第10話 隊長が戻ってきた
迷宮安全庁・緊急対応部門、対策本部。
壁一面に敷き詰められた大型モニターには、赤色警報が発令された都市近郊・第二迷宮の各階層を映し出す、無数の公式監視カメラの映像が分割表示されていた。
通信オペレーターたちの怒号と、各部隊からの報告が絶え間なく飛び交う中。A級相当の公的救助員である水城蓮司は、ただ一つのモニターから目を離せずにいた。
映っているのは、深層の最前線ではない。中層手前の、避難経路となる洞道だ。
そこでは今、深層での戦闘の余波で局所的な崩落が起き、漏れ出したC級相当の魔物たちがパニックに陥った民間探索者たちに牙を剥こうとしていた。
『――右の横穴へ抜けろ。あそこなら地盤が安定している』
音声は拾えない。だが、モニターに映る灰色の防刃ジャケットを着た男が、ただ一言、何かを鋭く命じた瞬間、浮き足立っていた数十人の探索者たちの動きに、一本の太い統制の糸が通ったのがわかった。
男は抜刀し、飛びかかってくる魔物の前に立ちはだかる。
無造作に見える一歩。だが、それは魔物の突進ベクトルを完全に読み切り、最も威力が死ぬ角度で剣の峰を当てる、異常なまでに洗練された体捌きだった。
(……間違いない)
水城は、無意識のうちにコンソールの縁を強く握りしめていた。
顔はフードとマスクで隠れている。使っている武器も、かつての特殊な専用装備ではなく、市販の安価な直剣だ。
だが、剣を振るう際の、わずかに右肩を落とす癖。
魔物を処理するよりも早く、次に崩落しそうな天井の亀裂へと視線を走らせる極端な安全確認の手順。
そして何より、自分を囮にしてでも、絶対に民間人のいる方向へ被害を逸らさないという、冷徹なまでの自己犠牲の形。
「……隊長」
水城の口から、三年ぶりにその呼称が漏れ出た。
国家の極秘任務を帯びた、特別迷宮災害対処室・現場部隊。
水城が新人の頃、圧倒的な背中で自分たちを導いてくれたかつての上司。榊冬真、その人だった。
三年前の、湾岸第九迷宮災害。
システムのエラーか何かで、取り残された十二人の民間人の情報が欠落したまま、迷宮の崩壊が始まった。
あの時、冬真は部下である水城たちに「お前たちは外周へ下がれ」と撤退を命じ、ただ一人で、生還が絶望視される深部へと駆け出していった。
結果として十二人は救われたが、冬真は命令違反と大規模な損害の責を負い、公式には「服務違反による退職」という形で組織から姿を消した。
(俺は、あの時……)
水城の胸の奥が、ギリリと軋むような痛みを上げた。
あの時、命令系統の末端にいた水城には、どうすることもできなかった。隊長の判断の正当性を訴えることもできず、ただ上の決定に従い、彼が組織から追放されるのを黙って見ていることしかできなかったのだ。
あの後悔と強烈な罪悪感は、水城がA級相当の救助員として出世した今でも、決して消えることはない。
生きていてくれた。
その事実に、胸が熱くなる。
だが、水城は公的機関の人間だ。今すぐ現場に駆けつけて、「榊隊長だ」と叫ぶことは絶対に許されない。
冬真がかつて所属していた部署名も、従事していた任務の数々も、すべては分厚い国家機密のベールの下にある。もし水城が現役の保全義務を破り、彼の過去を公の場で特定してしまえば、ただでさえ「無名のD級」としてネットの好奇の目に晒されている彼を、さらに危険な政治的トラブルに巻き込むことになる。
「なぜ、今になって……こんな目立つ形で……」
嬉しい。だが、それ以上に「何も言えない」という公務員としての葛藤が、水城の喉を塞いでいた。
モニターの中の冬真は、圧倒的な力を見せつけるような無双は決してしなかった。
ギルドの公式救助隊が遅れて到着すると、冬真は彼らに指揮権を一切主張せず、スッと一歩引いた。そして、救助隊の手が回っていない別ルートの安全確保や、軽傷者の止血といった「現場の足りない歯車」としての作業に徹し始めたのだ。
『東の第三ルートは安全を確保した。奥に軽傷者が三人いる』
口の動きから、冬真が救助隊員にそう伝えているのが水城には読み取れた。
誰のプライドも傷つけず、組織の規定も破らず、ただ徹底的に『現場の生存率』だけを最大化していく。
「……あなたは、本当に何も変わっていない」
水城は小さく息を吐き、モニターから目を離した。
深層での上位クラン先遣隊による戦闘が終結し、魔素の異常値が低下していくのがデータで確認できた。赤色警報の解除も近い。
水城は手元の個人用スマート端末を取り出し、ネット上で爆発的に拡散されている一つの配信チャンネルを開いた。
『榊冬真の迷宮探索』。
現在、遅延中継に切り替わっているそのチャンネルのコメント欄には、数万人の視聴者による無責任な言葉が滝のように流れていた。
『このオッサン、マジで何者だよ』
『公式の救助隊より手際いいじゃん』
『D級とか絶対嘘だろ。なんか裏があるんじゃないか?』
世間は彼を「経歴不明の謎の男」として消費し、持て囃し、あるいは疑い続けている。
誰も、彼が三年前の地獄で何を守り、何を失ったのかを知らない。
彼がどれほど不器用で、どれほど真摯に、他人の命と向き合い続けてきた男であるかを、この匿名の大群は知りもしないのだ。
(知っているのは、俺だけだ)
水城は、画面の中央で静かに剣を鞘に収め、誰にも賞賛されることなく暗がりへと消えていく冬真の後ろ姿を見つめた。
民間探索者資格の、最下層。
そこから這い上がり、彼が一体どこへ向かおうとしているのかは、水城にはまだわからない。
ただ、一つだけ確かなことがある。
「隊長。……あなたはどこにいても、結局、それしかできないんですね」
水城は誰にも見られないよう、そっと端末の画面をタップした。
『チャンネル登録しました』という小さなポップアップが、公務員としての重い葛藤の底に、ほんの少しだけ誇らしい火を灯していた。




