紫紺の吸着、形なき情熱の溶解
その街の境界、夕闇が古い油のように滴り、道行く人の影が紫色に伸びる場所に、その「オーガニック・デリ」は磨き上げられた漆器のような艶を放って佇んでいた。
今回、鏡に映る自分を何度も確認し、落ち着かない様子で入ってきたのは、舞台衣装のデザイナーとして働く女性、彩乃だった。
彩乃は「何者にもなれない自分」を嘆いていた。
彼女の仕事は、俳優を輝かせるための衣装を作ること。他者の個性を引き立てるために自分を殺し、相手の望む色に染まることに長けていたが、ふと一人になった時、自分の内側には何の色も、何の形も残っていないことに気づき、戦慄した。
「……私、スポンジみたいなんです。誰かの熱や、誰かの色を吸い込んでいる時だけ、自分が存在している気がする。でも、吸い込みすぎて、もう本当の自分の形が分からなくなってしまった。もっと、艶やかで、誰をも惹きつける強烈な『色』が欲しいんです」
彩乃の指先には、多種多様な染料が染み付いていたが、その肌そのものは、驚くほど蒼白で透き通っていた。
店主の男は、彩乃の空虚な、しかし吸収を渇望する瞳をじっと見つめ、カウンターの上に「それ」を置いた。
「吸着、ですね。自らは空虚な組織でありながら、熱と油を得ることで、他者の全てを奪い、自らの味とする……でしたら、これをお試しください。闇を煮詰めたような、高貴な色彩の檻です」
店主が差し出したのは、触れるのを躊躇うほどに滑らかで、深い紫色のナスだった。
それは野菜というよりは、夜の闇をそのまま固めた宝石、あるいは心臓の形をした紫の鏡のようにも見えた。ヘタの部分には鋭い棘が隠され、そこからは微かに、焼けつくような油の匂いと、花の香りが混ざり合って漂っていた。
「『ヴァイオレット・アブソープション(紫紺の吸収)』。これを、たっぷりの油で、形が崩れるまでじっくりと加熱してください。そして、熱を持ったままのそれを、あなたの空虚な心に直接流し込むのです。あなたは、世界で最も美しい『色』を手に入れるでしょう」
彩乃は、自分を染め上げるための唯一の染料を手に入れたように、そのナスを持ち帰った。
彼女はキッチンで、たっぷりの油を熱した。
パチパチ、ジュワー。
ナスを投入した瞬間、その白い果肉が驚異的な速度で油を吸い込み、半透明へと変わっていく。
加熱されるにつれ、部屋中に、濃厚で、どこか背徳的な香りが充満した。それは、自らを溶かして他者を受け入れる、自己破壊的な情熱の匂いだった。
彼女は形を失い、とろとろになったその紫の塊を、熱さに悶えながらも一気に口にした。
……熱い。
それは喉を焼き、胃を溶かすような感覚だった。
しかし、飲み込んだ瞬間、彩乃の視界は鮮やかな紫色に染まった。彼女の内側にあった「空洞」が、濃厚な油と、ナスのエキスで、みっちりと埋め尽くされていく。
「これよ……私が欲しかったのは、この『重み』と『色』だわ……」
変化は、まず彼女の「質感」に現れた。
翌朝、彩乃が目覚めると、彼女の肌は陶器のような光沢を放ち、深い紫色に染まっていた。
彼女の肉体は、驚くほど柔らかく、柔軟になった。指で押すと、そのまま指が沈み込んでしまうほどに組織がスポンジ化し、あらゆる衝撃や感情を「吸収」してしまうのだ。
彼女はもはや、怒ることも、悲しむこともなくなった。すべての外部からの刺激は、彼女の柔らかな肉体に吸い込まれ、ただの「養分」へと変換されていった。
三日目。
彩乃の身体から、甘く、重厚な液が滴り始めた。
彼女が歩いた後には、紫色の油染みが残り、そこからは彼女が今まで吸い込んできた人々の情熱や、悲鳴、欲望が、微かな香気となって漂っていた。
彼女は、自分が「巨大な吸収体」へと変貌していくことに、陶酔を感じていた。
五日目。
彩乃の骨格は完全に消滅した。
彼女の肉体は、自重を支えることができず、床の上に「紫の液体」として広がり始めた。
彼女の意識は、もはや一つの脳にはなく、広がる紫の層全体に分散された。
彼女は、自室の床一面を覆う「巨大なナスの果肉」となった。
「……ああ……だれか……わたしを……たべて……あなたの……すべてを……すいこんで……あげるから……」
その囁きは、床の隙間から漏れ出す気泡のような音となって響いた。
七日目。
彩乃の肉体は、完全に「ナス」へと置換された。
部屋の床に、巨大な紫のクッションのように横たわる、艶やかな塊。
表面には、かつての彩乃の顔を思わせる表情が、とろけるような笑みを浮かべたまま、組織の奥深くに沈んでいた。
彼女は手に入れたのだ。誰の色をも拒まず、すべてを吸収し、自らを美しい闇へと変える力を。
だが、その中身には、もはや彼女自身の「核」はどこにも残っていない。
あったのは、他人の色を吸い込みすぎて、濁り、溶け落ちた、形なき情熱の残骸だけだった。
数週間後。
新作の衣装を受け取りに来た俳優が、部屋の異様な光景に目を見開いた。
そこには、床一面に広がる、紫色の、温かくて柔らかな「何か」があった。
俳優が不用意にその表面に足を乗せた瞬間。
グニュ……
柔らかな紫の肉が、俳優の足を、そして脚を、優しく、しかし抗えない力で包み込み、吸い込み始めた。
俳優は恐怖で叫んだが、その叫び声さえも、紫の層は心地よい「振動」として吸収し、さらに深く、色濃く輝きを増していった。
彩乃だったものは、これからも吸い込み続ける。
自分を求めてくる者、自分を汚そうとする者、そのすべてを内側に取り込み、一つの巨大な、形なき「色」として、闇の中に増殖し続けるのだ。
店主は、今日もエプロンの上に付着した、紫色の艶やかな汁を、静かに指で弾く。
「自分を持たない魂は、最後には世界すべてを吸い込み、自分ごと消えてしまうのです。さて、次は……どれほど白く、清廉を装っても、その内側には他人を蹴落とすための『固い意志』を隠している。表面的には柔らかく、しかし本質は冷酷な魂に。雪のような白さの裏で、大地を割り、他を排除する力を秘めた『かぶ』などは、いかがでしょうか」




