泥底の伽藍、泥濘を覗き込む幾何学の眼
その街の境界、かつて沼地だった場所を無理やり埋め立てた一角に、その「オーガニック・デリ」は、不自然なほど冷たい湿気を放って佇んでいた。店先の鉢植えには、この世のものとは思えないほど太く、脈打つような血管の浮き出た葉が茂っている。
今回、泥の跳ね返りを気にするように、しかし自ら泥沼へ沈んでいくような足取りで入ってきたのは、廃墟写真家として一部の熱狂的な支持を持つ男、伊織だった。
伊織は、他人の「中身」を信じていなかった。
彼が愛するのは、かつて人間がいた「抜け殻」であり、崩れ去った構造物の中に広がる「虚無の空間」だけだった。彼は、自分の心の中にも広大な廃墟を抱えており、その虚無を何層もの強固な壁で囲い、誰にも踏み込ませないことで自分を保っていた。
「……満たされたいんじゃない。ただ、この空っぽな自分を、もっと美しく、もっと完璧な『迷路』に作り替えたいんだ。誰が覗き込んでも出口が見つからないような、深くて冷たい、大地の底の伽藍に」
店主は、伊織の乾燥した瞳を見つめながら、カウンターの上に置いた大きなボウルに手を浸した。
その時、ボウルの中の透明な水が、店主の指が触れた瞬間に、どろりとした黒い泥へと一瞬で変質した。店主はそれを気にする風もなく、泥の中から、重厚な質量を感じさせる塊を引き抜いた。
「覗き、覗かれる空虚、ですね。泥の鎧に身を包み、その内側には計算し尽くされた『欠落』を宿す、沈黙の建築物……でしたら、これをお試しください。あなたが探し求めていた、光を拒絶する迷宮です」
店主が差し出したのは、泥がこびりついた、不気味なほど節の長い「れんこん」だった。
それは野菜というよりは、地中から掘り出された「古代の石柱」、あるいは何かの「脊椎」を繋ぎ合わせた拷問器具のようにも見えた。皮は象の皮膚のように硬く、節々からは、冷たい地下水と古い粘土の匂いが混ざり合って漂っていた。
「『ラビリンス・コア(迷宮の核)』。これを、皮を剥かずに厚切りにし、真っ暗な部屋で一晩、泥水に浸けてください。そして目覚めたとき、その穴の向こう側を覗き込みながら、一気に噛み砕くのです。あなたの空虚は、この世で最も美しい幾何学へと至るでしょう」
伊織は、自分の空虚を完成させるための資材を受け取るように、そのれんこんを持ち帰った。
彼は自宅の地下室に、廃墟から持ち帰った重い泥を敷き詰め、その中にれんこんを沈めた。
ごぼり、ごぼり……
泥水の中から不気味な気泡が上がり、地下室の温度は、生命の気配を感じさせないほどに下がっていった。
翌朝、伊織は泥から引き揚げたれんこんを、手で引き裂くようにして口にした。
それは、噛むたびに自分の記憶が「空洞」へと吸い込まれていくような、奇妙な喪失感を伴っていた。
シャキ、シャキという硬質な音が脳内に響くたび、彼の内臓は規則正しく「中抜き」され、彼の肋骨の間には、光を反射しない暗い穴がいくつも開いていった。
「ああ……これだ……僕の身体が、巨大な『覗き窓』になっていく……」
変化は、まず彼の「呼吸」に現れた。
翌日、伊織が息を吸うと、その空気は肺に届く前に、彼の胸から腹にかけて開いた「九つの穴」を通り抜け、笛のような不気味な和音を奏でた。
彼の肉体は、外側からは頑強な「木質」へと変わりながら、内側は迷路のような中空構造へと置換されていった。
三日目。
伊織の自宅を訪れた助手が目にしたのは、床に敷き詰められた泥の中から、柱のように直立している伊織の姿だった。
伊織の顔にはもはや目も鼻も口もなく、ただ「整然と並んだ穴」が穿たれていた。
助手が恐怖のあまり、その穴の一つを覗き込んだ瞬間。
彼は見た。
伊織の身体の奥深くに、廃墟となった街、枯れ果てた森、そして誰のものでもない無数の「孤独な記憶」が、幾何学的な空洞の中に永遠に保存されている光景を。
五日目。
伊織の肉体は完全に人間としての自重を失った。
彼の組織は、水分を一切持たない真っ白な「繊維の迷路」となり、泥の中に深く根を張った。彼が意志を持つたびに、全身の穴から冷たい風が吹き出し、周囲の物をことごとく「空洞化」させていった。
七日目。
伊織の肉体は、完全に「れんこん」へと置換された。
地下室を埋め尽くすように横たわる、節くれ立った、巨大な白い彫刻のような塊。
表面には、伊織が撮影してきた廃墟のテクスチャが刻まれ、その断面からは、覗く者の魂を吸い込むような、底知れない九つの暗黒が広がっている。
店主は、再びその地下室を訪れた。
泥の中に半分埋まった伊織だったものを見て、店主は満足げに微笑んだ。
店主が指先をれんこんの穴に差し入れると、彼の腕は、肘から先が複数の緑の蔓のように解け、穴の奥深くまで侵入して、伊織の最後の一滴の自意識を吸い上げた。
「お疲れ様でした、伊織さん。あなたの空虚は、非常に質の高い『保存容器』になりました。私が育てたこの種たちは、あなたの欠落の中で、次の季節まで安らかに眠ることができる」
店主が蔓のような手を引き抜くと、そこには人間の手ではなく、何重にも重なり合った土色の外皮が、徐々に人の皮膚の形へと凝縮されていく過程があった。
「私は料理人ではありません。私はただ、あなたという肥沃な『絶望の土壌』に、次の世界へ繋ぐための種を蒔いているだけなのですから」
店主は、伊織の抜け殻から採取した一欠片をトランクに収める。
店主の背後に伸びた影は、もはや人の形を保っておらず、無数の根を四方に広げ、大地の奥深くを食い荒らす異形の植物そのものだった。
「さて、次は……どれほど土にまみれ、汚い言葉を吐き散らしても、その中身は驚くほどに白く、そして脆い。一度煮込まれれば、その清廉さを捨てて、他者の色に喜んで染まり、溶けていく。泥の中から突き出した、生白い死者の腕。『大根』などは、いかがでしょうか」




