千の貌の集合体、増殖する森の断罪
その街の境界、何枚もの鏡が乱反射し、自分の背後がどこにあるのか分からなくなる路地裏に、その「オーガニック・デリ」は深い緑色の陰影を落としていた。
今回、鏡を避けるようにして、おどおどと入ってきたのは、大手企業で秘書を務める女性、香織だった。
香織は、他人の「顔色」を読み取る天才だった。
上司の前では有能な部下、友人の前では聞き上手な親友、恋人の前では従順な女。相手が望む「自分」を瞬時に作り出し、パズルのピースを埋めるように演じ分ける。しかし、ふとした瞬間に鏡を見ると、そこには誰のものでもない、空っぽの眼窩がこちらを見つめているような気がしてならなかった。
「……本当の私が、どこにもいないんです。相手に合わせて顔を作りすぎて、どれが本物の自分の肌なのか、どの言葉が自分の声なのか、分からなくなってしまった。一つになりたいんです。バラバラになった私を、一つの太い『芯』で繋ぎ止めたいんです」
香織の表情は、一秒ごとに微細に変化していた。泣いているようでもあり、笑っているようでもある、焦点の定まらない不安定な仮面。
店主の男は、香織の震える何十もの感情をじっと見つめ、カウンターの上に「それ」を置いた。
「多様性、ですね。無数の個を抱えながら、一つの生命体として君臨する……でしたら、これをお試しください。数千の蕾が、あなたの失われた貌を補完してくれるでしょう」
店主が差し出したのは、不気味なほどに密度の高い、巨大なブロッコリーだった。
それは野菜というよりは、押し固められた「森」のミニチュア、あるいは細かな肉腫がひしめき合う、緑色の脳髄のようにも見えた。表面の粒(蕾)の一つ一つが、まるで意思を持っているかのように、微かに蠢いている。
「『サウザンド・アイズ(千の眼差し)』。これを、一切小分けにせず、丸ごと豪快に茹で上げ、その森を丸ごと飲み込んでください。あなたの内側にある『バラバラの自分』が、一斉に同じ方向を向くことになるでしょう」
香織は、焦燥感に突き動かされるようにそのブロッコリーを持ち帰った。
彼女はキッチンで、最も大きな鍋に湯を沸かした。
グラグラと沸騰する湯の中に、その緑の塊を沈める。
茹で上がるにつれ、部屋中に、青臭くもどこか金属的な、脳を刺すような匂いが立ち込めた。それは、何千人もの人間が一斉に吐き出した息を凝縮したような、圧倒的な「他人の気配」の匂いだった。
彼女は茹で上がったブロッコリーを、芯を持ってかぶりついた。
……重い。
口の中に入れた瞬間、無数の細かな蕾が弾け、舌の上でバラバラに散らばった。
何千、何万という「点」が口内を埋め尽くす。それは食べ物というよりは、微小な生き物の群れを飲み込んでいるような不快感だった。しかし、飲み干した瞬間、香織の脳内でバラバラに叫んでいた「自分たち」が、一瞬で沈黙した。
「……静かだ。私が、一つにまとまっていく……」
変化は、まず彼女の「視界」に現れた。
翌朝、香織が職場に向かうと、彼女の周囲に異変が起きた。
彼女が誰かと目を合わせるたび、彼女の肌の一部が、わずかに盛り上がる。
「おはよう」と挨拶すれば、頬に。「はい」と返事をすれば、首筋に。
それは、小さな、緑色の「蕾」だった。
三日目。
香織の全身は、数えきれないほどの緑の突起で覆われた。
それは、彼女が今まで演じてきた「偽りの自分」の数だった。
優しい香織、冷徹な香織、泣き虫な香織……それぞれの蕾が、異なる表情、異なる声を宿し、彼女の皮膚の上で一斉にざわめき始めた。
彼女はもはや、一つの声で話すことができなくなった。
「私は」と言おうとすれば、数千の蕾が重なり合い、不協和音となって部屋を揺らした。
五日目。
香織の肉体は、内側から一本の巨大な「茎」へと集束していった。
足は融合し、腕は胴体にへばりつき、彼女の身体は、上部に向かって異常に肥大した。
彼女の意識は、もはや脳にはなかった。
皮膚を覆い尽くした、数千万の「蕾」の一つ一つに、彼女の意識は細分化され、分散された。
彼女は、自室の真ん中で「一本のブロッコリー」と化した。
「……だれ……が……ほんと……の……わたし……?」
その問いは、数万の口(蕾)から一斉に放たれ、霧のように部屋に漂った。
彼女は一つになりたかった。しかし、手に入れたのは、自分を構成していた「偽り」たちが実体化し、自分を押し潰して増殖し続けるという、終わりのない分裂だった。
七日目。
香織の肉体は、完全に「ブロッコリー」へと置換された。
部屋の中央に聳え立つ、天井に届かんばかりの巨大な緑の塊。
その表面を埋め尽くす無数の粒は、よく見れば、すべてが異なる「香織」の顔をしていた。
ある顔は笑い、ある顔は怒り、ある顔は絶望に染まり、それらが寄り集まって、一つの巨大な「貌」を形成している。
数週間後。
無断欠勤を続ける香織を不審に思った同僚が、合鍵を使って部屋に入った。
彼が見たのは、一面が緑色の細かな「粉」で覆われ、森の奥深くのような湿気と静寂に満ちた部屋だった。
中央に鎮座する、人間ほどの太さがある巨大なブロッコリー。
同僚がその美しさに息を呑み、近づこうとしたとき。
バサ……ササッ……
ブロッコリーの表面から、数千の蕾が一斉に剥がれ落ち、部屋中に舞い上がった。
それは、意志を持った緑の雪のようだった。同僚の体中に吸い付き、彼の耳元で、数千の香織の声が囁いた。
「どの私を、愛してくれるの?」
同僚は恐怖で絶叫し、部屋を飛び出した。
後に残された巨大な茎からは、新しい蕾が次々と芽吹き、数時間後には、再び数千の「香織の貌」が、誰もいない部屋で互いを監視し合うように、緑の森を形成していた。
店主は、今日もエプロンの上に付着した、緑色の細かな粒を、静かに指で弾く。
「他人を演じすぎた魂は、最後に自分という核を失い、無数の影に飲み込まれます。さて、次は……瑞々しく、誰もを虜にする美貌を持ちながら、その内側は冷たく、他人の心を切り刻むことしかできない魂に。全身に鋭い『棘』を隠し、水を吸い上げるだけで、中身を空っぽにしたまま太り続ける『きゅうり』などは、いかがでしょうか」




