表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
22/56

跳ね返る床、遅れる拍

 試合が、始まってしまった。


 次々と他校の生徒たちの演技が過ぎていく。緊張のせいで、懸命に内容を追おうとしても意識の表面を滑っていく。頭の中には何も残らない。


「○○中学校、面影おもかげ和美さん」


 不意に、自分の名が呼ばれた。

「はい」

 返事をして、右手を高く上げる。


 控えスペースから一歩踏み出すだけで、周囲の空気が一変した。

 公式戦のマットの上。

 いつもの学校の体育館とは、明らかに勝手が違う。足裏に返ってくる感触が、少しだけ強いのだ。踏みしめたはずの重心が、わずかに弾き返される。


(……跳ねる)


 やりにくい、という言葉が素直に浮かんだ。

 けれど、それを嘆いてもどうにもならない。正面には審査員席が並んでいる。物理的には遠い場所にあるはずなのに、射抜くような視線の鋭さだけが、肌に刺さるほどはっきりしていた。


『広く使うな、前で見せろ』


 杉浦先生に何度も言われた注意が、今はやけに現実味を帯びて耳の奥で鳴っていた。


 音楽が、鳴り始める。

 最初のポーズ。緊張から、ほんの少し息を吸いすぎた。

 大丈夫。身体は覚えている。

 そう自分を鼓舞した矢先、床の反発で着地が流れた。止まったつもりなのに、ほんの数センチ、姿勢がずれる。


(合わせなきゃ……!)


 ボールを構える。

 冷たくて、少し重い。

 この掌の感触には、どこか覚えがあった。


 半年前。

 校庭で、無邪気にドッジボールを投げていた頃の記憶だ。


 ――高く投げた方が、強い。


 その頃の癖が、まだ消えずに残っていた。

 気をつけようと意識したはずなのに、放たれたボールは予想よりも高く、天井近くまで舞い上がった。


(あ――)


 高い。

 一瞬、時間が引き延ばされたような感覚に陥る。

 落ちてくる。

 必死に追いかけるほどではないが、待つ余裕もない。


 ……取れた。

 ちゃんと、取れた。

 それなのに、音楽は情け容赦なく先へと進んでいる。


 一拍。

 決定的に、遅れている。


 遅れを取り戻そうと焦れば焦るほど、身体が強張っていく。笑顔を作ろうとしても、顔の筋肉がうまく動かない。

「男の子」の投げ方。高く、強く、最短距離で結果を奪いにいく動き。

 今は、そのかつての習性が、何よりも邪魔だった。


 正面を見る。

 逃げずに、前へ。

 床が跳ねる。リズムがずれる。

 それでも音楽から振り落とされないよう、必死に食らいついた。


 最後の動き。

 脚が、微かに震えているのがわかる。

 それでも、執念でポーズを止めた。


 音楽が、切れる。

 まばらな拍手が起こる。


 ――終わった。


 礼をしてマットを降りた瞬間、膝から力が抜けた。

 やっと、あの落ち着かない床の跳ね返りから解放される。


 控えに戻り、深く、長く息を吐き出した。

 そのとき初めて、身体を包むレオタードの締め付けに気づく。肩も、背中も、自分でも驚くほど強張っていた。


(ずっと、力が入ってたんだ……)


 更衣室で着替えをするとき、布地が肌に張り付いて、少しだけ剥がれにくい。

 それでようやく、自分が「勝負服」を纏って戦っていたのだと実感した。


 点数は、まだ見る勇気が出ない。

 半年前までの男の子だった感覚で投げ上げたボール。その名残は消えきらず、今日も指先に嫌な感触を残した。


 それでも。落下はさせなかった。逃げずに、やり遂げた。


 和美は、手元に戻ってきたボールをもう一度胸に抱え直した。

 その冷たい重みが、ふわふわと浮いた意識を現実へと引き戻してくれる。


 次は。

 次は、あの音楽の渦の中に、もう半拍だけ深く沈み込もう。

 和美は静かに、前を見据えた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ