第42話 独立は自由ではない
「――結論から申し上げますと、榊氏の提示された『独立災害対応契約』の締結は、現状の体制では不可能です」
探索者ギルド本部の応接室。
分厚い契約書の束を前に、大手災害補償保険会社の審査担当者は、事務的な、だが決して覆ることのない冷徹な声で告げた。隣に座る迷宮安全庁の行政法務担当者も、同意するように無言で頷いている。
迷宮安全庁から提示された『特別災害対応監』としての正式復帰案。
冬真は数日の熟考の末、その特権的な公務員ポストへの就任を固辞した。代わりに彼が提示したのが、民間探索者の身分のまま、行政やギルドと対等な立場で緊急時の出動要請を受ける『独立災害対応契約』だった。
これならば、国家の所有物になることなく、自身の裁量と公開実績に基づいて命を救う仕事ができる。
だが、現実はそう甘くはなかった。
「榊氏がA級ライセンスおよび『災害対応登録者・第一種』の資格を保持していることは存じ上げております。第七管区でのご活躍も、高く評価されている」
保険会社の担当者が、手元のタブレットを操作しながら続ける。
「しかし、災害級事案の一次対応を請け負う独立契約主体となるためには、クリアしなければならない絶対条件が三つあります」
一つ、万が一の事態における数十億規模の『損害賠償能力』。
二つ、契約者本人が負傷等で活動不能になった場合の『代替要員の確保』。
三つ、広域の複数地点を同時に制御・連携させるための『指揮系統の担保』。
「現在の榊氏は、極めて優秀な『個人事業主』に過ぎません。どれほど個人の戦闘力や予測能力が突出していようと、たった一人でこれらのリスクを担保することは不可能です。社会制度として、一個人に広域災害のすべてを委ねる契約は結べないのです」
「……」
「迷宮安全庁の傘下(特別災害対応監)に入っていただければ、これらの賠償責任や人員配置はすべて国家が負担します。それが最も安全で、合理的な道かと存じますが」
担当者の言葉には、一理の隙もなかった。
個人の暴力がどれほど突き抜けていようと、社会のルールと保険の壁を力で殴り壊すことはできない。
「独立」とは、ただ一人で自由に動くことではない。社会的な信用と責任のネットワークを、自らの手で構築することなのだ。
「……要件は理解した。時間を取らせて悪かったな」
冬真は短く言い残し、テーブルの上の資料を引き取って応接室を後にした。
*
「……やはり、個人のままでは駄目でしたね」
ギルドのロビーを歩きながら、同行していた雨宮澪が小さく息を吐いた。
「第七管区の時みたいに、現場で緊急的に『暫定登録』で介入するのとはわけが違います。恒常的に災害案件を請け負うなら、国に頼らないだけの『組織としての信用』が必要になる」
「わかっていたことだ」
冬真は、足取りを緩めることなく前を向いた。
自分が行けば早い。自分が背負えば済む。
その自己完結の生き方は、三年前の絶望から彼を生き延びさせるための鎧だった。だが、その重い鎧を着たままでは、もはやこれ以上先へは進めない。
真の自由を手に入れるためには、自分一人ではなく、他者を巻き込んだ『チーム』を作らなければならない。
(俺に、他人の命を預かる組織の設計などできるのか)
内心で自問した、その時だった。
「榊さん! お待ちしていました!」
ロビーの待合スペースから、一人の若者が勢いよく立ち上がり、冬真の前に進み出てきた。
少し幼さの残る顔つきに、使い込まれたC級探索者の装備。
悠馬だった。かつて冬真の切り抜き動画を見て見よう見まねで突撃し、大怪我を負った若手探索者。その後、冬真たちが公開した『安全手順』を誰よりも真摯に学び、先日の自治体公開訓練では後輩たちを見事に誘導していた青年だ。
「悠馬か。何か用か」
「はい。榊さんが、ギルドで独立した動きを取ろうとしているという噂を聞きました。国に戻るんじゃなく、民間として災害対応の仕事を受けるつもりなんですよね?」
悠馬は真っ直ぐに冬真を見つめ、深く頭を下げた。
「俺を、榊さんのチームに入れてください」
「……何?」
唐突な志願に、冬真の眉が微かにひそめられた。
「俺はC級になったばかりで、まだ火力も経験も足りません。でも、榊さんが作った安全手順は誰よりも頭に叩き込んでいます。指示があれば、その通りに動く自信はあります。だから――」
「断る」
冬真は、悠馬の言葉を冷たく遮った。
「俺がこれから首を突っ込もうとしているのは、お前たちが普段潜っている安全な狩場じゃない。少しでも判断を間違えれば即座に命を落とす、災害指定個体が跋扈する最前線だ」
「わかっています! だからこそ……」
「命を粗末にするな」
冬真の声に、無意識の苛立ちが混じった。
「以前、俺の真似をして怪我をしたことや、安全手順を教えてもらったことに『借り』を感じているのなら、そんなもののために命を懸ける必要はない。俺はお前たちに恩を着せるためにマニュアルを作ったわけじゃないんだ」
それは、冬真が長年抱え込んできた『弱点』の最たるものだった。
彼は他人に何かを与えることはできても、他人からの『善意』や『恩返し』を受け取ることが極端に苦手なのだ。自分が原因で誰かが傷つくことを恐れるあまり、無意識に相手を遠ざけ、一人で背負い込もうとしてしまう。
だが、悠馬は突き放されても一歩も下がらなかった。
「……借りを返すためじゃありません」
悠馬は顔を上げ、かつて無謀な突撃をした時とは全く違う、プロフェッショナルとしての静かな熱を帯びた瞳で冬真を睨み返した。
「俺は、俺自身の仕事として志願しているんです。榊さんの下でなら、ただ魔物を倒すだけじゃない、『安全に人を救う技術』を実践できる。俺はそれを、自分の仕事にしたいんです」
「……」
「恩返しや善意なんかじゃありません。これは、探索者としての俺のキャリアのための、正当な応募です。……それでも、俺じゃ足手まといですか」
その言葉に、冬真は目を見開いた。
悠馬の目は、ただ英雄に憧れる少年のものではない。リスクを理解した上で、自らの役割と責任を果たそうとする職業人のそれだった。
『――たまには、私や周囲の人間から「助けられる側」に回ることを、素直に受け入れてください』
数日前、病室で澪に言われた言葉が、冬真の脳裏に鮮明に蘇る。
他人の善意や志願を「借り」や「重荷」として突っぱねることは、相手の意思と覚悟を尊重しない傲慢な態度だ。
「榊さん」
隣で様子を見ていた澪が、そっと冬真の背中を押すように呟いた。
「彼の実力は、先日の公開訓練の記録データで証明されています。……指示を待つだけでなく、現場の状況に合わせて安全手順を応用できる、立派な戦力ですよ」
冬真は小さく息を吐き、改めて悠馬の顔を見た。
代替要員。指揮系統の担保。
保険会社から突きつけられた壁を越えるためには、まさに彼のような『手順を共有し、役割を任せられる人間』が必要不可欠なのだ。
「……俺のチームに入れば、安全規定には俺以上に厳しくなるぞ」
冬真が低い声で告げると、悠馬の顔にパッと希望の光が差した。
「命の保証はない。だが、俺が教えた手順を完璧に遂行し、絶対に死なないという『責任』を持てるなら。……最初の候補者として、参加を認める」
「っ、はい! ありがとうございます!」
悠馬がちぎれるほどに頭を下げる。
冬真は悠馬の応募書類を、候補者の束の一番上に置いた。
*
「……引き受けてよかったんですか?」
ギルドを後にしながら、澪が少しだけ意地悪そうに笑って聞いてきた。
「お前が背中を押したんだろうが」
冬真は短く返し、手元の端末で新しいドキュメントファイルを作成し始めた。
「だが、これで『代替要員』と『指揮系統』の条件を埋めるための、具体的な第一歩は踏み出せた。……悠馬一人では足りない。他にも候補者を集め、保険会社を納得させるだけの実地データを作る必要がある」
「大変ですね。榊さんが一番苦手な仕事の始まりです」
「ああ。本当に、一番厄介な作業だ」
冬真は申請書にある「代替責任者」の空欄を指で押さえた。
「俺がいない時、誰に任せるかを決める」
「はい。そこから始めましょう」
澪が新しい用紙を一枚出した。




