鉄の処刑、沸騰する緑の断罪
その街の境界、冷たい風が常に吹き抜け、建物の角がナイフのように尖って見える場所に、その「オーガニック・デリ」は、深く濃い緑色の影を落として佇んでいた。
今回、一寸の乱れもないスーツに身を包み、まるで世界を検品するかのような厳しい眼差しで入ってきたのは、教育評論家として知られる女性、律子だった。
律子は「正しさ」の奴隷だった。
彼女の辞書に「曖昧」や「妥協」という言葉はない。不摂生な生活、だらしない人間関係、そして自分を律することのできない弱者。彼女はそれらを徹底的に批判し、社会から排除することに全精力を注いでいた。しかし、その正義感が強まれば強まるほど、彼女の周囲からは温もりが消え、彼女自身も、自分の内側に溜まっていく「黒い澱」に苛まれるようになっていた。
「……この世界はあまりに不潔です。誰もが甘えに浸り、自分を律しようとしない。私は、もっと強く、もっと鋭く、自分と世界を研ぎ澄ませたいんです。どんな汚れも焼き尽くし、真っ直ぐに、鉄のように揺るぎない存在になりたい」
律子の言葉は、氷の破片を吐き出すかのように冷たく、その指先は、絶えず自分を律するように硬く、尖っていた。
店主の男は、律子の鉄格子のような硬い瞳をじっと見つめ、カウンターの上に「それ」を置いた。
「鍛錬、ですね。大地の鉄分を貪欲に吸い上げ、鋭利な刃となって世界を切り裂く……でしたら、これをお試しください。正義という名の毒を、その身に宿した緑の剣です」
店主が差し出したのは、触れるだけで指が切れそうなほど、縁が鋭利に尖ったほうれん草だった。
それは野菜というよりは、薄く叩き延ばされた「緑の鋼鉄」、あるいは戦場に落ちている「矢じり」の集合体のように見えた。根元は不気味なほど鮮やかな赤色を呈し、そこからは、血液と錆びた鉄が混ざり合ったような、鋭く、攻撃的な匂いが漂っていた。
「『アイアン・ジャッジメント(鉄の審判)』。これを、沸騰した塩水で一気に茹で上げてください。ただし、茹ですぎてはいけません。アクが最も色濃く、黒く溢れ出した瞬間に、その熱をそのまま飲み込むのです。あなたの軟弱な肉体は、鉄の規律へと再構成されるでしょう」
律子は、自分を完成させるための最終試練のように、そのほうれん草を持ち帰った。
彼女はキッチンで、一切の不純物を取り除いた純水を沸騰させた。
グラグラ、シュンシュン。
ほうれん草を投入した瞬間、澄んでいた水は、瞬く間に「真っ黒な液」へと変貌した。それは、ほうれん草が内側に溜め込んでいた、他者を拒絶するための猛烈な「アク」だった。
彼女は、熱湯の中でしなやかに、しかし硬質に波打つ緑の刃を、箸で直接掴み、口に押し込んだ。
「……っ!」
衝撃。
それは喉を焼く熱さではなく、食道から内臓へ向けて、数千の極小の針が突き刺さるような鋭利な感覚だった。
しかし、その激痛が律子には心地よかった。自分の軟弱な部分が、鉄の意思によって削ぎ落とされ、硬く、真っ直ぐに作り替えられていくのが分かったからだ。
「これでいい……私は、もう、負けない……」
変化は、まず彼女の「血液」に現れた。
翌朝、律子がペンを持とうとすると、指先からカチリ、と金属音がした。
彼女の血液は、驚異的な濃度の鉄分を含み、もはや液体というよりは「流動する鋼」へと変わっていた。肌は深い緑色の光沢を帯び、彼女が吐き出す息は、触れるものを凍らせ、腐食させるほどの強烈な酸を含んでいた。
彼女の心臓は、肉の鼓動ではなく、機械的な「ピストン」のような音を立てて時を刻み始めた。
三日目。
律子の家から、あらゆる「柔らかいもの」が消えた。
彼女が座ればソファは切り裂かれ、彼女が触れれば布は一瞬でボロボロになった。
彼女の身体は、今や全身が鋭い「刃」の集合体。
彼女の視界に入る「だらしないもの」すべてを、彼女の肉体から放たれる目に見えない緑の磁場が、物理的に切り刻んでいった。
五日目。
律子の精神は、完全に「独善」へと収束した。
彼女の意識は、脳という有機組織を捨て、全身の緑の組織に張り巡らされた「鉄の回路」へと移行した。
彼女は、自室の書斎で、巨大な「ほうれん草の剣」へと変貌した。
「……正しくないものは……死を……清潔でないものは……裁きを……」
その言葉は、金属同士が擦れ合うような嫌な音となって、空気を切り裂いた。
七日目。
律子の肉体は、完全に「ほうれん草」へと置換された。
書斎の椅子に突き立てられた、高さ一メートル半に及ぶ、漆黒に近い緑色の塊。
それは無数の、薄く鋭利な葉が重なり合い、一つの巨大な矛のようになっている。
根元の部分は、かつての律子の「正義」への情熱を象徴するように、毒々しい赤色に膨れ上がり、そこからは絶えず、ドロドロとした黒いアクが溢れ出していた。
数週間後。
彼女の執筆が途絶えたことを心配した編集者が、部屋を訪れた。
彼が見たのは、部屋中の家具が細かく刻まれ、金属の削り屑のような緑の粉末が積もった、異様な処刑場のような光景だった。
中央に立つ、禍々しい緑の刃。
編集者がその圧倒的な威圧感に気圧されながらも、ふと床に落ちていた原稿用紙に目をやった。
そこには、ただ一行。
『完璧な正義は、自分をも許さない。』
彼がその紙を拾おうと手を伸ばした瞬間、ほうれん草の刃から、目に見えない鉄の風が吹き抜けた。
編集者の指先からは、一瞬で血が噴き出した。だが、その血さえも、空中で黒く変色し、ほうれん草の根元へと吸い込まれていった。
律子だったものは、今もその部屋で、訪れる者の「不完全さ」を裁き続けている。
自らが最も嫌った「他者を黒く染め、腐らせるアク」そのものに成り果てたことに、気づかぬまま。
店主は、今日もエプロンの上に付着した、鉄の匂いがする緑の粉を、静かに指で弾く。
「正義を研ぎ澄ませすぎた魂は、最後には自分を守るための殻さえも切り裂き、ただの凶器へと変わります。さて、次は……優雅に、美しく、高貴な香りを振りまきながら、その実、相手の脳を麻痺させ、中毒にさせることに悦びを感じる魂。一度味わえば、その『苦みの迷宮』から二度と逃れられなくなる。春の狂気を孕んだ『春菊』などは、いかがでしょうか」




