土の下、千の眼が開く
光が、磨りガラスの向こう側へ遠ざかっていく。
老いた彫刻家の慎三にとって、それは死よりも残酷な宣告だった。白内障が進み、かつて緻密な造形を生み出した彼の手元は、今や湿った霧の中に閉じ込められている。
「……見えん。何も見えん」
ノミを握る力はまだある。作りたい像のイメージも脳裏にはある。だが、肝心の「境界線」が見えないのだ。
そんなある日、散歩の途中で道に迷い、彼は例の「オーガニック・デリ」の前に立っていた。
店主の男は、慎三の濁った瞳を覗き込み、低く、湿り気を帯びた声で囁いた。
「光を追うから、絶望するのです。闇の中にこそ、真実の形は転がっているというのに」
男が差し出したのは、土がこびりついた一個のジャガイモだった。
形はいびつで、表面には無数の窪みがある。まるで、閉じた瞼が幾つも並んでいるかのような、薄気味悪い外見をしていた。
「これは『ノクターン・アイ』。これを土に埋め、一晩だけ枕元に置いてください。そして翌朝、その土を溶かしたスープを飲み干すのです。そうすれば、あなたは二度と光を必要としなくなる」
慎三は半信半疑ながらも、男の言葉に従った。
鉢植えの土にジャガイモを埋め、枕元に置く。寝入る間際、土の中からカサリ、カサリと、何かが這い回るような音が聞こえた気がしたが、深い眠りに落ちた。
翌朝。彼は指示通り、土の香りが強く残るそのスープを飲み干した。
喉を通る瞬間、ザラりとした土の感触と、冷たいデンプンの塊が全身に沈殿していくような感覚があった。
異変は、まず「皮膚」に現れた。
数日後、慎三の体中に、小さく硬い突起がポツポツと現れ始めた。
痒みはない。ただ、その突起が服に擦れるたび、脳内に「映像」が流れ込んでくるのだ。
背中の突起が壁に触れれば、壁の裏側の配管の形が「見える」。
足の裏の突起が床を捉えれば、床下の湿った土の匂いと、虫の這う動きが「見える」。
「これだ……この感覚だ……!」
慎三は歓喜した。肉眼で見える光など、もはや不要だった。
彼の体表に現れた無数の「芽」は、すべてが外界を感知する鋭敏なセンサー……すなわち「眼」となっていたのだ。
しかし、喜びは長くは続かなかった。
ジャガイモの芽には、毒がある。
一週間が経つ頃、慎三の身体は急速に重く、硬くなっていった。
皮膚は角質化し、ひび割れた土のような茶褐色に変色した。関節を動かすたびに、ミシミシと乾いた音が響く。
そして、何よりも彼を追い詰めたのは、情報の過剰摂取だった。
体中から芽吹いた「眼」は、彼の意志に関係なく、あらゆる情報を脳に叩き込んでくる。
壁の中に潜むシロアリの顎の動き。
地下深くを流れる水脈の冷たさ。
部屋の隅に溜まった埃の結晶の形。
視界はもはや暗闇ではなく、数万、数十万の断片的な「知覚」が明滅する地獄と化した。
「……消えてくれ。何も見せないでくれ……!」
慎三は叫ぼうとしたが、喉の奥にはすでに巨大なジャガイモの塊が居座り、声帯をデンプン質で固めていた。
彼は倒れ込み、冷たい床を這った。その瞬間、床に触れた全身の「芽」が一斉に開き、床下の闇を、より深く、鮮明に描き出してしまう。
彼の指先は、もはや彫刻を刻む道具ではなく、土を掘り進むための鈍い「芋」へと変容していた。
彼は本能的に理解した。この情報量に耐えるには、自分を包み込む「静かな闇」に還るしかないのだと。
慎三は庭へと這い出した。
冷たく湿った土に触れた瞬間、全身の「芽」が歓喜に震えた。
彼は自らの手で土を掘り、自らの身体を埋めていった。
土の中は、温かく、静かだった。
光はない。だが、全身の芽を通して、地球という巨大な沈黙と一体になる感覚。
慎三の脳は、最後に最高に精緻な「土の彫刻」を描き出し、そして、思考を停止させた。
数ヶ月後。
慎三の家の庭には、見事なジャガイモが群生していた。
近所の住民が、放置された庭を片付けようと土を掘り返すと、そこには奇妙な形のジャガイモが幾つも転がっていた。
そのジャガイモの表面には、まるで人間の「眼球」のような、瑞々しく光る小さな突起が幾つもついていた。
一人が思わずそのジャガイモを手に取ると、土に汚れ、半分閉じていた「芽」が、ぱちりと開いたような気がした。
店主は、今日もカウンターで静かにナイフを研いでいる。
「土の記憶は、深く、重いものです。さて、次は少し軽やかなものを。空に向かって、どこまでも伸びていきたい……そんな願いを込めた『トウモロコシ』はいかがでしょうか」




