第七十二話 『覚えている約束は、守る方だから』
悟月九津、彼の師匠にあたる人物は三人いる。その中で一人、もっとも長く深い付き合いになる師匠がいた。姓を島の木で「しまき」、名を月の帝のような女と書いて「あてな」という。
島木月帝女。
しまき、あてな。
変な名前だな。自分の「ここのつ」という読み方も大概変だと思っていたが、幼い九津はそう思ってしまった。
九津の両親との旧知の仲であり、父親と他の二人を含めて戦友だと語る彼女は綺麗な女性だったが、確かに凛々しさの方が際立っていた。
何より、私は強い。自らも語るその言葉がよく似合う女性だった。
実際の証明などされたこともなかったが、彼女と過ごす日々の中で、それは九津にとって揺るぎないものとなった。
折れた心の最後の一欠片で仲間の声に耳を傾けられたのは、そんな彼女の声が聞こえたからだ。
決して優しいだけの言葉ではなく、全く温もりだけの言葉でもない、彼女の声が。
ふと、思う。
ではなぜ、そこまで自分は彼女を信用しているのだろうか。
まず何をされただろうか。記憶の中にある出会い。
──あんたは魔法を信じてるの。
頭を鷲掴みにされて足を宙に浮かしながら、睨み付けられるように問われたあの日。
赤がよく似合うその風貌と、言葉の端々から伝わる覇気に、子供ながらに『女王』のようだと思った。
そうだった。綺麗とか凛々しいとかの前に、威厳があると思ったんだ。九津は思い返して可笑しくなった。そして圧されながらも、父親との約束を守る決意を示すため、頷いたのだ。
女王は不敵に笑った。そうして知ったのは、彼女は女王ではなく『魔女』だったということだ。
魔女は『旅人』と『部長』と呼ばれる戦友を二人を連れてきた。そのまま三人が三人とも得意分野を教えてくれるというのだ。
こうして魔女たちとの修行が始まる。
一人目の師匠との修行で忘れないのは、死にかけたことだ。
部長と呼ばれる師匠は体の使い方を教えてくれた。動きが肝心だよと、笑って言うその顔が狂気に満ちた科学者のようで恐かった。やることはなおさらだ。
致死量手前の毒を飲まされ、極限状態の追い込みを体験させられた。はずせる限りの間接を外され、何日も昼夜を過ごすはめになったこともあった。他にも色々。
体を使う。文字通りのことを想像していた子供にとって、なんとも信じられないことが続いた。
本当に忘れない。
二人目。この修行の時の記憶を呼び起こしても死にかけた記憶が甦る。
旅人と呼ばれるこの師匠は、道具の使い方を教えてくれた。大切なことだよと、穏やかそうな表情を見せるこの師匠には騙された。
その大切なことという教えが、道具とは、如何に目的を達成するための手段であるかを解いたのだ。しかも凝縮して。
詰まるところ、道具を使って、如何に人間を殺すか、殺されることになるか、である。
忘れるわけがない。
三人目。最初にして最後まで付き合ってくれた魔女にして九津にとっての「女王」さま。
彼女の修行はことさら酷く厳しいものだった。それは今までが、人間の限界を計りながら行うものだったのに対して、彼女の修行は、人間を如何にして越えられるものかだったからだ。
地獄があるならこの人のことを言うのだろう。これまでにあった経験を全て引っくり返して、そう戦慄したのを覚えている。
そして。
あいつはこの事を知っていながら教えろと言ったのかと、悔しそうに、苦しそうに呟いたことを。
この事。術式不発のこと。体の外側に術式としての力を放つことが出来ない才能。
それを九津の父親に知らされずに修行させてきたのだ。二人とも。
当然というか、その頃の九津自身、術式不発という言葉は知らなかった。まさかその言葉の意味するものが、父親との約束を守りきるには重荷になるものだと知るのも、苦痛に耐えるような彼女に教えられたあとだ。
愕然とした。
父親との約束を、魔法を信じるという言葉を、守りきれる自身が無くなったからだ。
守ったところで自分は魔法を、魔術を、それら以外の全ても使うことが出来ないからだ。
これまでに耐えてきたことはなんだったんだ、そう狂いそうになった。これまでに信じてきたものはなんだったんだ、そう恨みそうになった。
そうならなかったのは、ひとえに彼女のお陰だったのだろう。
彼女は愕然とした自分を、これまでに見せたことがないくらいに優しく抱き締めてくれたのだ。泣くことさえ忘れて、立ち尽くしかなかった自分の変わりに、あの強い彼女が泣いてくれたのだ。
──あいつ、このことを黙っていたわね…。
優しい温もりとは裏腹の怒りに満ちた声。
──子供にこんな約束事を遺すなんて。
そして肩を掴まれ、互いに視線を合わせた。涙目の彼女の顔は、子供ながらにとても美しいと見惚れた。
彼女は、これまでとは違った決意に満ち溢れた声で言ってくれた。
──あんたを絶対に術師程度なんかには負けない男にしてあげるわ。
なぜなら、
──あんたは私の一番弟子だからよ。
ここまで思い出し、思い返して九津はやっと気がついた。彼女の言葉がなぜ、ここまで自分の支えになっていたのかを。
あのとき、あの瞳に、あの言葉に自分は憧れ、きっと彼女に、相応しい人間になりたいと思ったのだ。
そう、隣に立つに相応しい人間に。
自分でも恥ずかしくなるような幼稚な理由に、思わず口元を歪めていると、
──…そっか、それが悟月くんの強さの理由か。これは思っていた以上のものがあるなぁ。
──面白いものを手に入れようという代償か…。シシシ、お主もようやるのぉ。
声がした。頭に直接響く包女と筒音の声だ。おや、と考えている間にも声はさらに増える。
──さ、さすがにあの修行をやれば、そりゃ嫌な思い出にもなるわな。
──うう、自分がどれほど未熟だったのか、思い知らされたのですよ。
今度は光森と瑪瑙だ。
忘れてたが、瑪瑙とアーサンの呪術により意志疎通が言葉と距離を超えて可能になっていたのだ。となると、今、思い出していたことが全員に伝わったということか。
そう言えば、頭の中にざわつく感覚が広がる。九津の記憶が伝わり、もしかしたら嫌な思いをさせたのかもしれない。
そう、思っていると、
──あんた、すごいっスよ!いや、マジで。俺だったら魔術の才能が無い何て言われたら…考えただけでも辛いッス。
──まだ良平はマシだよ。僕なんかさ、精霊がいなけりゃ本当にただのグズだよ…あれ、考えてたらさ、なんか泣けてきた。
──安心しろ、筋肉が残る。だから小僧だって筋肉を鍛えてたんだ、そうだろう。
──っつうかよ、その魔女の仲間に格闘技を教えてもらったわけじゃないだな。ほとんどココノッのオリジナルかよ。
──ココノツ、よく、頑張った、そう思うよ。
──ええ、ええ、本当に。正直、この拷問のような修行を耐え抜いたその精神力、私は尊敬します。
──うん、本当にそうだ。才能が無い程度、人が頑張れないことの理由になんかならないんだね。
──ああ、そうじゃのぉ。まさに簡単で、単純で、純粋なものじゃ。そのぶん難儀じゃがな。
──それでも、これほどの努力をしてなお手に入れられないものを俺たちは持っているのだな。…へばってなど、いられないな。
皆が次々に言う。思っていたよりも温かい感情だ。誰もが皆、九津の過去を振り返り、共感して、強くなろうとした日々を称賛してくれている。これは、なんと言うか、心の底から力がみなぎっているようだ。
はは、師匠。確かに俺は術式なんか手に入れられなかった。けどさ、もしかしたら、もっと強いものを手に入れたのかもしれないや。
九津は笑う。
──そうですよ。おそらくあの魔女が教え伝えたかったのは、そういもの全てなのでしょうね。
魔女の仲間、梨麻の声が答えた。
もう間違いないだろう。
『何をニヤついている』
「ん?元からだよ、この顔は」
アスモデウスが怒りの視線を飛ばしてくる。彼の周囲に溢れる妖気も、なかなかのものだ。膝をついていた時の自分なら、完全に圧倒されるほどの。
だけど不思議だった。今は、怖くない。そう感じていると、
──あの…実をいうと、もう本当の本当に私の呪力が底の底を迎えようとしてるのです。
瑪瑙が言いづらそうに話し始めた。予想はつく。この呪術を介した会話が出来なくなるということなのだろう。
──なので最後に…お伝えしておきたいことが、
なんだろう、そう九津が思っていると、
──あるのですが、どうにも皆さんも同じ気持ちのようなので一言に纏めることにしたのです。いきますよ、皆さん。
皆さん、一言ってなに。九津が一瞬、不思議そうにしていると、
──────がんばってっ!────
その言葉と、それに連なる感情の大きな大きなうねりが九津に流れ込んできた。これは今、繋がっている全員の想いというやつなのだろう。そう、思ったときには呪術は消えかけている。
だか、繋がっている感覚は逆に九津の中でどんどん強くなっている。
どうしよう、師匠。九津は戸惑った。これじゃ、こんなものをもらってしまったら俺、無敵じゃないか。そう確信して。
──ん、ありがとう。
完全に途切れる前に、そう返して九津は万式紋を腕に巻き付け、アスモデウスに最後の戦いを挑む。
全力同士の戦いは、術式も戦略もない、明快な殴りあいになった。
『お前ら人間は、あの方の加護の元に生きてこられたというのに、なぜ、あの方の願いを踏みにじるような真似をする』
「そんなつもりはないよ。俺たちは俺たちなりに必死で生きてるんだから」
『竜脈に触れ、術識の王などと名乗りながらか?ふざけるなっ』
「確かに自分で制御できない力に振り回される人間もいたかもしれない。けどさ、少なくとも俺の知っている人たちは違うっ」
『何が違うというのだっ』
もう何度目かわからない鈍い音。暗黙の約束。互いの拳を受け合いながら、二人は続ける。
「力に振り回される恐怖も知っている、そうならないような心の持ち方も知っている」
『甘いなっ、人間はそれでも繰り返す。だからこそ俺たちが、あの方の願いが果たされるよう見守らなければならないのだっ』
アスモデウスの怒声は響く。負けじと九津も拳を作りながら返した。
「そんなことはないっ、俺たちの世界は、俺たち自身の手で守ってみせるっ」
強烈な一撃。妖力全開のはずのアスモデウスが、初めて膝を屈した。どうも、痛みよりも九津の言葉を反芻してのようだが。
『お前たちが、人間たちの手によって、守る…だと』
「ん、そうだよ。大丈夫…天使たちの勝手にはさせないし、もし力に溺れた人間に出会ったら、必ず止めてみせるよ」
『何を偉そうに……っ』
何かに気がついたようにアスモデウスは、意味がわからなそうな眉をひそめた。その顔はどんどん歪んでいく。
『お前はどうして立っていられるんだ…いくらなんでも、妖怪の全力をその身に受けて…なぜだ』
信じられないものを見るように、
『お前はいったい、何者なんだ』
「ん?俺?俺は悟月九津。魔女にして術識の王の名乗り手の一番弟子さ」
呟くアスモデウスに九津はふてぶてしく応えてやった。すると、
『そうだ…そもそも術識の王など』
「私がそうよ、妖人。言いたいことはあるでしょうが、今は拳をおさめ、大人しく話を聞きなさい」
闖入者が現れた。赤い装飾がよく似合う、炎の印象を放つ一人の女性だ。声は響き、醸し出される威厳に思わず九津も体を硬直させた。
現れたる闖入者は、魔女にして術識の王、島木月帝女だったのだ。
「え、ええっ!月師匠?なんでここに?」
「なんでってご挨拶ね。言ってたでしょ、耐えろって」
「いや、言ってたけど」
「あんたが耐えてくれたから間に合ったわ…よくやったわ」
そう言うと、月帝女は九津に微笑んだ。それだけで九津は満たされたように落ち着けた。
「ん」
「それで、妖人。あんたに話をつけにきたの」
九津が短く答えると、月帝女も満足したようでアスモデウスに向き直った。突然の闖入者に膝をついたままアスモデウスは睨みを利かしている。
『…話だと?なんだいったい』
「今回のことよ。この竜脈の件に関しては私の不注意よ…悪かったわ」
九津は驚いた。月帝女が頭を下げたからだ。
「こいつにはもっとこの世界の仕組みを教えるべきだった。どうしても強さを先じてしまったせいね、完全に私が悪い」
『何を今更』
「で、私は謝罪をしてきたわ…魔王のもとにね」
『な、』
「ん?」
二人して月帝女の言葉に驚いてしまった。なんと言ったのか、この人は、と。
「つ、月師匠…それ、どういう」
「どういうこともそういうことも、私が直々に会いに行ったのよ、魔王のもとに」
ますますもって意味がわからなかった。確かに人外のことを平気でやってのける人だとは思っていたがと、混乱していると、
『…あの、空間に行ったのか』
「行ったわよ。相変わらず人気のない静かなところだったわ」
「え?どこどこ、魔王ってどこにいるの?」
「あんたね、ちょっと考えればわかるでしょう?魔王は魔力生命体たちの王でもあるんだから、魔界でもなく、人間界でもないなら…」
考えて、一つだけ思い当たる節があった。ヒントは精霊たちの王だと言う月帝女の言葉だ。精霊たちの王。つまり、精霊たちのいるところにいると言うのだろう。だとしたら、
「精霊結界の…中」
「正解」
事も無げに言う月帝女。唖然となった。九津としても、あんなにもこの世界と瓜二つのものをどうやって作り上げていたのか、と思うところはあったのだが、まさか世界創造の一人が関わっていたとは。
『あの方は無理をされ過ぎたのだ』
アスモデウスが悔しそうに呟く。妖怪である彼が、これほど魔王のことを慕っているのはよくわからないが、一度会ってみたいものだと思った。
「そうね、二十年前のことにしろ、本当にバカなんじゃないかって言うくらいのお人好しな皇よ」
『貴様、魔王さまに…』
「そしてその魔王さまに、許しを貰ってきたわ。これがその証拠よ」
月帝女はそう言うと、手のひらに赤く光るものを浮かべた。九津もなんだ、と目を凝らしていると、先にアスモデウスの顔色が変わった。
『これは…まさか、本当に…』
「だから言ったでしょうが。直々に会いに行ったって」
『…しかし、それでは』
「大丈夫。二十年前のことで天使たちも懲りてるわ。しばらくは動かないだろうし…させないわ」
断言する月帝女。アスモデウスはまだ何か言いたげに視線を向ける。ふぅ、と軽くあしらうように息を吐くと、
「もし、天使たちがこの世界を分解しようものなら、安心なさい。私の一番弟子が先陣を切って戦うわ」
そう言って、九津の肩を掴んできた。戸惑いながらも、月帝女が自分を信じていってくれているのなら、是非もないと頷いた。
「ん、任せてよ」
アスモデウスの視線を受ける。忌々しそうなものを見るような瞳だ。しかし突然に、それが消えた。
『あの方がそれでいいと判断された以上、もはや俺たちが口を挟む有無はない』
立ち上がり、自分についた砂を払い落とし、傷を治し始めた。ボロボロだったはずの彼の姿がみるみる綺麗に変わっていく。本気の超越変化だ。
「妖力って便利だなぁ」
『……人間の女、お前は術識の王を名乗っていると言ったな』
羨ましそうな声をあげる九津を無視して月帝女に話しかけた。月帝女は貫禄を見せるよう寛大に返す。
「ええ」
『謁見出来るほどだ。お前の力は認めよう。だがそいつの方はなんだ』
疑わしい目。光森たち以外でそんな目で見られるとは、と内心で九津がぼやいていると、急に月帝女が笑いだした。
「言ったわよね。私の一番弟子よ、術識の王であるこの私のね」
『王の弟子だと?…………人間にとって化物でしかなくなるぞ』
「それでも…あんたたち曰く人間の中の誰よりも〃人〃らしいでしょ」
『……ふん』
鼻を鳴らすと、背中を向けて飛び出した。もう彼の中で全ての決着がついたらしい。振り返ると精霊結界からリヴァイアサンを戻らせるように申し出てきた。
態度は少しも変わらなかったが、敵意は消えていたのでこちら側も素直に応えた。すでにベルゼブブの欠片たちは散っており、気絶状態のリヴァイアサン、マァモン、ルシファーはかかった封印を解いてもらったベルフェゴールとアスモデウスが抱えることになった。
『人間相手にここまでやられるとはな』
『ごーめーんー。術式はちょっとねー、人間が作った科学ヘーキとかならさ、ヘーキなんだけどー…なんて』
『そんな軽口を叩けるなら、お前一人で三人とも抱えられるな』
『ちょ、ごめん、ごーめーんーって』
二人はそんな会話をしている。もう止まる理由がない以上、すぐさま飛び立ち去ろうとしていた。だから九津はその背中に向かって声をかけた。
「安心してよ。俺は覚えてる約束は守る方だから」
アスモデウスは一度、ピタリと動きを止めたが、視線を向けるだけで一言もなく朝日の登り始めた空に帰っていった。




