紅の薄氷、薬味に溺れた影法師
その街の境界、季節の変わり目にだけ現れるという、蜃気楼のように揺らめく路地。その突き当たりに、その「オーガニック・デリ」は、雨に濡れた紅葉のような、鮮やかでいてどこか寂しい色彩を纏って佇んでいた。
今回、鏡の中の自分を恐れるように深く帽子を被り、幽霊のような足取りで入ってきたのは、かつて「天才子役」と謳われ、成長と共に居場所を失った俳優の青年、蓮だった。
蓮は、自分の中に「中身」がないことを知っていた。
カメラの前で誰かを演じている時だけは生命を感じるが、ひとたび役を脱げば、そこには空っぽの空間が広がっている。彼は、自分がただの「付け合わせ(薬味)」のような存在に成り下がったことを呪っていた。
「……メインにはなれない。でも、忘れられるのは耐えられないんだ。一瞬でいい、人の心を鮮やかに突き刺して、消えない余韻を残す『特別な何か』になりたい。僕という存在が、誰かの記憶を狂わせる劇的なスパイスになれるなら、この肉体なんて、もういらない」
蓮の訴えを聞きながら、店主の男はカウンターの下で何かを刻んでいた。
サクッ、サクッ、サクッ……。
そのリズムは心音のように正確で、刻むたびに店主の指先からは、血ではなく「透明な緑の滴」が零れ、まな板に吸い込まれていく。蓮はその異様な光景に気づくこともなく、差し出された皿を凝視した。
「刹那、ですね。中心を持たず、幾重にも重なる薄紅の皮の中に、香りの幻影だけを閉じ込めた初夏の風……でしたら、これをお試しください。主役を喰らい、世界を香りで塗り替える、虚構の衣です」
店主が差し出したのは、驚くほど色鮮やかな、透き通るような紅色の「みょうが」だった。
それは野菜というよりは、精巧に削り出された「紅水晶の蕾」、あるいは何かの「鱗」が重なり合った塊のようにも見えた。先端からは、意識を遠のかせるような、鋭くも儚い、気高い芳香が立ち昇っていた。
「『ミラージュ・ピンク(紅の蜃気楼)』。これを、一切の味付けをせず、氷水にさらして一気に飲み込んでください。皮の一枚一枚があなたの内壁に張り付くとき、あなたは『忘れられない一瞬』そのものになれるでしょう」
蓮は、自らを伝説へと変える劇薬を受け取り、アパートへ戻った。
彼は教えられた通り、氷を浮かべた冷水の中に、その紅色の蕾を沈めた。
チリ……
水に触れた瞬間、みょうがは花が開くように薄い皮を広げ、部屋中に、心臓を直接掴むような鮮烈な香りが広がった。
彼はそれを、喉が凍りつくような冷たさと共に飲み込んだ。
「うぇっ……」
喉を通るたびに、薄い紅色の皮が剥がれ落ち、食道から胃、そして血管の中へと滑り込んでいく。それは血流に乗って全身へ広がり、彼の「実体」を内側から削り取っていった。
「ああ……体が、軽くなっていく……僕は、香りになっていくんだ……」
変化は、まず彼の「輪郭」に現れた。
翌朝、蓮が舞台のオーディションに向かうと、周囲の視線が釘付けになった。
彼の姿は、まるで発光しているかのように美しく、歩くたびに、人の理性を狂わせる「紅の香気」が霧のように溢れ出した。彼が演じる必要はなかった。彼がそこに立ち、一言発するだけで、審査員たちは涙を流し、至上の恍惚に浸った。
だが、その時、蓮の右手の指先は、すでに半透明の「みょうがの皮」へと変わっていた。
三日目。
蓮の家からは、生活感が一切消えた。
彼の肉体は、何層にも重なり合った「薄紅色の薄皮」の集合体となり、中心にあったはずの心臓や骨は、香りの高い「水」へと溶け去っていた。
彼は鏡を見る。そこには、絶世の美女のようにも、端正な貴公子のようにも見える「形なき何か」が揺らめいていた。
「……もう……だれも……僕を……忘れられない……」
五日目。
蓮を起用した舞台は大盛況となった。
しかし、客席の人々は、舞台が終わった瞬間に「蓮の顔」を思い出せなくなっていた。残っているのは、鼻腔にこびりついた、狂おしいほどに鮮烈な、あの「みょうがの香り」だけ。
人々は、その香りの残滓を求めて、禁断症状を起こしたように劇場へ押し寄せた。
七日目。
舞台のカーテンコール。蓮は観客の拍手の中で、音もなく崩れ落ちた。
いや、崩れたのではない。
彼の肉体を構成していた数万枚の「紅の皮」が、一斉に風に乗って、客席へと舞い散ったのだ。
舞台の上には、衣装だけが残され、蓮の姿はどこにもなかった。
観客たちは狂ったようにその「皮」を拾い集め、鼻に押し当て、その芳香を吸い込んだ。
後日、店主は無人の劇場の楽屋に立っていた。
鏡の前には、蓮が最後に纏っていたシャツと、そこから芽吹いた小さな、小さな、紅いみょうがの蕾。
店主がその蕾を指でつまみ上げると、彼の指先が、一瞬だけ土で編まれた根のような、複雑な繊維質に変化し、再び人の皮膚へと戻った。
「美しい最期でしたね、蓮さん。中身がないからこそ、あなたは完璧な『薬味』として、世界を酔わせることができた。ですが、香りが消えた後、そこには土さえも残りません」
店主は、そのみょうがを自分のトランクに収める。
ふと、店主の影が壁に落ちた。その影には、人の頭部からはあり得ない、枝分かれした鹿の角か、あるいは野菜の根のような歪な突起が、ゆらりと揺れていた。
「さて、次は……どれほど土の底に深く潜り、静寂を守ろうとしても、その実、自らの内側にある『不気味な造形』を誰かに見せつけたいと願っている、歪な隠遁者。無骨な泥の鎧を纏いながら、中身は真っ白な、しかし迷路のように入り組んだ空洞。大地の底で沈黙を編む『れんこん(蓮根)』などは、いかがでしょうか」




