初恋
「……え? 恋、なの?」
放課後の多目的室。窓の外からは野球部が上げる土煙の匂いが漂い、埃の舞う夕暮れの光が床に長い影を落としている。和美の声は、自分でも驚くほど上ずっていた。
間もなくやってくる文化祭。和美のクラスの出し物は、あみだくじの結果「ヒップホップダンス」に決まった。新体操部で体が柔らかいという理由だけで、和美は物語のキーマンとなるペアダンスの担当に据えられ、主役の男子と踊ることになったのだ。
相手役は、クラス委員長も務める陸上部の山本巧くん。
日に焼けた肌と、スプリンターらしい引き締まった体。いつも「委員長」としてクラスをまとめる彼とは、これまで挨拶程度の仲だった。
「和美、ここ。もう一歩、グッと踏み込んで。俺が支えるから」
振り付けの確認中、巧の手が和美の腰に触れた。新体操の演技で見せる「しなやかさ」とは違う、男子中学生特有の節立った掌の熱。
その感触が伝わるたび、和美の心臓はドラムを叩くような激しいリズムを刻んでしまう。
「……っ、ごめん! ちょっと休憩」
逃げるように部屋の隅へ戻った和美を、クラスの女子グループが囲む。中心にいるのは、お喋り好きで勘の鋭い結愛だ。
「和美ー、顔真っ赤だよ? 大丈夫?」
「う、うん。なんか、急に動いたからかな。……ねえ、結愛。ちょっと聞いていい?」
和美は膝を抱え、小さな声で打ち明けた。
「あのね、さっきから、巧くんと振りつけの確認をしてると……なんか、すごく心臓がドキドキしちゃうの。恥ずかしいっていうか、こう、胸の奥がキュッとして。私、やっぱりこういうの向いてないのかな」
人前で踊ることに緊張しているだけ。そう自分を納得させようとしていた。……だが、和美の胸の奥には、誰にも言えない、自分だけの「前提」があった。
(私……小学生の時は、男の子だったんだよ?)
中学入学を機に、女子として生きることを選んだ和美。今のクラスメイトは、誰一人として和美の過去を知らない。
自分はかつて「あちら側」の人間だった。だからこそ、男子に対して特別な感情を抱くはずがない。無意識のうちに、そう自分に言い聞かせてバリアを張っていたのだ。
「あのさ、和美。それ、ただの緊張じゃないと思うよ」
結愛が、少しだけ声を落として言った。
「和美、それはね多分『恋』ってやつよ!」
「こ、恋……っ!? そんなわけないよ!」
和美は激しく首を振った。秘密を抱えている負い目からか、過剰に反応してしまう。
「だって、私、その……恋愛とか、そういうのよく分からないし。巧くんをそんな風に思うなんて、ありえないって」
「えー? 分かるとか分からないとか関係ないじゃん」
結愛はあっけらかんと言い放つ。
「和美、山本くんに触れられたとき、嫌そうな顔してなかったよ。むしろ、一瞬だけ、すごく安心したような顔してた。それってさ、もう心が動いちゃってるってことじゃない?」
自分の心中を、簡潔な言葉で言語化され、和美は絶句した。
過去がどうあれ、今の自分の心が、巧の接触にこれほどまでに翻弄されている。その事実は、どんな言い訳でも覆せなかった。
「恋……。私が、巧くんを?」
再び、ステージ中央でステップを確認し始めた巧の背中を見る。
夕陽を浴びて光る彼の背中が、さっきまでよりもずっと、眩しくて、そして一人の「異性」として不思議なほど魅力的に見えた。
「ま、自覚しちゃったら、あとはやるしかないよ。さあ、ヒロイン。王子様が待ってる」
背中を押され、和美はフラフラと巧の元へ歩き出す。
「……和美、大丈夫か? 顔、さっきより赤いぞ」
巧が心配そうに覗き込んでくる。その飾らない声を聞くだけで、また胸の奥が小さく跳ねた。
秘密にしている過去よりも、今、目の前の彼と向き合いたいと願ってしまう自分。
和美は文化祭の喧騒を前に、初めて自分自身の「新しい感情」に、そっと白旗を上げたのだった。




