泥濘の連鎖、親和という名の窒息
その街の境界、古い井戸から常に湿った腐葉土の匂いが立ち昇り、地面を這う蔦が通行人の足首を狙うようにうねる場所に、その「オーガニック・デリ」は泥に濡れた岩のような重圧を纏って存在していた。
今回、湿り気を帯びたコートの裾を重そうに引きずり、何かに縋り付くような足取りで入ってきたのは、専業主婦の佳代だった。
佳代は「繋がり」の狂信者だった。
夫や子供と一分一秒でも離れることを恐れ、彼らの行動、思考、果ては体温までも共有しなければ気が済まない。彼女にとっての愛とは、相手との境界線を泥で塗り潰し、一つの塊になることだった。しかし、彼女が手を伸ばせば伸ばすほど、家族は滑り落ちる魚のように彼女の手から逃れていった。
「……寂しいんです。どうしてあの人たちは、私の内側に入ってきてくれないの? もっとドロドロに溶け合って、誰が誰だか分からないくらい、強い糸で結ばれたい。離れようとしても離れられない、そんな粘り強い『絆』が欲しいんです」
佳代の指先は、常に何かを捏ねているかのように小刻みに震え、その瞳は、逃げゆく愛を捕らえようとする飢えた捕食者の輝きを宿していた。
店主の男は、佳代の執着に濁った瞳をじっと見つめ、カウンターの上に「それ」を置いた。
「密着、ですね。土の重みの中で互いに寄り添い、親芋から子芋へ、孫芋へと、呪縛のような連鎖を広げていく……でしたら、これをお試しください。離れることを拒む、大地の抱擁です」
店主が差し出したのは、泥と細かな毛に覆われた、歪な里芋の塊だった。
それは野菜というよりは、地中から掘り出された「絡まり合う臓器」、あるいは数数の頭部が一つに癒着した「呪物」のようにも見えた。表面からは、糸を引くような不気味な粘液が滲み出し、そこからは、夏の湿った土と、どこか生温かい体液の匂いが混ざり合って漂っていた。
「『マザーズ・バインド(母なる縛鎖)』。これを、皮を剥かずに土がついたまま、あなたの体温でじっくりと蒸し上げてください。そして、その粘り気があなたの喉を塞ぐまで、一気に飲み込むのです。あなたの孤独は、永遠の連鎖の中に埋没するでしょう」
佳代は、家族を繋ぎ止めるための聖杯を手に入れたかのように、その里芋を持ち帰った。
彼女は家族をリビングに集め、自分一人の体温で里芋を温めるため、それを服の中に、肌に直接押し当てた。
ぬちゃり。
里芋の粘液が彼女の肌に触れた瞬間、猛烈な熱が走り、彼女の皮膚と里芋の境界が溶け始めた。
彼女は、ドロドロに溶け出した里芋を、恍惚とした表情で口に運んだ。
喉を通るたびに、糸を引く粘液が食道を覆い、心臓を絡め取っていく。
それは栄養ではなく、彼女の肉体を「一つの根塊」へと作り替えるための接着剤だった。
「これよ……さあ、みんな、こっちへ来て。私の一部になって……」
変化は、まず彼女の「分泌」に現れた。
翌朝、家族が目を覚ますと、リビングの床が、佳代から溢れ出した無色の粘液で埋め尽くされていた。
佳代の肉体は、床に座り込んだまま動かなくなり、その肌からは無数の細い「ひげ根」が伸び、逃げようとする夫と子供の足首に、蛇のように絡み付いた。
一度触れれば、二度と離れない。その粘り気は、引けば引くほど強く結びつく、呪いの糸だった。
三日目。
佳代の肉体は、中央にある巨大な「親芋」へと変貌した。
佳代が「親芋」としての自覚に目覚めた時、彼女から伸びた菌糸のような神経は、すでに夫・正志と、息子・健太の皮膚を突き破り、その中枢神経へと直接プラグを差し込んでいた。
正志は最初、それがただの「妻の過干渉」だと思っていた。
しかし、朝目覚めると、自分の脚が寝室の床に癒着し、動かせなくなっていることに気づいた。パニックに陥り叫ぼうとしたが、喉の奥には里芋特有の、あのえぐみのある粘液がせり上がってきており、声は湿った異音に変わった。
「……あ、が……かよ……な……にを……」
隣で微笑む佳代の肌は、もはや毛の生えた茶褐色の樹皮のようだった。彼女が正志の腕を握ると、その指先が溶けるように正志の肉にめり込み、骨と骨がカチリと噛み合う音がした。
「大丈夫よ、あなた。もう、仕事に行かなくていいの。誰とも会わなくていい。私があなたを食べて、あなたが私を食べれば、私たちは二度と『個』なんていう寂しい単位に戻らなくて済むんだから」
正志の脳内には、佳代のドロドロとした感情が濁流となって流れ込んできた。彼女が幼い頃に感じた孤独、正志が浮気をしているのではないかと疑った夜の憎悪、それらすべてが「自分の記憶」として上書きされていく。正志の自我は、強烈な粘気の中で溶かされ、佳代という巨大な意志の一部……文字通りの「子芋」へと退化していった。
一方、子供部屋で震えていた息子の健太は、さらに無残だった。
若く瑞々しい彼の生命力は、佳代にとって最高の「養分」だった。
健太の背中からは、無数の細い「ひげ根」が噴き出し、それが壁を伝ってリビングの佳代へと繋がっていた。彼は毎日、自分の将来や、抱いていた夢、学校で覚えた知識、そのすべてを根を通じて母親に吸い取られていった。
佳代の四肢は短く退化し、胴体と一体化して丸い塊となる。そして、彼女から伸びた根の先には、恐怖に顔を歪めた夫と子供が、小さな「子芋」として癒着していた。
彼らの叫び声は、佳代の肉体を伝わる微かな振動となり、彼女はその「家族の鼓動」を、至上の愛として吸収した。
五日目。
佳代の家そのものが、一つの巨大な「里芋の巣」となった。
壁、天井、床。すべてが茶褐色の皮と、白く粘る肉質で覆い尽くされる。
佳代の意識は、連鎖する芋のネットワーク全体に広がり、家族の思考、記憶、痛みをすべて自分のものとして共有した。
「……あは……みんな……いっしょ……。もう……どこにも……いけないね……」
その言葉は、粘液が弾けるぷつぷつという音となって、静まり返った家の中に響き渡った。
七日目。
佳代とその家族の肉体は、完全に「里芋の群生」へと置換された。
かつての家があった場所は、今や小高い「泥の山」と化している。
そこを掘り起こせば、中心にある巨大な母の塊に、無数の小さな、しかし絶望に染まった貌を持つ実たちが、死んでも離れないという決意のように、幾重にも、幾重にも重なり合って繋がっているだろう。
数ヶ月後。
行方不明になった一家を捜索に来た警察が、その泥の山に足を踏み入れた。
一人が、地面から突き出した奇妙な「毛の生えた塊」を蹴り飛ばそうとしたその瞬間。
ぬちゃ……
足が地面に吸い付いた。
引き抜こうとすればするほど、泥の中から伸びてくる見えない糸が、彼の足を、腰を、そして魂を、地の底へと引きずり込んでいく。
「……ようこそ……あたらしい……かぞく……」
泥の底から聞こえてきたのは、数人の声が溶け合った、あまりに粘りつく、慈愛に満ちた絶望の囁きだった。
店主は、今日もエプロンの上に付着した、糸を引く不気味な汁を、静かに指で弾く。
「独占しようとする愛は、最後には愛する者すべてを窒息させる泥沼となります。さて、次は……どれほど鮮やかな緑を誇り、『健康』と『正義』を振りかざしても、その根源には鉄のような冷酷さと、他者を貧血にさせるほどの強欲を隠している。一度茹で上げれば、すべての色を黒く染め変えてしまう、独善的なエゴイスト。全身を鉄の鎧で固めた『ほうれん草』などは、いかがでしょうか」




