第47話 想定が本番になる
『これより「第十七条項」を適用する!! 本審査のシミュレーションを全面中断し、特区内の全人員を、実災害対応の実地評価へと移行する!!』
上位クラン連合・安全統括である高瀬慎吾の怒号に近い宣言が、全館放送を通じて演習特区の空を引き裂いた。
直後、特区内に設置されていた演習用の安全装置や模擬魔物たちが一斉にシャットダウンし、代わりに無機質な赤色のエマージェンシー・サイレンが鳴り響く。
特区内の五箇所。
空間のひずみから溢れ出してきたのは、もはやデータ上のホログラムでもゴーレムでもない。隣接する高難度迷宮から地脈を食い破ってなだれ込んできた、血肉と殺意を持った本物の高ランク魔物の群れだった。
『――こちら迷宮安全庁、水城! 榊さん、聞こえますか!』
ノイズ混じりのインカムに、水城蓮司の緊迫した声が飛び込んでくる。
「ああ、聞こえている。外の状況はどうなっている」
『すでに本庁の権限で、特区外周の完全封鎖ラインの構築を開始しました! 並行して、特区周辺半径五キロの住民の基幹避難誘導を自治体隊が実行中です。……中から一匹たりとも魔物を逃がさない防衛壁は、我々行政が責任を持って完成させます!』
水城の報告には、一分の隙もなかった。
三年前のシステムエラー隠蔽という過去の膿を出し切った迷宮安全庁は、もはや無能な組織ではない。彼らは国家機関として果たすべき『マクロな防衛と避難』という役割を、驚異的な速度で完璧に遂行しつつあった。
「上出来だ。外の憂いはなくなった」
冬真は直剣の柄に手をかけ、視線を特区の内部――パニックに陥りかけている数百人の探索者と、非戦闘員の記録スタッフたちに向けた。
外周は正規部門が押さえた。だが、この広大な特区の内側で魔物の流出を防ぎ、取り残された人員を無事に脱出させるには、現場のミクロな環境変化をコンマ秒単位で読み解く指揮官が必要だ。
『榊』
今度は、管理センターの観測デッキにいる高瀬から通信が入った。
『これより、お前が保持する「災害対応登録者・第一種」の権限を正式に発動させる。……特区内部における民間探索者の統合、および防衛・避難の現場指揮全権を、榊冬真に委譲する。審査の採点は事後、独立した評価員が署名付きの指揮記録を検証する』
それは、緊急時のやむを得ない特例措置ではない。
冬真がD級から積み上げてきた公開実績と、第七管区での確かな成果。そして、今まさにこの場で証明してみせた『前兆読み』の圧倒的な再現性。
それらの事実を根拠とし、社会のルールに則って正当に発動された、第一種登録者としての権限だった。
「……了解した。指揮権を受領する」
冬真は短く返し、インカムの通信チャンネルを特区内の全探索者用周波数へと切り替えた。
「特区内の全探索者に告ぐ。これより、災害対応登録者・榊冬真が現場の指揮を執る」
冬真の低く、絶対的な静けさを伴った声が、パニックになりかけていた探索者たちの耳に届く。
「魔物は倒し切らなくていい。各班の現在地から最も近い非戦闘員を保護し、指定したルートで外周ゲートへ後退しろ。……悠馬!」
『はいっ!』
「お前たち独立チームは中央交差点へ向かえ。そこから合流してくる各部隊の受け入れと、殿の防衛線を構築しろ」
冬真は自ら前線に飛び込み、無双の剣技で魔物を全滅させるような真似はしなかった。
彼の武器は、環境のすべてを統合して数秒先の未来を読むこと。
そして今、彼の傍らには、その未来を正確なデータとして全画面に可視化し、共有してくれる検証者・雨宮澪がいる。
『第三班、前方三十メートル先のビル壁面に魔素の滞留。三秒後に崩落します!』
澪が、冬真の観測データを即座に翻訳し、インカムで各チームに伝達する。
『重装甲部隊は進行方向を右へ二十度修正。そのままシールドを展開して落下物を防いでください! 第二班は機動力を活かし、第三班の死角から回り込もうとするスパイダー群の足を止めなさい!』
「な、なんだこの指示の的確さは……!」
「言われた通りに動けば、魔物の攻撃が全部空振りするぞ!?」
S級審査のライバルとして参加していた他の受験生チームも、最初は戸惑っていたものの、冬真と澪の常軌を逸した情報支援の精度を前に、無意識のうちにその指揮下へと組み込まれていった。
防御に優れた者、機動力に長けた者、遠距離からの阻害が得意な者。
かつてはクランの垣根や個人の見栄でバラバラに動いていた探索者たちが、冬真という巨大なハブ(結節点)を通じて、一つの強固な『民間災害対応ネットワーク』として機能し始めている。
誰も死なせない。誰も見捨てない。
「榊さん、特区内の非戦闘員の七割が、すでに安全な外周ラインへの退避を完了しました。各班の陣形も崩れていません」
観測デッキから状況を統制している澪の声に、確かな手応えが滲む。
だが、冬真の視線は、まだ気を緩めることなく特区の西側――最も干渉が激しいゲート付近を睨み据えていた。
「……だが、一番厄介な震源地が残っている」
冬真の『前兆読み』が、西側ゲートから特区内へとなだれ込もうとする、桁違いの魔力暴走の兆候を捉えていた。
災害級の巨大な魔物の群れ。今、特区内で避難誘導にあたっている受験者たちの火力では、束になっても数分でひき潰されるほどの質量だ。
自分が直接行って、活動周期を停止させる(封じ込める)しかないか。冬真がそう判断し、西側へ駆け出そうとした、その時だった。
『――おいおい。俺の獲物を横取りしようってのか、榊』
特区の西側から、地響きのような爆発音が鳴り響き、インカムに獰猛な笑い声が飛び込んできた。
ギルドの緊急要請を受け、すでに特区内の最も危険なホットスポットへと配置についていたS級探索者、神代岳だ。
『こっちのバケモノどもの大群は、俺の班で完全に食い止める。お前は全体の避難指揮に集中してろ』
「……神代。相手は単体じゃない。災害級の群れだぞ」
『だからどうした。俺の火力を舐めてんのか?』
神代の背後で、彼のクランメンバーたちが次々と高火力の支援魔法を詠唱し、迎撃の陣形を敷き終える音が聞こえた。
『俺たちは、お前の「待て」の指示がなきゃ動けねえようなお守り部隊じゃねえんだよ。……俺がいない場所のことは、お前が全部見とけ。俺がいる場所のことは、俺に任せろ』
冬真は直剣の柄から手を離した。
「西側は神代に任せる。こちらは避難者を動かす」
澪がその判断を回線に記録した。




