跳ね返る床、遅れる拍
試合が、始まってしまった。
次々と他校の生徒たちの演技が過ぎていく。緊張のせいで、懸命に内容を追おうとしても意識の表面を滑っていく。頭の中には何も残らない。
「○○中学校、面影和美さん」
不意に、自分の名が呼ばれた。
「はい」
返事をして、右手を高く上げる。
控えスペースから一歩踏み出すだけで、周囲の空気が一変した。
公式戦のマットの上。
いつもの学校の体育館とは、明らかに勝手が違う。足裏に返ってくる感触が、少しだけ強いのだ。踏みしめたはずの重心が、わずかに弾き返される。
(……跳ねる)
やりにくい、という言葉が素直に浮かんだ。
けれど、それを嘆いてもどうにもならない。正面には審査員席が並んでいる。物理的には遠い場所にあるはずなのに、射抜くような視線の鋭さだけが、肌に刺さるほどはっきりしていた。
『広く使うな、前で見せろ』
杉浦先生に何度も言われた注意が、今はやけに現実味を帯びて耳の奥で鳴っていた。
音楽が、鳴り始める。
最初のポーズ。緊張から、ほんの少し息を吸いすぎた。
大丈夫。身体は覚えている。
そう自分を鼓舞した矢先、床の反発で着地が流れた。止まったつもりなのに、ほんの数センチ、姿勢がずれる。
(合わせなきゃ……!)
ボールを構える。
冷たくて、少し重い。
この掌の感触には、どこか覚えがあった。
半年前。
校庭で、無邪気にドッジボールを投げていた頃の記憶だ。
――高く投げた方が、強い。
その頃の癖が、まだ消えずに残っていた。
気をつけようと意識したはずなのに、放たれたボールは予想よりも高く、天井近くまで舞い上がった。
(あ――)
高い。
一瞬、時間が引き延ばされたような感覚に陥る。
落ちてくる。
必死に追いかけるほどではないが、待つ余裕もない。
……取れた。
ちゃんと、取れた。
それなのに、音楽は情け容赦なく先へと進んでいる。
一拍。
決定的に、遅れている。
遅れを取り戻そうと焦れば焦るほど、身体が強張っていく。笑顔を作ろうとしても、顔の筋肉がうまく動かない。
「男の子」の投げ方。高く、強く、最短距離で結果を奪いにいく動き。
今は、そのかつての習性が、何よりも邪魔だった。
正面を見る。
逃げずに、前へ。
床が跳ねる。リズムがずれる。
それでも音楽から振り落とされないよう、必死に食らいついた。
最後の動き。
脚が、微かに震えているのがわかる。
それでも、執念でポーズを止めた。
音楽が、切れる。
まばらな拍手が起こる。
――終わった。
礼をしてマットを降りた瞬間、膝から力が抜けた。
やっと、あの落ち着かない床の跳ね返りから解放される。
控えに戻り、深く、長く息を吐き出した。
そのとき初めて、身体を包むレオタードの締め付けに気づく。肩も、背中も、自分でも驚くほど強張っていた。
(ずっと、力が入ってたんだ……)
更衣室で着替えをするとき、布地が肌に張り付いて、少しだけ剥がれにくい。
それでようやく、自分が「勝負服」を纏って戦っていたのだと実感した。
点数は、まだ見る勇気が出ない。
半年前までの男の子だった感覚で投げ上げたボール。その名残は消えきらず、今日も指先に嫌な感触を残した。
それでも。落下はさせなかった。逃げずに、やり遂げた。
和美は、手元に戻ってきたボールをもう一度胸に抱え直した。
その冷たい重みが、ふわふわと浮いた意識を現実へと引き戻してくれる。
次は。
次は、あの音楽の渦の中に、もう半拍だけ深く沈み込もう。
和美は静かに、前を見据えた。




