第9話 資格範囲内の完璧な仕事
「おい、そこのD級! 前線権限外だ、下がれ!」
上位クラン連合の安全統括・高瀬慎吾の声が、緊迫した洞道に鋭く響いた。
都市近郊・第二迷宮に発令された赤色警報。深層で発生しつつある複合災害の元凶を叩くため、高瀬はA級以上の正規戦力による迅速な制圧作戦を組んでいた。
そこに、たった一人で封鎖線の内側へ歩みを進めてきた榊冬真の存在は、彼にとって目障りなイレギュラーでしかなかった。
「お前が最近話題になっている新人の配信者だということは知っている。だが、ここはD級が売名のために立ち入っていい場所ではない。お前の存在は正規部隊の陣形の邪魔になる。即刻、安全待機エリアまで退避しろ」
高瀬の言葉は厳しく、冷たかった。
しかし、それは冬真への私怨や嫉妬ではない。民間探索者を束ね、安全を担保する責任者として、極めて正しい「規定の適用」だった。
それを理解しているからこそ、冬真は反発しなかった。
「……前線に出るつもりはない」
冬真は静かに足を止め、高瀬の目を真っ直ぐに見返した。
「だが、深層に戦力を集中させるのは危険だ。中層の複数地点で、波形ノイズが共鳴し始めている。先遣隊が深層の元凶を叩いた余波で、必ず中層で局所的な崩落と魔物の漏出が起きるぞ」
「……何?」
高瀬は眉をひそめた。手元の戦術デバイスには、中層での異常を示すデータは上がってきていない。
「お前の勘や見立てで陣形は変えられない。中層の警戒もすでに人員を割いている。杞憂だ、我々で処理する」
「そうか」
あっさりと。拍子抜けするほど素直に、冬真は頷いた。
「なら、俺は資格の範囲内で後方の避難誘導に回る。それなら規定違反にはならないはずだ」
「……あ、ああ。誘導なら構わないが、絶対に深入りはするなよ」
高瀬が毒気を抜かれたように頷くのを確認し、冬真は身を翻した。
組織がルールに従って動いている以上、一個人が勝手に指揮を乱すべきではない。高瀬は無能ではない。ただ、彼らの持つ機材の精度が、冬真の異常な観測力に追いついていないだけなのだ。
だから冬真は、自分に許されたD級という「資格の範囲内」で、最大限の仕事をするために動いた。
*
「きゃあああっ!」
「逃げろ! 上から来るぞ!」
冬真の予言は、わずか十分後に現実のものとなった。
深層で先遣隊と災害指定個体が激突した強烈な魔力波が、迷宮の構造を伝わって中層に到達。脆弱になっていた岩盤が悲鳴を上げて崩落し、その隙間から深層の魔物たちが後方エリアへと漏れ出してきたのだ。
逃げ遅れていた下位の民間探索者たちがパニックに陥り、我先にとゲート方向へ駆け出そうとする。
だが、その先にも魔物の影が迫っていた。挟み撃ちだ。
「止まれ! そのルートは塞がっている!」
混乱の極致にあった集団の耳に、低く通る声が叩きつけられた。
灰色の防刃ジャケットを着た冬真が、探索者たちと魔物の間に立ちはだかる。
「右の横穴へ抜けろ。あそこなら地盤が安定している。走るな、足元を見ろ!」
冬真は直剣を抜き放ち、迫り来る三体の装甲蟻の突進を、剣の峰を使った最小限の捌きで岩壁へと誘導して激突させる。
敵を全滅させるような派手な無双はしない。あくまで「時間を稼ぎ、民間人を逃がす」ことに特化した動きだ。
怯えて動けなくなっていた新人探索者の腕を掴み、強引に横穴へと押し込む。
「は、離せ! あっちにも魔物がいるかもしれないだろ!」
「いない。魔力反応はゼロだ。息を整えて、前の人間の背中だけを見て歩け」
パニックに陥った人間の視界は極端に狭くなる。冬真は一切の感情を交えず、ただ「次に行うべき具体的な行動」だけを短く指示し続けた。
その圧倒的なまでの場慣れ感と、揺るぎない確信に満ちた声に、恐怖で浮き足立っていた探索者たちは無意識のうちに従っていた。
数分後。遅れて駆けつけてきたギルドの公式救助隊が目にしたのは、血の海ではなく、完全に整列して避難を終えようとしている探索者たちの姿だった。
「お、おい……これ、どうなってるんだ?」
「怪我人は? 誰か重傷者はいるか!?」
「いや、かすり傷程度だ。全部あの人が……」
救助隊員が混乱する中、冬真は剣の血振りをしながら彼らへ歩み寄った。
「東の第三ルートは安全を確保した。奥に軽傷者が三人いる。俺は西側の制圧補助に入るから、負傷者の搬送を頼む」
「え、あ、了解……!」
冬真は決して「俺の指示に従え」とは言わない。
到着した公式部隊の指揮権を尊重し、彼らの手が回っていない『現場の穴』を見つけては、先回りして埋めていく。目立たず、しかし絶対に欠かせない歯車として、現場の生存率を劇的に引き上げていた。
*
『第十五階層が完全に崩壊したらしいぞ!』
『S級も全滅したってマジ!?』
『逃げろ! 迷宮の外まで魔物があふれてくる!』
迷宮内の混乱は、電波を通じて外の世界にも伝播していた。
SNSのタイムラインは、恐怖に駆られた人々が発信する真偽不明のデマで埋め尽くされようとしていた。
「視聴者の皆さん、落ち着いてください。現在飛び交っている情報は誤りです」
迷宮の安全待機エリアに留まっている雨宮澪は、手元のタブレットとマイクを通じ、遅延中継に切り替わった冬真のチャンネルで冷静に語りかけていた。
「当チャンネルの認証機材による深層の魔素波形データと、ギルドの公式発表を照合しました。第十五階層の構造は現在も維持されています。S級部隊も健在であり、前線は押し留められています。外まで魔物が溢れる兆候はありません。無責任なデマを拡散せず、公式の誘導に従ってください」
澪の冷徹なまでのファクトチェックが、コメント欄のパニックに冷や水を浴びせていく。
『澪ちゃんのデータが一番信用できる』
『デマ流してんの黒川のリスナーだろ、通報しとけ』
『てか、映像のオッサンの動きヤバくね?』
『D級なのに、公式の救助隊より的確に動いてるじゃん……』
『一切混乱がない。なんなんだこの人、本当に』
数万人の視聴者は、冬真の無双ではなく、「災害対応のプロ」としての完璧な実務能力に目を奪われていた。
敵をワンパンで倒す配信者はごまんといる。だが、これほどまでに現場を掌握し、他人の命をシステマチックに救い上げる人間を、彼らは見たことがなかった。
*
同時刻。迷宮の外。
迷宮安全庁・緊急対応部門の対策本部には、現場に設置された無数の公式監視カメラの映像が送られてきていた。
壁一面のモニターを前に、A級相当の公的救助員である水城蓮司は、緊迫した表情で各拠点の状況をモニタリングしていた。
深層での戦闘は苛烈を極めている。だが、水城の視線は、なぜか中層手前の「後方エリア」を映す一台のモニターに吸い寄せられていた。
そこに映っていたのは、灰色の防刃ジャケットを着た男。
その男は、決して目立とうとはしなかった。公式の救助隊が到着すればスッと身を引き、彼らの死角になっている別ルートの崩落を未然に防ぎ、パニックになる民間人を数語の指示で黙らせて安全圏へ誘導する。
まるで、現場という巨大な機械の「足りない部品」に自ら変化し、組織全体を滑らかに機能させているかのような動き。
「……間違いない」
水城は、無意識のうちにモニターのガラスに手を触れていた。
三年前。湾岸部の巨大迷宮で絶望的な崩落事故が起きた時、あの人は現場の指揮官として、これと全く同じことをやっていた。
誰よりも早く危険を察知し、自分より先に他人の命を安全圏へ押しやり、誰の指揮も奪わずに現場を完璧にコントロールする。
「隊長……戻ってきて、くれたんですね」
水城は送信しかけた音声を止めた。公的回線に残るのは、現場の救助報告だけでいい。
画面の中の冬真は、次の避難者に肩を貸していた。




