無垢なる白、群生の埋葬
その街の境界、年中日が当たらず、湿ったカビの匂いが壁を伝う路地の奥に、その「オーガニック・デリ」は白く霞んだ霧を纏って佇んでいた。
今回、音もなくドアをすり抜けるようにして入ってきたのは、かつて都会の喧騒に心を焼き切られた元プログラマーの青年、湊だった。
湊は、世界が「眩しすぎた」。
人々の表情、街の極彩色の広告、絶え間なく流れ込む情報。それらすべてが、彼の鋭敏すぎる神経を針のように突き刺していた。彼はいつしか部屋のカーテンを閉め切り、自分自身の輪郭さえも消してしまいたいと願うようになった。
「……何も見たくないんです。誰の記憶にも残らず、ただ真っ白な闇の中で、水のように透き通って生きていたい。目立たず、個性を捨てて、ただの『一要素』として消えてしまいたいんだ」
湊の肌は半透明で、日光を浴びていないせいか、指先は氷のように冷たかった。彼は、自分を保護するための「無個性の闇」を求めていた。
店主の男は、湊の光を避けるように細められた瞳をじっと見つめ、カウンターの下から「それ」を差し出した。
「沈黙、ですね。光を拒み、狭い場所で肩を寄せ合い、ただ白く伸びていく……でしたら、これをお試しください。個を捨てて全体に溶け込む、究極の同質化です」
店主が差し出したのは、銀色のトレーに乗せられた、一掴みのモヤシだった。
しかし、それは湊が知るスーパーのそれとは違っていた。一本一本がまるで絹糸のように細く、しかし異様なほどに真っ白で、先端には黄金色の小さな豆の殻が、宝石のように残っている。
それは、微かに震えていた。呼吸をしているかのように、絶えず。
「『ムーン・ウィスパー(月の囁き)』。これを、一切の光を遮断した暗室で、冷たい水と共に飲み干してください。あなたは二度と、自分の影を見る必要はなくなります」
湊は、救われる思いでそのモヤシを持ち帰った。
彼は浴室に入り、窓を黒いテープで塞いだ。完璧な暗闇の中、彼は冷たい水の中にその白い糸を放り込み、一気に啜り込んだ。
……無。
味はしなかった。ただ、冷たい水の感触と、細い繊維が喉を滑り落ちていく感触だけがあった。
しかし、飲み込んだ瞬間、湊は深い安堵に包まれた。頭の中に鳴り響いていた世界のノイズが、雪が降り積もるようにして消えていった。
「あ……静かだ。誰も、僕を見つけられない……」
変化は、まず彼の「骨格」から始まった。
翌朝、湊が目覚めると、自分の身体が異常に「細く」なっていることに気づいた。
骨は柔軟性を持ち、ゴムのようにしなる。筋肉は削ぎ落とされ、彼の身体は、少しの隙間さえあればどこへでも滑り込めるほど、薄く、頼りなくなっていた。
三日目。
湊は、自分の肌が「真っ白」を通り越し、半透明になっていることに驚いた。
血管は消え、中には血の代わりに、清廉な「水」が流れているのが見えた。
彼はもはや、立っていることが苦痛になった。重力さえも、彼にとっては暴力的な重荷だった。
五日目。
湊の身体から、無数の「ひげ根」が芽吹いた。
それは浴室のタイルの隙間、排水溝、そして壁の湿り気に向かって、貪欲に伸びていった。
そして、彼の肉体は「分裂」を始めた。
一つの個体であった湊の身体は、節々に沿って細かく分かれ、それぞれが一本の白い「モヤシ」へと変化していったのだ。
彼の意志は、数千、数万の細い繊維へと分散された。
一人の人間としての湊は消え、そこには「湊であったもの」たちが、肩を寄せ合い、真っ白な群生を形成していた。
「……寒い……でも……みんな……一緒……」
意識は、もはや言葉ではなく、数万の細胞が共有する「微かな震え」へと変わっていた。
光を嫌い、湿った闇の中で、ただ隣の者と触れ合うだけの平穏。
彼は、自分が望んだ通りの「何者でもない存在」になった。
七日目。
湊の住んでいた部屋は、完全に「白い森」に飲み込まれた。
床から、壁から、天井から。
数えきれないほどの真っ白な、細い人型の繊維が、びっしりと生え揃っていた。
そこには、もはや湊の顔は存在しなかった。
あるのは、同じ形、同じ白さ、同じ脆さを持った、無数の「個性の死骸」だけ。
窓の隙間から、一筋の光が差し込んだ。
その瞬間、光に触れた繊維は、悲鳴を上げる間もなく黒く溶け、ドロドロとした腐敗臭を放って崩れ落ちた。
彼らが手に入れた安らぎは、光という真実の前では、あまりにも脆い虚飾だった。
数週間後。
孤独死の連絡を受けた警察官が部屋に入ったとき、そこには人の姿はなかった。
ただ、浴室から溢れ出した、異様なほど真っ白で、しかし瞬く間に黒ずんでいく「モヤシ」の山があった。
部屋全体を埋め尽くしたそれは、まるで誰かが最後に吐き出した、巨大な溜息の化石のようだった。
警官がそれを踏みつけると、シャキ、シャキという、耳障りなほどに瑞々しい、そして虚しい音が響いた。
店主は、今日もエプロンの上に付着した、透明な水の滴を静かに拭き取る。
「群れに溶ければ孤独は消えますが、光に触れれば自分さえ残りません。さて、次は……どれほど美しくても、中身が伴わない。自分はただの『飾り』でしかないという、虚栄に疲れた魂に。幾重にもフリルを広げ、苦い気品を湛えた『チコリ』などは、いかがでしょうか」




