第8話 守秘義務は本当に邪魔をする
都市近郊・第二迷宮の浅層、第一階層に設けられた「安全待機エリア」。
けたたましい赤色警報のサイレンが外部スピーカーから鳴り響く中、数十人の民間探索者たちが不安げに身を寄せ合っていた。
「榊さん、やはりここから先はギルドの封鎖線が張られています。D級のライセンスでは突破できません」
人混みから少し離れた岩壁の陰。雨宮澪が、タブレットから顔を上げて険しい声で報告した。
先ほど第十五階層で異常な魔素の脈動を感知した直後、発令された赤色警報。冬真と澪は即座に上層へと退避してきたが、すでに迷宮全体は緊急事態モードに移行していた。
大規模な複合災害の兆候が確認された場合、現場の指揮権は自治体の公的部門と、協定を結んでいる上位クラン連合に移行する。D級の民間探索者である冬真には、深層へ向かって魔物を討伐する権限も、現場の指揮を執る権限もない。規定上、ここで待機するか外へ逃げるかの二択だった。
「……わかっている」
冬真は腕を組み、深層へと通じる洞道の奥を静かに見据えていた。
今この瞬間も、足元から伝わる魔素の歪みは広がり続けている。一刻も早く事態を収束させなければならないが、資格を持たない者が勝手に前線へ飛び込めば、公的救助隊の指揮系統を乱す二次災害になりかねない。それは「災害対応のプロ」として冬真が最も忌避する素人じみた振る舞いだ。
ジリジリとした時間が過ぎる中。
不意に、澪の手元で作業用端末が鋭い通知音を鳴らした。
それはギルドからの避難誘導アナウンスではない。澪個人の、検証配信用のアカウント宛に届いた「緊急の法務照会」だった。
「……え?」
画面を見た澪が、息を呑む。
「榊さん、これ……」
澪が差し出した画面には、送信元として『迷宮安全庁・保全法務窓口』という公的機関の名称が記されていた。
『通達。貴殿のチャンネルにて公開されている〇月〇日付の検証アーカイブ(高解像度版)〇〇分〇〇秒〜〇〇分〇〇秒の区間において、旧部隊固有の合図動作と退避時の連続した配置手順が、所属要員の識別情報に結びつく形で映っていることを確認しました。対象区間の速やかな削除、または非公開化を要請します』
文面は淡々としていたが、その内容は極めて重かった。
冬真の目がわずかに細められる。
数日前、澪が複数の認証機材を用いて行った「完全検証」の時の動画だ。あの時、冬真は異常個体との戦闘を避け、機材より早く危険を察知して迂回した。一般に教えられる足場の確認ではなく、旧部隊内で相互確認に使った視線と荷重移動の一連の合図が、高画質では読み取れる状態だった。個々の観察技術まで秘匿されているわけではない。
「……理不尽です」
澪が苛立たしげに呟いた。
「榊さんの名前や顔を隠せと言っているわけじゃない。この現在の配信活動そのものを停止しろというわけでもない。ただ、あなたの技術の根幹を証明した『あの数秒間』だけをピンポイントで消せと言ってきているんです。嫌がらせですか?」
「いや。向こうの法務は極めて正確に仕事をしているだけだ」
冬真は至極冷静だった。
冬真が退職した今、彼の民間人としての活動そのものを国家が強制的に停止させる法的権限はない。だからこそ、旧組織の保全窓口は、識別につながる旧班固有の数秒を指定してきた。
何でもかんでも「国家機密だから消せ」と圧力をかけてくるような三流の組織ではない。だからこそ、厄介だった。
「あの区間を黒塗り(非公開化)すればどうなる?」
「……動画に付与されている『真偽を担保する署名』の連続性が途切れます。映像自体が本物であるという第三者ログは手元に残せますが、あの最高画質の生データは、今後、あなたが昇格審査などで『専門技術の評価資料』としてギルドへ提出できなくなります」
澪は悔しそうに唇を噛んだ。
あの映像は、冬真の実力を公的に証明するための最高のカードだった。それが使えなくなるということは、今後の評価において極めて不利なコストを背負うことを意味する。
「無視すればどうなる?」
「相手はプラットフォーム側に包括削除の照会をかけるでしょう。法的根拠が示されなければプラットフォームも応じませんが、相手は明確な『秘匿手順』のラインを提示してきています。最悪の場合、チャンネルごと凍結されるリスクがあります」
「なら、非公開化の処理をしろ」
冬真は、一秒の躊躇もなく即答した。
「え……でも、榊さんの今後の評価が!」
「過去の記録にすがるつもりはない。必要な実績は、今からまた作ればいい」
冬真の言葉は、強がりでも何でもなかった。
今、この瞬間も迷宮の奥では未曾有の災害が起きようとしている。ここで法務対応に手間取ってチャンネルを凍結されれば、これから起きる事態に対して『正しい記録を残す』という彼らの最大の武器が失われる。
情報系統を守るためには、守秘義務という「過去からの負債」をさっさと支払ってしまうのが最も合理的だった。
「……わかりました」
澪は冬真の覚悟を受け取り、即座に手元の端末を叩き始めた。
該当箇所の高解像度アーカイブを自主的に非公開化し、真偽証明のログだけを切り離して保存する。これでプラットフォーム側への包括削除は防げる。だが同時に、冬真は『自身の最大の証明資料』を一つ失った。
データ処理が完了した直後。
安全待機エリアの入り口、ゲート側がにわかに騒がしくなった。
「道を開けろ! 上位クラン連合の先遣隊だ!」
怒号と共に、重武装の探索者たちが十数名、整然とした陣形で迷宮内へとなだれ込んできた。全員の胸に、国内トップクラスのクランのエンブレムが輝いている。
それを見た避難中の民間探索者たちが、安堵の声を漏らす。
「助かった……! A級パーティが三つも来てるぞ」
「これならすぐに鎮圧されるだろ」
周囲の空気が「これで大丈夫だ」という安堵に包まれる中。
冬真だけは、冷ややかな目で先遣隊の陣形と足取りを観察していた。
(……駄目だ。見ている場所が浅すぎる)
冬真の足元から伝わる魔素の脈動は、深層の一箇所だけでなく、中層の複数地点にまで共鳴するように広がっていた。
先遣隊は、最も反応の強い「点」に向かって真っ直ぐ進もうとしている。だが、それでは駄目なのだ。このままでは必ず別の地点で崩落が起き、前線と後衛が分断される。到着した戦力の配置では、現在の事態をカバーしきれない。
その事実を、冬真だけが観測していた。
「……澪。カメラを回せ。ただし、絶対に俺の指示した安全圏から出るな」
「榊さん……?」
「討伐権限がないなら、資格の範囲内でやれることをやるだけだ」
冬真は直剣の柄を握り直すと、安堵して座り込んでいる探索者たちに背を向け、封鎖線が張られた洞道の奥――前線寄りへと歩みを進めた。
その先で、先遣隊を指揮している上位クラン連合の男が、不審な動きをするD級探索者(冬真)に向かって鋭い声を上げるのが見えた。
「おい、そこのD級! 前線権限外だ、下がれ!」
厳しい声とともに立ち塞がったのは、上位クラン連合の安全統括――高瀬慎吾だった。




