2
夜、部屋で本を読んでいると、変な匂いがする。原因はすぐに分かった。立ち上がって乳母車に近づく。
ここだ。手を伸ばそうとして引っ込める。断じて汚いからでは無い。曲がりなりにも女性らしい彼女に対して、僕が下の世話をするのはおかしいのでは無いか。
ドアを開けて廊下に出る。キッチンを覗くと、フローラが掃除をしていた。
「あ、ごめんフローラ」
「はい」
事情を説明すると、顔色ひとつ変えずフローラは彼女の乳母車を引いていく。1人残った部屋で、残留する匂いに耐えかねて窓を開ける。
別にこの街も、特別綺麗な匂いがする訳じゃない。街の路地裏は下水とゴミ溜めでこれ以上に臭い。丘の上のここまで微かに匂いは飛んでくる。
遠くから飛んでくる悪臭と、今目の前で息のある人間の匂いは別なのだ。
窓を閉める。排泄を何とかする魔法は無い。そういえば、手を召喚して操る魔法を、昔どこかで聞いた事があるような。
それはここ魔法世界だったか、それとも前世の記憶だったか。
——————
小さな田舎の村で産まれた僕は、言葉を覚えるのが異様に早かったと聞く。僕が覚えている最古の記憶は、ここじゃない奇妙な世界で、電車に揺られている時の記憶だ。
もちろんこの世界に電車はない。電車という言葉すらない。そんな記憶と身体と世界のズレが、僕にはとても違和感で、一人で歩けるようになった頃には、村の外に勝手に出歩いていた。
そこで一緒に居たのがリヒトだった。毎度勝手に外に出て怒られてる僕に、僕も連れてけと出張ってきた。
『ルナミスはどうして外に出るの?』
『僕は、早くこの世界を知りたいんだ』
『冒険者になりたいって事?』
知らないはずなのに、その言葉は聞き馴染みがあった。僕にとってそういう合致が、この世界を楽しむ為の数少ない要素だった。
その冒険者と言う言葉が、果たして前世でも同じだったかは、今となっては曖昧だ。この世界の言葉が前世と同じなのか。それとも前世の記憶の言葉が、この世界の言葉で翻訳されたのか。
『……うん。冒険者になりたい』
リヒトはそれを聞いて、嬉しそうに立ち上がった。
『僕も!一緒だね!!』
——————
ノックの音で目を覚ます。椅子で寝ていたらしい。
「シャッテン様。お客様におしめをお付けしました」
「あぁ、ありがとう」
お客様。まぁお客様か。名前が聞けないのが辛い。こちらで勝手に付けるのも如何なものか。
フローラがドアを開けて、乳母車を部屋に入れる。他に場所がないとはいえ、今晩はおろか、これからしばらくはこうなのか。
「予備は?」
「はい。ただ今お持ちします」
「ありがとう。それが終わったら、今日はあがっていいよ」
「いえ、まだ掃除が」
使用人を付けないといけないほど家は広くない。何となくお金がに余裕があるのと、使用人というのも、僕の前世の記憶の、聞いた話にあったから、試してみたかった。というのが大きい。
フローラはこういう時黙って残るから、こちらも強くは言わない。まさか客人の排泄物の処理をする事になるとは、きっとフローラも想定外だったろう。
フローラが部屋を出た後、乳母車に乗った彼女を見る。もう目に水魔法を指すのには慣れてきたようで、出しすぎで溢れる事も無い。
次はどんな魔法を覚えさせようか。いや、別に変なつもりは無い。何も出来ないのはこちらにとっても不便だから、ひとつでも何か出来る事を増やすべきだ。
意思表示が出来る魔法とかはあっただろうか。あったとして、容量が大きいのは邪魔だし、他に使い回せない。
いや、YESかNOだけならば、首の動きで何とかなるか。早速彼女の前に座る。
「聞こえる?」
「…………」
「聞こえているなら、首を縦に動かせるかな?ゆっくりでいいから」
彼女は首をゆっくり下に動かして、再びゆっくり戻す。
「お、いいね。じゃあ次。君は魔王なの?YESはさっきと同じ。NOなら首を横に動かして」
彼女は首を右にズラす。最初から左右に振れとは言えない。こんなに脆くて細い首だ。強く振ったら捻り切れるかもしれない。
「そりゃそうだよね。僕のイメージの魔王って、なんかこう、魔物の中でもさらに荘厳な人型の見た目みたいなので、人ではないからさ」
彼女は首を左にズラした。
「…………魔王、見た?」
彼女は首を下にずらした。
「怖かった?」
彼女は首を上に戻して、また下にずらした。
「……そっか。大変だったね」
彼女は首を右にズラす。リヒトの事を聞こうか悩んで、やっぱり辞めた。怖いからだ。知ってしまうのが。
「よし、新しい魔法を伝授しよう。まぁ僕が開発した魔法とかでは無いけどね」
彼女の魔導書を取り出し、親である彼女のヒエラルキーの下に、次の魔法を書き込む。プレハブの中を開き、転移対象設定と発動条件の部分を書き換える。
「よし。今から教えるのは転移魔法だ。かなり簡易的な物だから、簡単に説明するね」
机と椅子をずらして、部屋を広く取った。
「転移魔法を使うように意識すると、君の視界に丸が見えるはずだ。それが君が転移する場所。今回は頭にうかぶ文字を読んでいく事で発動するように設定してある」
「………………」
ふっと、乳母車を置いて彼女が消える。部屋の中央を見る。居ない。嘘だろ。そんなに遠くに行ける設定だったのかよ。慌てて部屋を飛び出すと、こちらに足音が駆け足で飛んでくる。
「シャッテン様!お客様がキッチンのシンクに」
「怪我は!?」
いや、怪我はしてるんだけど。
「いえ、もう綺麗にすっぽりと」
……そんなに遠くに飛ぶのか。あの数秒でその演算ができるのか。もしかして彼女、持っている人間か?




