第44話 初稼働は訓練では終わらない
第三管区が管理する演習用迷宮。
普段は新人探索者の講習に使われる安全な浅層エリアに、硬質なブーツの足音と、的確な指示の声が響き渡っていた。
「前衛、歩調が早い! 魔素の滞留値に変化なし、だが頭上の岩盤のひび割れに注意しろ!」
「了解! シールドの展開範囲を上方へ三十度修正します!」
隊列の先頭集団――六名の若手探索者たちが、互いの死角をカバーし合う強固なフォーメーションを維持しながら前進していく。
彼らは、榊冬真が立ち上げた『独立災害対応チーム』の初期候補生たちだ。サブリーダーに指名されたC級探索者の悠馬が、センサーの数値を読み上げながら後続のメンバーに細かな指示を出している。
榊冬真と雨宮澪の二人は、彼らから十メートルほど離れた後方を、足音を殺して歩いていた。
澪の肩には、小型の公式記録用カメラがマウントされている。この映像はエンターテインメント用の配信ではない。ギルドおよび大手災害補償保険会社へ提出するための、独立契約の要件を満たすための『組織としての指揮系統と代替要員の能力を証明する実地データ』だった。
「……良い連携ですね」
澪がタブレットのモニターを見つめながら、冬真に耳打ちした。
「悠馬くんの指示は的確です。榊さんが作成した『初心者向け安全手順』の基本を忠実に守りながら、迷宮内の地形に合わせて柔軟に陣形を変化させています。みんな、彼を信頼して動いている」
「ああ。だが、まだただの歩行訓練だ」
冬真の視線は、鋭く隊列全体を舐めるように観察していた。
「演習中は俺が指示を出さない。だが実際の危険があれば試験を止める。人命を証拠づくりに使う気はない」
冬真は安全装置の状態を確認し、訓練の記録欄に悠馬の判断を残した。
順調に演習が進み、折り返し地点に差し掛かった、その時だった。
「……ッ」
冬真の足がピタリと止まり、彼の『前兆読み』が、空間の微細な悲鳴を捉えた。
気流が乱れ、空気中の魔素が不自然な渦を巻いている。
「榊さん? センサーの数値が……急激に跳ね上がっています! 演習用迷宮の規定値をはるかに超えて――」
「止まれ!! 前衛、シールド最大展開!!」
澪の警告より早く、冬真の鋭い声が洞道に響き渡った。
候補生たちが弾かれたように足を止め、前衛の二人が反射的に魔力シールドを展開した瞬間。
彼らの数メートル前方の空間が、ガラスが割れるような音を立てて歪み、真っ黒な亀裂が走った。
ギャァァァァァァッ!!
空間のひずみから、B級相当の多脚型魔物『アシッドスパイダー』が一体這い出した。浅層で想定された訓練用の魔物ではない。酸の滴が岩床を焼いた。
「なんだ、こいつ!? なんでこんな浅層にB級が!」
「ひずみだ! 空間が割れてる!」
想定外の事態に、若手たちの陣形がわずかに揺らぐ。
冬真は即座に事態のメカニズムを理解した。これは単なる迷宮のイレギュラー湧きではない。地脈を通じて、隣接する別の高難度迷宮の高濃度魔素がこちらへと流れ込んでくる『干渉現象』の初期兆候だ。
迷宮の境界が曖昧になり始めている。放置すれば、より巨大な災害に発展しかねない嫌な予兆だった。
「演習中止。澪、管理者に通報。訓練生を退避させる」
冬真は一歩前へ出て、酸の射線を避難路から外した。自分が倒すのは容易だ。だが悠馬たちにはシールドと退路があり、退ける距離もある。
「悠馬、退避の判断はお前がしろ。支えきれなければ俺が入る」
冬真は剣を抜いたまま待つ。試験を続けるためではない。悠馬の班が自分たちの判断で退ける間だけ、後方を守るためだ。
その言葉に、最も早く反応したのは悠馬だった。
「動揺するな!!」
悠馬の声が、パニックに陥りかけた陣形を引き締める。
かつて悠馬は、冬真の動きの表面だけを真似し、自分の実力を見誤って魔物に単独で突撃し、大怪我を負った。退路の確認も、荷重変化の予測もせず、ただ見栄えだけを追い求めた結果だった。
その痛烈な失敗と、冬真から直接叩き込まれた安全手順が、今の彼の血肉となっていた。
「前衛、絶対にシールドを下ろすな! 攻撃は後回しだ、まずは退路を確保する! 後衛、後方の岩盤の強度を確認しろ!」
「後方、異常なし! 退路確保できます!」
「よし、陣形を維持したまま、じりじりと後退! 酸の射程距離から外れるぞ!」
悠馬は魔物を倒すことではなく、『絶対に死なないこと』を最優先に選択した。
アシッドスパイダーが酸を吐き出しながら突進してくるが、候補生たちは冬真のマニュアル通りに足並みを揃え、シールドで酸を弾きながら後退していく。
「ただ下がるだけじゃない! 魔物の関節の動きを見ろ、飛びかかってくる『前兆』があるはずだ!」
悠馬が叫ぶ。それは、冬真の『前兆読み』を、凡人でも再現可能なレベルにまで落とし込んだ技術の応用だった。
魔物が跳躍のために足を縮め、重心が沈み込んだ瞬間。
「今だ! 拘束魔法、撃て!!」
後衛の魔力網が前肢を絡め取り、氷結魔法が着地点を塞いだ。蜘蛛は網を引きちぎりかけたが、その数秒で最後の訓練生が隔壁の外へ抜けた。
「退路、確保完了! 拘束を維持して管理隊へ引き継ぐ。無理に倒しに行くな!」
六人は隔壁を挟んでB級個体を拘束し、駆けつけた管理隊に位置と残りの魔力を伝えた。訓練生に負傷者はない。管理隊が封鎖を引き継いだところで、冬真は剣を鞘に戻した。
「……」
冬真は管理隊への引き継ぎが終わるまで、その場を離れなかった。悠馬が報告書の「判断者」の欄に自分の名を書く。
「……やりましたね、榊さん」
カメラを回し続けていた澪が、安堵の笑みを浮かべて冬真を見上げた。
「演習は中止になりました。でも実際に退避を決め、管理隊に引き継いだ判断は、悠馬くんたち自身のものです。この記録なら、代替要員と指揮系統の審査資料になります」
冬真は提出欄に演習結果と実事案の記録を分けて保存した。契約の可否は、この映像を見た保険会社が判断する。
「ああ。上出来だ」
冬真は短く答え、息を弾ませて振り返る悠馬たちに向かって、小さく、だがはっきりと頷いてみせた。
「これを契約審査に出す。……残るのは」
冬真は、直剣の柄を静かに撫でた。
「俺自身の、S級ライセンスだけだ」
保険会社への提出欄には、六人の判断と、冬真が退避を命じた時刻が別々に記録されていた。
冬真は自分の名前の欄より、悠馬の記録を先に読んだ。




