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黄金の窒息、土着する甘き抱擁

 その街の境界、焼却炉から昇る灰色の煙が、常に冬の足音を予感させる路地裏に、その「オーガニック・デリ」は赤紫色の重厚な影を落としていた。

 今回、厚手のコートに身を包み、所在なげに指をいじりながら入ってきたのは、家事手伝いの女性、美智子みちこだった。


 美智子は、自分の「意志」というものが分からなくなっていた。

 親の言う通りに進学し、夫の好みに合わせて服を選び、子供のために自分の時間を差し出す。周囲からは「献身的で優しい人」と評されるが、その実、彼女の内側は、誰かに食べられるのを待つだけの「果実」のように空虚だった。

「……私、もう空っぽなんです。誰かを温めるために、誰かに『美味しい』と思われるためだけに、自分を差し出し続けることに疲れました。でも、そうしないと自分がどこにいるのか分からなくて……もっと、どっしりと、誰にも動かされない『重み』と、自分自身を溶かしてしまうような『熱』が欲しいんです」

 美智子の頬は、秋の夕暮れのようにどこか寂しげな赤みを帯び、その手は、自分の輪郭を確かめるように何度も自分の肩を抱いていた。


 店主の男は、美智子の焦点の定まらない、しかし温もりを渇望する瞳をじっと見つめ、カウンターの上に「それ」を置いた。


「蓄積、ですね。大地の熱を静かに取り込み、自らを甘美な塊へと変えていく……でしたら、これをお試しください。冷たい土の中で、ひたすらに自己を膨らませた、黄金の心臓です」


 店主が差し出したのは、土がついたままの、丸々と太った赤紫色のサツマイモだった。

 それは野菜というよりは、地中から掘り出された「脈打つ臓器」、あるいは太古の地熱を封じ込めた宝玉のようにも見えた。表面には細い筋が走り、その奥底からは、微かに焚き火のような、香ばしくも重苦しい匂いが漂っていた。


「『ソーラー・ハグ(太陽の抱擁)』。これを、誰にも分け与えず、あなた一人だけで、熱い灰の中でじっくりと焼き上げてください。皮が弾け、黄金の身が露わになったとき、あなたは自分自身の熱に、文字通り『溶ける』ことになるでしょう」


 美智子は、初めて自分だけの「秘密」を手に入れた高揚感に包まれ、そのサツマイモを持ち帰った。

 彼女は家族が寝静まった深夜、庭に小さな穴を掘り、落ち葉を集めて火を熾した。


 パチ、パチ。


 炎の中でサツマイモが熱を帯びるにつれ、あたりには、理性を溶かすほどに甘く、ねっとりとした香気が立ち込めた。それは、かつて母の背中で感じたような、逃れられない依存の匂いだった。


 焼き上がったサツマイモ。彼女は熱さに指を震わせながら、その赤紫色の皮を剥いだ。

 中から現れたのは、光を吸い込んだかのような、眩いばかりの黄金の果肉。

 彼女はそれを、一気に口に押し込んだ。


 ……重厚。

 それは食べ物というよりは、熱を帯びた「泥」が体内へ流れ込むような衝撃だった。

 飲み込むたびに、喉が、胃が、腸が、その圧倒的な密度で埋め尽くされていく。しかし、その窒息しそうなほどの満腹感こそが、美智子がずっと求めていた「自分の存在感」そのものだった。


「ああ……私は、これで満たされている。私が、重くなっていく……」


 変化は、まず彼女の「体温」に現れた。


 翌朝、美智子が家族の朝食を作ろうとしたとき、彼女の指先が触れたプラスチックのヘラが、飴のようにぐにゃりと曲がった。

 彼女の体温は異常に上昇し、皮膚の下では何かが煮え滾るような音がしていた。

 しかし、彼女は不快ではなかった。むしろ、内側から溢れ出す「デンプン質」の重みが、彼女の空虚だった心を、逃れられない甘美な監獄へと作り替えていくのが心地よかった。


 三日目。

 美智子は、椅子から立ち上がることができなくなった。

 彼女の肉体は、重力に逆らうことをやめ、下へ、下へと沈み込み始めた。

 足首は太く、関節は消え、彼女の肌はあのサツマイモと同じ、硬く乾いた赤紫色の「皮」へと置換されていった。

 

 彼女の意識は、もはや言葉を紡ぐことを拒否していた。

 「母として」「妻として」の言葉ではなく、ただ「蓄積された糖度」が脳を浸食し、あらゆる思考を黄金の沈黙へと変えていく。


 五日目。

 美智子の住む家の床が、その重みに耐えきれず、底が抜けた。

 彼女は地下の暗い土壌へと沈み込み、そこで本能のままに根を広げた。

 

 彼女の身体は、もはや一つの巨大な「塊茎かいけい」だった。

 地中の熱を吸い上げ、自身の細胞を糖化させ、極限まで密度を高めていく。

 

「……あつい……あまい……もう……なにも……いらない……」

 

 声はもはや、地中の水分が蒸発する微かな音にしか聞こえなかった。


 家の床下に横たわる、人間ほどの大きさがある、赤紫色の巨大な「芋」。

 そこには、かつての美智子の顔を思わせる、恍惚とした、しかしどこか窒息に苦しむような輪郭が、土にまみれて永遠に固定されていた。

 

 夫の隆志が帰宅したとき、家の中は異様な熱気に包まれていた。

「……おい、美智子。何の料理だ、この匂いは」

 鼻を突くのは、喉を塞ぐような、あまりに濃密な「甘さ」だ。それは愛する妻が作る煮物の匂いではなく、まるで森全体の腐敗と成熟を一度に煮詰めたような、官能的で不気味な香気だった。


 返事はない。ただ、床下の奥から「ミシリ……ミシリ……」と、重い何かが膨張し、土を押し広げる音が聞こえるだけだ。


「ママ? お腹すいたよ」

 小学生の息子が、キッチンに足を踏み入れた。その瞬間、彼の足元の床板が、美智子の膨れ上がった質量に耐えきれず、音を立てて跳ね上がった。


 隙間から覗いたのは、暗闇の中で赤紫色に光る、巨大な「肉」のような塊だった。


 隆志は狂ったように床板を剥がした。そこにいたのは、もはや妻ではなかった。

 人間ほどの大きさの、ゴツゴツとした巨大なサツマイモ。その表面には、美智子のエプロンの模様が、皮膚の紋様として焼き付いている。

 

「美智子……なのか?」

 

 隆志が震える手でその「塊」に触れた。

 その瞬間、サツマイモの皮が弾け、中から黄金色の熱い蜜が噴き出した。

 

「あ、あつい……! でも、なんて……甘いんだ……」

 

 隆志は、火傷するような熱さも忘れ、その蜜を指で掬い、口に運んだ。

 それは、美智子が一生をかけて溜め込んできた、自己犠牲の結晶だった。夫を支え、子供を育て、自分を殺して煮詰めた「甘み」。

 

 一口食べた瞬間、隆志の目からは涙が溢れた。しかしそれは悲しみではなく、あまりの「都合の良さ」への悦びだった。

 

「これだ。これこそが、僕の欲しかった『完璧な妻』だ。文句も言わず、ただ僕を温め、甘やかし、栄養を与えてくれる塊……」

 

 息子もまた、父の隣でその黄金の泥を貪り始めた。

「ママ、おいしいね。ずっとこのままでいてね」

 

 美智子の意識は、その時、深い土の中で微かに震えた。

 自分を食べて、悦ぶ家族。彼らの胃袋を満たすことで、ようやく自分の価値が完成したという、絶望的な充足感。

 彼女の「心臓」だった場所が、家族に喰らわれるたびに激しく脈打ち、さらに甘い蜜を溢れさせる。


 それから一ヶ月。

 近所の人々は、その家から漏れ出す「甘すぎる匂い」に眉をひそめた。

 家主の隆志と息子は、もはや外出することもなくなった。

 彼らは、床下に横たわる巨大な「母」に密着し、その熱で暖を取り、溢れ出す蜜だけを啜って生きる、奇妙な寄生生物と化していたのだ。

 

 美智子は、彼らを包み込み、ゆっくりと自分の「根」を彼らの四肢に巻き付けていった。

 

「ああ……嬉しい……みんな、私の一部になればいい……誰も、ここから出さないわ……」

 

 家の床下では、赤紫色の巨大なサツマイモと、それに取り込まれ、徐々に「芽」を吹き始めた父子の形をした塊が、一つの黄金の泥となって溶け合っていた。

 そこにはもう、犠牲も、献身もない。

 ただ、互いを食らい尽くし、永遠に自立することのない、腐った甘い地獄があるだけだった。


 店主は、エプロンの皺を静かに伸ばし、霧吹きで野菜たちに水をかける。

「消費される悦びに溺れた魂は、最後には自分を食らう者さえも、道連れにして沈んでいきます。さて、次は……無数の小さな『蕾』の集合体。一つにまとまっているようでいて、その実、一千万もの異なる顔を持つ……他人の顔色を窺いすぎて、自分の本当の顔がどれか分からなくなった、多重人格的な恐怖を抱える方に。増殖する『ブロッコリー』などは、いかがでしょうか」

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