生体セメント」へと変わっていく。

 黒田は、その真っ白でドロドロとした塊に、自らの両腕を肘まで深く突き入れた。

 

「……っ!!」


 それは、両腕の骨と肉が、強引に「一本の杭」へと統合されるような、恐ろしい感覚だった。

 自然薯の強力な粘液が彼の毛穴から侵入し、筋肉を硬直させ、代わりに驚異的な柔軟性と強度を持つ「植物繊維」へと書き換えていく。


「あ、ああ……離さない……もう、二度と……!!」

 

 変化は、まず彼の「身体構造」を垂直へと固定した。


 翌日、黒田の家からは、一歩も外へ出る音がしなかった。

 代わりに、床下から、そして壁の隙間から、直径数十センチにも及ぶ「白く粘る触手」が街路へと溢れ出した。その触手は、通りかかる猫、カラス、そして不運な通行人を、瞬時に絡め取り、自らの内に取り込んでいった。絡め取られたものは、自然薯の強力な消化酵素でゆっくりと溶かされ、黒田の栄養へと変わっていった。


 三日目。

 黒田の自宅は、巨大な「白い繭」に包まれた。

 繭の表面からは、数千本の細い根が地中へと伸び、街のインフラ、水道管、ガス管を締め上げ、この街の「生命線」を物理的に掌握し始めた。

 

「……見つけたぞ……みんな、ここにいたんだな……もう、逃がさない……」


 五日目。

 街の中心部には、地中から突き出した巨大な「自然薯の柱」が、天に向かってそびえ立っていた。

 柱の内部で、黒田だったものは、もはや人間の器官を何一つ持っていなかった。

 彼の意識は、街の地下全域に広がった「粘液ネットワーク」と一体化していた。

 街を歩くすべての足音、すべての鼓動を、彼はその粘り強い神経で掴み取っていた。住人たちは、自分たちの足元が常に「何かに掴まれている」ような感覚に怯えながら、一人、また一人と地中へと引きずり込まれていった。


 七日目。

 黒田の精神は、完全な「捕縛」に至った。

 彼という「人間」は、もうどこにもいなかった。そこにあるのは、この街に住むすべての生命を一つの「根」で繋ぎ止め、永遠に離さない、地上に顕現した「執着の檻」そのものだった。

 街は巨大な粘液の森に沈み、そこではただ、何かが地中を這い回る「ズズッ……」という不気味な音だけが響いていた。


 店主は、街全体を覆う白い粘液の海を、まるで自分の家を歩くように優雅に歩いた。

 彼は襲いかかる触手を、自身の「指先の粘液」で手懐けながら、中央に鎮座する「黒田だったもの」の前に立った。


「この粘り、この執念。個体同士の境界を埋める、最高の『接着剤』です。これでいよいよ、この街の住人すべてを一束の『苗』にまとめる準備が整いました」


 店主がそう言うと、彼の両腕が肩から抜け落ち、中から「巨大なスクリュー状の主根」が噴き出した。それは黒田の核へと深く、回転しながら突き刺さった。黒田が街中から奪い取り、蓄積してきた数千人分の「生命の重み」を、凄まじい吸引力で店主の体内に回収していった。

 

 店主の身体は、もはや物質としての密度を超え、周囲の空間さえも「粘り気」で歪ませるほどの質量を持ち始めた。

 店主の姿は、もはや人型を失い、巨大な『黄金の螺旋』を核にした、地中を統べる龍のような植物へと昇華を遂げていた。


「私は料理人ではありません。私は、バラバラになったあなたたちの魂を一束に括り、新しい星へと運び出すための、『梱包者』なのです」


 店主が黒田の塊から主根を引き抜くと、そこには一滴の粘液も残らず、ただ乾燥してひび割れた、古い木の枝のような残骸が転がっているだけだった。


「さて、次は……冷たい水の中で、自らの潔白を証明するように、真っ白な指を伸ばす。しかし、その節々には泥を溜め込み、他者の『穴』を覗き見ることでしか存在意義を見出せない、観察者。幾つもの窓を持ち、風を通しながら、その実、誰の言葉も通さない、冷徹な孤独の回廊。透視する空洞。『蓮根れんこん』などは、いかがでしょうか」

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