第七十一話 『人間を、なめないでくれる?』
九津とアスモデウス。他の激戦に決着がつき始めた頃、二人の戦いはまだ続いていた。
九津が万式紋の刃を振るえば、アスモデウスは体を霧のようにぼやけさせ攻撃をかわす。また、アスモデウスがその体の一部を蝙蝠に変化させ飛ばすと、一体一体を九津はさばいた。
時おり二人の距離は急激に狭まる。すると、二人は申し合わせたように拳のみで相手を襲った。
「いくよっ」
『ふんっ』
鈍い音と共に、互いに頬に一撃が決まる。なぜか拳の一撃だけは暗黙の約束のように二人ともその身に受けた。
衝撃で一瞬、二人は体勢を崩すがすぐさま互いに立て直す。
このとき、内心で驚いているのは九津ではなく、妖怪であるはずのアスモデウスの方だ。アスモデウスは妖怪による人間への圧倒的な制裁を見せつけることにより、確信していたはずだったのだから。敵の、人間である九津の心を折ったことを。
それなのにその人間は復活した。それどころかこれほどまでに強く反撃してくる。
あり得ない。それがアスモデウスの答えだった。
これまでの歴史の中で幾度か繰り返してきた百鬼夜行の業において、こんなことはなかったと記憶している。大概に人間と言う人の模造は弱く、脆い。それは肉体的なものは当然、上位種族である自分たちと比べ遥かに心、、精神、ようは自我の持ちようが薄かったからだ。
誘惑に負け、強すぎる力に溺れ、目的や目標さえ忘れ、己の思考を放棄する。
この「界」と呼ばれる全ての意思ある者たちの中で菩薩どもが呆れ、天使どもが毛嫌いし、妖怪たちが自嘲し、悪魔たちが優しく見守ろうとする行為。
それが自我の放棄。心が折れること。それが人間にはあるはずなのだ。
何より、これまでの人間なら、少なくともここまでで充分に百鬼夜行を受け入れていた。
自分たちを越える遥かな力の差の前に、諦めの境地ともいえる状態で滅びを受け入れるのだ。それが多勢を巻き込むことだとしても、己のあらゆる面での贖罪として。
しかし、九津は立ち上がり、立ち向い続けている。例えきっかけが駆けつけてくれたわずかな人間たちのおかげだとしても、アスモデウスにはとうてい信じられなかった。
一瞬、過る考え。始めから上位種族に対抗する手段や心構えを持っていたようだと言うこと。
そんな馬鹿な、と頭を振りたくなる。
最初から上位種族と戦うことを前提に生きている人間など、あり得てはいけないのだ。なぜなら、この世界は確実に天使どもとその皇である天神によって種族差が分けられているのだから。
まさかお前はただの人間とは違うというのか。いや、あり得ない。アスモデウスの頭の中でどうしてもそんなつまらない自問自答が繰り返される。
あり得てはいけない。それではまるでかつての、と九津が古と評した彼の記憶の中において、そんな対抗手段をもつかのような九津の姿を見るのは苦行だったからだ。
折れた心を奮い立たせ、また立ち向かってくるなどと、とうに忘れたはずの昔の自分と、彼が失ってしまった遥か昔を見ているようだったからだ。
昔、遠い昔、アスモデウスはこの人間の世界を荒らした。自由を愛する妖帝の諌める言葉も、優しく慈悲深い魔王の諭す言葉も聞き入れず、ただ単純に楽しさを求めて暴れたことがあったのだ。
楽しさこそが生きる意味。それが妖怪だと信じていたからだ。
だが、違った。
絶対的な支配者の前には、乱暴者の圧し通すような自由など無かったのだ。
それを教えつけるように咎めたのは、天使どもが皇、天神だった。アスモデウスは彼の怒りに触れたのだ。五人の皇の中でもっとも秩序を好む皇が、五人全ての皇が集まって作ったこの「星界」の秩序を乱す暴れものに。
その制裁が落とされた時、アスモデウスの心は確かに一度折れてしまったのだ。圧倒的な「絶対分解」の力により、その心は。
しかし、このあと、アスモデウスの折れた心に寄り添ってくれるものが二人、現れたのだ。一人目はほんの気まぐれで助けることになった人間の少女だった。
彼女は心も体もぼろぼろになり人間の世界で苦しんでいたアスモデウスを懸命に助けようとしてくれたのだ。始めこそ人間風情がと、アスモデウスも相手にしなかったが、それも時を共にするにつれ薄れていった。むしろ愛着さえわいた。ところがそれを気に入らないやからが現れだした。人間をいたぶることを好む同胞と、人間に執着する妖怪の弱点になるのではと勘繰りだした人間たちだ。
アスモデウスは気がつけばその少女を守るために立ち上がっていた。戦って戦って、かつての自分を取り戻していた。
そしてアスモデウスに寄り添ってくれる二人目は、その少女を失って、二度目になる己の無力さを恨む怒りにより自暴自棄になっていた彼の前に現れた。そのものは、慈悲深き優しい皇、魔王だった。
魔王は言った。自分は、この世界に生きる人の形をしたものが好きだと。このモノたちの行く末が見たいと。だからどうしても、妖怪と妖怪たちを憎む人間たちだけが暴れまわる世界であってはいけないと。
さらに、そうでなかったのなら、妖怪と人間が手と手を取り合って生きていけるような世界であったのならば、あの娘が魂を失うことはなかった、と続けた。
アスモデウスは自嘲気味に、確かにと笑った。そんな世界は無理だと思ったからだ。無理だと思い知らされたからだ。同胞と、人間たち自身によって。
魔王は、アスモデウスの呟きに耳を傾けながら目を伏せ、続ける。
そして天使たちにも、この世界に立ち入る隙を与えてはいけないと。
なぜかと一度だけ聞いた。
魔王はいつも通り、優しく憂いを秘めた微笑みで答えてくれた。
この世界は、彼らが生きるこの世界は、彼ら自身の手によって滅びなければならないのだからと。
それが魔王であり、この世界を作り上げたものの一人としての彼女の願いでもあると。
だったら妖怪は、彼女の願いを叶えなければならないと思った。自分を救い、もう一度生きる意味を持たせてくれた少女が生きることの許される人間のための世界。それを作り上げようとする彼女のために。
どうすればいいのか。
この世界を構築する皇の残した力に人間が溺れぬように、その皇の力に溺れた人間に天使どもが付け入る隙にならぬように、自分がこの世界を守らねばとならない。それは自由を信念とする同胞たちが手を出せないほどに。
こうして彼は、魔王と約束をかわし、少女の失われた魂に誓った。
そんな中、アスモデウスを名乗る彼は『名前』を呼べる妖怪たちと出会った。
一人は自分と同じ罪を犯し、彼女に救われ、彼女を崇め真似る妖怪だった。
一人は自分と似た罪を犯し、彼女に救われ、彼女の願いを免罪符に暴れる妖怪だった。
一人は自分とは違い、彼女の願いをただ単純に見てみたいと言った妖怪だった。
一人は自分とは違い、罪も犯さず、もとの世界に戻るよりも妖精たちと怠けている方が言いと笑う妖怪だった。
こうして、圧倒的な強者の前に折れたはずのアスモデウスの心は再び甦ったのだ。魔王の救いと、仲間との出会い、そして少女への誓いによって。
今ならば、この身が朽ち果てようとも、二度と上位種族に心を折られることはないと自負できるまでに。
アスモデウスは考える。もし、九津が立ち上がった理由が自分と同じだったのならばと。
それは仲間と、そして九津を支える圧倒的な心の柱があるということだ。
だがそれはあり得てはいけないのだ。なぜなら、上位種族に折られた心を取り戻すなど、自分と同位の種族だけでは、アスモデウス自身も不可能だったからだ。上位、同位、下位。全てが揃ってようやく自分を立たせたのだから。
もし本当に、自分と同じだったのならば、九津は触れたことになる。圧倒的な強者である、上位種族の何かに。
たかが人間風情がそんな状況を。どうしてもその考えを肯定することができなかった。例え出会っていたところで、ただの人間がそうそう変われるものではない。人間が、そんなに強いはずがないのだから。
だが、無駄な肉弾戦に、気がつけば情けないことに息が上がっている。どうしてもこの世界に留まるために必要な動物性物質というのは長期の活動に向いていない。その事を含めて悔しいが、だんだんと目の前の少年の強さを証明しているかのように思えてきた。
いや。
上位種族に対抗する下位種族。これはかつての上位種族に刃向かった下位種族と同じであるのなら、こんなはずはない。
アスモデウスはもはや構うことなく、九津に尋ねた。
『お前を支えるモノは一体なんだ?』
九津は不思議そうな顔をした。
「ん?俺を支えるモノ?」
九津は首を傾げた。
まさか向こうから思ってもない問いかけをされるとは思わなかったからだ。間の抜けるわけではないが、答えに困る。
「俺を支えるモノ、ねぇ…」
『人間が…いや、生きている存在が上位種族を前に、心が再び甦るなど…』
「あり得ないって?ああ、そう言うことか」
アスモデウスの言葉を遮って、妙に納得したように九津は頷いた。アスモデウスは面白くない顔をするが、答えは聞きたいようだ。動かない。
「やっぱり仲間が駆けつけてくれたこと、かな」
『…馬鹿な、その程度のはずはない。お前は知っているのだろう…強者がなぜ強者であるのかを』
「その程度のはずはって、言ってくれるなぁ。けど、それ、強者は…強いものたちを知ってるってのは心当たりがあるんだよ」
アスモデウスの瞳がちらついた。腑に落ちたようだ。やはり、と言いたげに唇を結んだ。
「あ、けどさ、妖怪とか天使とかじゃないよ。強者は強者でも、ちゃんとした人間だよ」
『…馬鹿な、それこそあり得ない。人間の強者の支え程度で、俺たちを前にして立ち上がれるはずは…』
「それが立ち上がれるんだな、これが」
茶化すように九津は答えた。何となく、調子が上がっていくのがわかる。自分でも、本当になんで望みを絶えてたのかわからなくなるほどの高揚感だ。
「俺の知っている強者はさ、俺の師匠で、この世界じゃ魔女なんて呼ばれてる人間さ」
『魔女…赤き力を強く受け継いでいる人間がそう呼ばれていたな』
「そう。魔術師の筆頭、最高の魔術の使い手をそう呼んでる。そしてね、もう一つの呼ばれ方があるんだ」
九津の口元に抑えられないにやつきを浮かぶ。思えばこれから口にすることを言うのは始めてだ。人前ではなく、妖怪の前になるとは思わなかったが。
語られるもう一つの自分の師匠の呼ばれ方。
「術識の王…ってね」
『…なっ』
「あれ、思った以上の反応だ」
あからさまにアスモデウスの様子が変わった。術識の王。その名を聞いた衝撃で体が撃ち抜かれたように目を見開いている。
九津にしても、ここまでいい反応を見せてもらえるとは思わなかったので驚いている。
「知ってるとは思ってたけど、いや、まさかそんなに驚いてもらえるとは」
むしろこちらの方があたふたしてしまう。あれは、本当にその呼ばれ方の意味を知っているものの反応だ。
『馬鹿な、術識の王だと?それは…あの方が最後に残した力そのものだぞ』
「ん、…んー、そう言われても」
アスモデウスの反応に着いていけず、言ったはずの九津の方が言葉が詰まる。
「俺も凄いだろうってことしか知らないし…ってかチカラ?ナマエじゃなくて?」
『あの方がっ…彼女が最後にこの世界の均等を保つために残した力だぞ。それをっ、今っ、この時代の、愚かに霊力を失いつつある人間ごときが名乗っているというのかっ』
アスモデウスは似合わず、興奮冷めやまぬといった風に声をあらげた。彼の中で、どうしても受け止めきれない事実らしく、九津の声に耳を傾ける余裕はなかったようだ。
『あり得ない、あり得ない、あり得てはいけない。彼女の力を、彼女が願いをこめた最後の力を、この時代の人間ごときが扱うなど…あり得ないっっ』
そして彼は憤怒した。
アスモデウスにとって、それだけのことだったらしい。術識の王を名乗る人間がいることは。そもそも竜脈に触れたことそのものにも怒りを見せていたのだ。臨界点は近づいてのかも知れないが。
しかし、九津にとってそんなことはどうでもよかった。
別にアスモデウスが今さら憤怒しようが、やることは変わらないからだ。守りたいものを守りたいだけ守る。それだけだ。
それは町そのものが狙われたことに対する想い。
それは仲間に情けない姿を晒してしまった想い。
何より、九津にとって、もっとも尊敬するべき師匠が馬鹿にされたことへの怒れる想い。
だから九津は言ってやった。
「あんまりさ、人間をなめないでくれる?力に溺れる人間ばかりじゃないし、力が相応しくない人間ばかりじゃないんだ。それを今、証明してあげるよ」
仲間に取り戻してもらった心で不敵な笑みを浮かべた。そして自分にその不敵な笑みを教えてくれた師匠の顔を思い出した。




