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沈黙の胞子、白き暴君の寄生する静寂

 その街の境界、かつては巨大な劇場があったというが、今は不自然なほど音の反響がない、真空地帯のような一角。足音さえも路上の砂に吸い込まれ、自身の鼓動が耳障りに響く路地の先で、その「オーガニック・デリ」は、真っ白な霧の中に溶け込むように佇んでいた。


 店主はカウンターの奥で、自身の「耳」を削ぎ落としていた。

 剥き出しになった店主の顔の横側からは、肉ではなく、白い珊瑚のような「花蕾」が次々と芽吹いていた。彼は削ぎ落とした自身の耳を、乳鉢で静かに磨り潰し、雪のような白い粉末へと変えていく。店主がその粉をふっと吹きかけると、店内のすべての音が消え、ただ「植物が細胞分裂する微かな音」だけが、暴力的なまでの密度で空間を満たした。

「……騒がしいですね。人間の感情というものは、死の間際までこれほどまでに低俗な音を立てる」


 カラン、と音が鳴ったはずなのに、空気には振動さえ伝わらない奇妙な静寂を伴って、ドアが開いた。

 入ってきたのは、かつては天才指揮者と称賛されながら、現在は聴覚の異常に悩まされ、世俗のすべてを拒絶して引きこもっている男、すすむだった。


 進は「静寂」の奴隷だった。

 彼にとって、街の雑踏も、他人の話し声も、すべては自身の脳を汚す「ノイズ」でしかなかった。彼は完璧な無音を求め、自室を防音材で埋め尽くしたが、それでも自分の体内を流れる血の音や、神経が発する電気信号の音が耐えられなかった。彼は、世界そのものを沈黙させ、自分という「個」さえもが静かな白い霧に溶けてしまうような、絶対的な平穏を渇望していた。

「……もう、何も聞きたくないんだ。言葉も、音楽も、他人の存在そのものが耳障りだ。世界を、真っ白な雪で覆い尽くすように、すべてを沈黙させてくれる『力』が欲しい。私自身が、静寂そのものになれるなら、この意識が消えても構わない」


 進の声は、掠れた呼吸のようであり、もはや音としての輪郭を持っていなかった。

 店主は、進の不自然に震える鼓膜を、深い森の奥で獲物の羽音を待つ蜘蛛のような目で見つめた。そこには、音への恐怖で壊れかけた、空虚な伽藍が見えた。店主はカウンターの下から、不気味なほど白く、そして複雑に枝分かれした塊を取り出した。


「沈黙、ですね。無数の小さな蕾を密集させ、周囲の振動をすべてその内側へ閉じ込めてしまう、白い監獄……でしたら、これをお試しください。あなたが探し求めていた、世界を凍らせる胞子です」


 差し出されたのは、あまりにも白く、そして脳の断面図のように複雑な起伏を持つ「カリフラワー」だった。

 それは野菜というよりは、地中から掘り出された「天使の脳腫瘍」、あるいは「凍結された無数の溜息」のように見えた。表面を覆う粒状の花蕾は、一つ一つが「眼球」のように進を見つめているように感じられ、そこからは、冷たい石灰の匂いと、降り積もる雪のような無臭の圧迫感が漂っていた。


「『サイレント・マジョリティ(沈黙する多数)』。これを、一切加熱せず、あなたの『最も嫌いな音を出す者の名前』を刻んだ氷と一緒に、粉々に砕いて飲み込んでください。その後、一晩、耳を塞がずに深海のような闇の中で過ごすのです。あなたの周囲からは、永遠にノイズが消え去るでしょう」


 進は、世界を消し去るための聖杯を受け取ったかのように、それを持って帰宅した。

 彼は、自分を追い落としたかつての弟子の名前を刻んだ氷と共に、あのカリフラワーをミキサーにかけ、真っ白な泥状の液体に変えて飲み干した。


「……」


 飲み込んだ瞬間、喉の奥から白い胞子が爆発するように広がり、彼の神経網を一本ずつ「白い綿」で包み込んでいった。

 進は、自分の鼓動が遠のき、世界から一切の振動が消失していく快感に震えた。

 

 変化は、まず彼の「存在感」を消し去った。


 翌日、進が街に出ると、彼が通り過ぎる場所から、すべての音が消えていった。

 車のエンジン音、人々の笑い声、風に揺れる木の葉の音。それらはすべて、進の皮膚から噴き出す目に見えない「白い胞子」に吸収され、無へと還る。進の周囲十メートルは、音が死ぬ「静寂の檻」となった。


 三日目。

 彼の皮膚からは、本物のカリフラワーのような白い花蕾が次々と芽吹き、彼の服を突き破って、全身を真っ白な彫刻のように覆い尽くした。

 彼が吐き出す息は白い霧となり、それに触れた人間は、声帯が瞬時に石灰化し、二度と音を発することができなくなった。


 五日目。

 進の自宅を訪れたアパートの管理人が目にしたのは、ドアの隙間から溢れ出す、真っ白な「カリフラワーの海」だった。

 部屋全体が、進の肉体から増殖した白い胞子で埋め尽くされ、音だけでなく光さえもがその白さに吸い込まれていた。

 中央で鎮座する進だったものは、もはや巨大な一つの「脳」のような形をしていた。無数の小さな眼球のような蕾が、一斉に管理人を「見た」。

 管理人が悲鳴を上げようとしたが、開いた口の中にはすでに白い胞子がぎっしりと詰まっており、彼は音もなく白い塊へと変質した。


「……ああ……静かだ……これが……僕が求めていた……完璧な……」


 七日目。

 進の精神は、完全な「無音」へと至った。

 彼という「人間」は、もうどこにもいなかった。そこにあるのは、周囲のあらゆるエネルギーと振動を吸い込み、ただ静寂だけを撒き散らす、巨大な「沈黙の暴君」だった。

 街の一角は、地図から消えたかのように音のない廃墟となり、そこでは真っ白なカリフラワーだけが、静かに、執拗に増殖を続けていた。


 店主は、音のない死の街と化した現場に、優雅な足取りで足を踏み入れた。

 彼は自身の足音さえもカリフラワーに捧げながら、中央に鎮座する「進だったもの」の前に立った。


「これほど純度の高い静寂は、私の『故郷』を思い出させます。騒がしい人間たちを黙らせるには、やはりこれくらいの徹底した濾過が必要ですね」


 店主がそう言うと、彼の頭部が割れ、中から「音叉のような形をした、白銀の神経束」が噴き出した。それは進の核へと突き刺さり、彼が世界から奪い取った膨大な「音のエネルギー」を、純粋な振動として店主の体内に回収していった。

 

 店主の肉体が、高周波の振動を放ちながら、さらに透き通っていく。

 店主の輪郭はもはや人間ではなく、巨大な神経細胞が歩いているかのような、幾何学的な異様さを露呈させていた。


「私は料理人ではありません。私は、この星に漂う雑音を整理し、一輪の『完全な沈黙』を咲かせるための、庭師なのです」


 店主が進の塊から神経束を引き抜くと、そこには雪のように軽い、白い粉末の山が残されているだけだった。


「さて、次は……大地の中に、歪な黄金色の財宝を隠し持ちながら。その本性は、触れる者の喉を焼き、意識を狂わせる、激しい『熱』の化身。凍えた世界を救うふりをしながら、内側からすべてを焦がし尽くす、地下の放火魔。地中の猛火。『生姜しょうが』などは、いかがでしょうか」

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