菌糸の抱擁、群生する無名の影
その街の境界、古いアパートの床下が常に湿り、日光が一度も届いたことのないコンクリートの割れ目に、その「オーガニック・デリ」は、霧雨のような湿度を纏って静かに口を開いていた。
今回、湿った足音を立て、自分の存在を消すように肩をすぼめて入ってきたのは、ネット上の匿名掲示板で他人を誹謗し、集団の「流れ」に身を任せることでしか自己を確認できない男、圭介だった。
圭介は、個としての責任を負うことを極端に恐れていた。
一人では何も言えず、何もできないが、匿名の群れの中に紛れれば、誰よりも残酷に、誰よりも肥大した意志を振るうことができる。彼は、自分という境界が溶け、他者と菌糸のように絡み合い、巨大な「うねり」の一部になることを切望していた。
「……僕じゃなくていいんだ。名前なんていらない。ただ、みんなと同じ場所にいて、みんなと同じ熱を感じて、自分を主張しなくて済む場所へ行きたい。でも、一人になるのは怖い……。誰かと繋がっていたい、でも、顔は見せたくないんだ」
圭介の肌は、常に不健康な湿り気を帯び、その瞳は、個を特定されることを避けるように絶えず泳いでいた。
店主の男は、圭介の輪郭のぼやけた影をじっと見つめ、カウンターの上に「それ」を置いた。
「分散、ですね。一つの意志を持たず、闇の中で無数の貌を共有し、死を糧に増殖する……でしたら、これをお試しください。個を捨てた者たちにのみ許される、静かなる共生です」
店主が差し出したのは、不気味なほどに青白い「しめじ」の株だった。
それは野菜というよりは、地中から突き出した「無数の指」、あるいは忘れ去られた死者の「耳」の集合体のように見えた。傘の表面は、大理石のような不気味な模様を帯び、そこからは、森の奥深くで何かが腐敗していくような、甘ったるくも鼻を突く芳香が漂っていた。
「『ネットワーク・マッシュルーム(群生の断罪)』。これを、石づきを切り離さず、そのまま暗い部屋で土の上に置き、霧吹きで水をかけ続けてください。株があなたの体温に追いついたとき、あなたは『私』という檻から解放されるでしょう」
圭介は、自分を消し去るための処方箋を受け取ったかのように、そのしめじを持ち帰った。
彼はアパートのカーテンをすべて閉め、万年床の横に直接土を盛り、その中心にしめじを植えた。
シュッ、シュッ。
霧吹きで水をかけるたびに、しめじの傘は濡れたような光沢を放ち、部屋の中に微小な「胞子」が舞い上がる。
彼は、その胞子を深く、深く吸い込んだ。
肺の奥に、無数の小さな「種」が根付く感覚。
それは苦しみではなく、むしろ自意識という毒が薄まっていくような、心地よい解脱感だった。彼は次第に、言葉を打つことをやめ、ただ土の上に這いつくばり、しめじの成長を見守るようになった。
「ああ……僕が……消えていく……みんなが……僕の中に……入ってくる……」
変化は、まず彼の「肌」に現れた。
翌朝、圭介の背中から、無数の「白い突起」が芽吹いた。
それは一本一本が細いしめじであり、彼の皮膚を養分として、急速にその傘を広げていく。彼が動こうとすると、背負った何百もの「貌」たちが、ミシリ、ミシリと音を立てて軋み、彼の意志を奪っていく。
三日目。
圭介の四肢は、もはや自分の意志で動かすことができなくなった。
彼の肉体そのものが、巨大な「石づき(土台)」へと変質していったのだ。
彼の指先からは、細く強靭な菌糸が噴き出し、畳を貫き、アパートの基礎を通り越し、隣の部屋、さらにその隣の部屋へと、壁を伝って伸びていった。
五日目。
圭介の意識は、もはや脳という中央集権的な場所には存在しなかった。
全身を覆い尽くした、数千の「しめじの傘」の一つ一つに、彼の意識は薄く、均一に引き伸ばされた。
彼は、自室の床と一体化した「巨大な菌床」となった。
「……だれ……が……たたいて……いるの……? ……みんな……で……やれば……こわくない……」
その囁きは、彼の部屋だけでなく、菌糸が侵入したアパート全体の壁から、同時に響き始めた。
七日目。
圭介の肉体は、完全に「しめじ」へと置換された。
アパートの一室を埋め尽くす、白茶けた不気味な菌の海。
そこには、もはや圭介の顔はない。
あるのは、一つの株から生え出た、互いに寄り添い、重なり合い、誰が誰だか判別できない、無数の「無名の傘」だけ。
彼らは一つの意志で、一斉に胞子を降らせる。
自分たちを否定する光を遮り、湿った沈黙だけで世界を塗り潰そうとする。
数週間後。
アパート全体に蔓延した「原因不明のカビと悪臭」を調査するために、業者が部屋に入った。
彼らが見たのは、家具も服も、すべてが白い繊維に覆い尽くされ、天井から無数のしめじが垂れ下がる、この世のものとは思えない光景だった。
中央にある、盛り上がった土の山。
業者が不用意にその表面を剥がすと、中から、かつての圭介のものと思われる「骨」が見えた。
だが、その骨さえも、すでに芯まで菌糸に侵され、脆く、白く、キノコの肉質へと作り替えられていた。
業者が恐怖で腰を抜かしたその瞬間。
部屋中のしめじが、一斉に震えた。
ボソッ、ボソボソッ……
「……おまえも……こっちに……おいでよ……」
数千の傘から放たれた無数の声が、不快な共鳴となって業者の脳を直撃した。
彼は、自分が望んだ通りの「完璧な群れ」を手に入れた。
だが、その群れの中に、彼を愛し、彼の名前を呼んでくれる者は、一人も存在しない。
ただ、分解し、増殖し、最後に何も残らなくなるまで、互いを啜り合うだけの、底知れぬ沈黙があるだけだ。
店主は、今日もエプロンの上に付着した、湿った胞子の粉を、静かに指で払う。
「群れに逃げ込んだ魂は、最後には自分の骨まで、他者に差し出すことになります。さて、次は……太陽の光を浴び、希望に満ちているように見えて、その実は誰にも言えない『汚れ』を内側に溜め込んでいる。表と裏のギャップに、肉体が耐えきれなくなった魂に。土の中に埋まった、黄金の果実。その中に潜む、終わりなき空洞と、自身を蝕む毒。泥にまみれた『じゃがいも』の末路などは、いかがでしょうか」




