第41話 名誉回復の値段
『――三年前の湾岸災害において、自らの立場を犠牲にして十二人の命を救った榊冬真氏。彼はその後、一切の弁明を行うことなく組織を去り、民間探索者としてゼロから実績を積み上げてきました。彼こそが真の英雄と言えるのではないでしょうか!』
『ネット上では現在、不当な処分を下した迷宮安全庁への非難が殺到しており、榊氏の完全な復職を求める署名活動も……』
榊冬真のアパートのリビング。
壁掛けの薄型テレビから流れる熱を帯びた報道音声を、冬真は手元の直剣の刃を油布で拭いながら、ひどく冷めた目で見つめていた。
迷宮安全庁による再調査結果の公表と、久世章吾の懲戒免職、および御厨誠一の辞任。
あの日を境に、世間の風向きは百八十度変わった。
配信を始めた当初、冬真の『前兆読み』による極限の回避と制圧を「加工映像だ」「CGを使った詐欺師だ」と嘲笑っていた世論は、今や完全に掌を返し、彼を「国家に裏切られた悲劇の最強探索者」として過剰なまでに持ち上げている。
SNSを開けば、彼の過去を美化し、行政の闇を暴いた英雄として消費しようとする言葉で溢れ返っていた。
「……名誉回復の値段は、随分とやかましいな」
冬真は忌々しげに呟き、テレビの電源を切った。
「掌返しは世の常ですよ。大衆は常に、分かりやすい『悪』と『悲劇の英雄』の構図を好みますから」
ダイニングテーブルにノートパソコンを広げていた雨宮澪が、コーヒーの入ったマグカップを手に苦笑する。
彼女の目元には少し疲労の色が滲んでいた。世間が陰謀論や過剰な英雄化に沸き立つ中、澪は検証配信者としての矜持を貫いていた。冬真を盲目的に礼賛するような動画は一切出さず、行政が公開した再調査報告書の一次資料と、第七管区での実事案の訂正履歴だけを、淡々と事実として整理・公開し続けている。
熱狂に水を差すその無機質な姿勢に文句を言う野次馬もいたが、澪は決して情報倫理のラインを譲らなかった。
「澪。お前が事実だけを出し続けてくれているおかげで、これでもまだ騒ぎは抑えられている方だ。感謝する」
「どういたしまして。……でも榊さん、世間の騒ぎは無視できても、直接来る『手紙』は無視できませんよ」
澪はパソコンの横に置いてあった、一通の分厚い封筒を指差した。
差出人は、迷宮安全庁・長官官房。
それは、久世と御厨という旧体制の膿を出し切った行政からの、公式な面会要請だった。
*
同日の午後。探索者ギルド本部の特別応接室。
冬真と澪の向かいに座ったのは、迷宮安全庁の長官直属である若手の改革派官僚だった。彼の眼差しには、かつての御厨のような疲弊も、久世のような淀んだ保身の色もない。
「榊冬真氏。まずは、三年前の不当な処分と、それによって貴方の名誉を著しく傷つけたことに対し、迷宮安全庁を代表して深く謝罪いたします」
官僚は立ち上がり、深く頭を下げた。
冬真は無表情のまま、「用件を聞こう」とだけ返した。
「はい。単刀直入に申し上げます。当庁は、刷新された新体制のもと、貴方を『特別災害対応監』という新設の特任ポストにて、正式に復帰していただきたいと考えています」
「……復帰、ですか」
澪が、横で少しだけ身構えるように呟いた。
以前、御厨が非公式に打診してきた「顧問契約」と同じ類のものかと思ったのだ。だが、官僚がテーブルの上に提示した契約書の内容は、あの時の誤魔化しとは次元が違った。
「提示する条件は三つです」
官僚は、契約書の重要項目を指差しながら、明瞭な声で説明を始めた。
「一つ。貴方には、広域災害時における特殊部隊の現場指揮権と、独自の部隊編成権を完全に委譲します。二つ。階級および待遇は、国家公務員の指定職(局長級)に準ずるものとして生涯保障します。そして三つ目。……これが、貴方が最も気にされている点でしょう」
官僚の指先が、契約書の最も分厚いページ――『現場裁量権と公的記録の担保』という項目で止まった。
「今後、指令所のシステム情報と現場の生体反応に矛盾が生じた場合、現場指揮官たる貴方の判断を最優先とし、事後においてその判断の合理性を『公的記録として必ず検証・保存する』ことを法的に明文化しました。二度と、書類の都合で現場の真実が握り潰されることはありません」
冬真は、提示された書類の文面を静かに見つめた。
それは、かつて自分が喉から手が出るほど欲しかった『完璧な条件』だった。
理不尽な命令違反に問われることもなく、確かな権限と部隊を与えられ、自分の技術を最大限に活かして命を救うことができる。組織はただ言葉で謝罪しただけでなく、システムエラーの事実を認め、現場のプロが正当に仕事をするための制度を本気で作り直してきたのだ。
「……随分と、思い切ったな」
「血を流してでも変わらなければ、我々は社会からの信用を完全に失いますから。貴方のような真のプロフェッショナルが、安全に、そして誇りを持って働ける環境を用意しました」
官僚の目には、一点の曇りもなかった。
この誘いに乗るのが、最も安全で、最も合理的だ。冬真の能力を最大限に発揮し、これ以上不確かな民間という立場で綱渡りをする必要もなくなる。
三年前の冬真なら、あるいは数週間前の彼でさえ、国家への不信感から感情的にこの提案を突っぱねていたかもしれない。
だが、冬真は契約書を静かにテーブルの中央へ押し戻し、官僚の目を真っ直ぐに見た。
「……条件の合理性と、そちらの誠意は理解した。だが、即答はできない。少し、考えさせてほしい」
「承知いたしました。貴方には選ぶ権利があります。……良いお返事をお待ちしております」
官僚は冬真の保留の判断を静かに受け入れ、一礼して応接室を後にした。
*
応接室に二人きりになると、澪が小さく息を吐いた。
「驚きました。あの榊さんが、行政からの誘いを即座に断らないなんて」
「俺は意地を張るために探索者になったわけじゃない。提示された条件は、俺の能力を災害対応に活かす上で、極めて合理的だった。……否定する理由がない」
「じゃあ、戻るんですか? 国家の『特別災害対応監』として」
澪の問いに、冬真は視線を伏せ、自分の手のひらを見つめた。
幾度となく直剣を振り抜き、泥と血に塗れながら民間人として積み上げてきた公開実績。
A級ライセンス。第一種登録。
何より、誰の許可を得るでもなく、澪と共に作り上げてきた『後から誰でも検証できる記録を残す』という、自分たちで選んだ配信という仕事の形。
国家の所有物という安全な枠組みに戻ることは、これらをすべて手放すことと同義だ。
「……澪。一つ確認してくれ」
冬真は顔を上げ、かつてないほど真剣な声で尋ねた。
「俺たちが国家の傘に入らず、独立した民間チームとして、国や自治体と『対等な災害対応の契約』を結ぶことは可能か」
「独立した契約、ですか……」
澪は即座にタブレットを起動し、ギルドの法務データベースと、提携している大規模な災害補償保険の約款を照合し始めた。
冬真は、ただの「傭兵」になりたいわけではない。災害指定個体が絡むような広域事案に介入し、責任を持って盤面を統制するための、合法的な独立主体になりたいのだ。
数分後。澪の指が止まり、彼女は重苦しい表情で顔を上げた。
「……結論から言います。不可能です」
「理由を説明しろ」
「A級ライセンスと第一種登録があることで、緊急時の現場介入は可能です。ですが、行政と対等の立場で『事前契約』を結ぶには、法人が満たすべき絶対条件が三つ足りません」
澪は画面に表示された冷酷な条文を指差した。
「一つ目は、災害級案件で発生し得る莫大な被害に対する『損害賠償責任能力(保険の保証枠)』。二つ目は、榊さんが倒れた場合や別地点での事案に対処するための『代替要員の確保』。そして三つ目は、それらを連携させる『指揮系統の担保』です。……いくら榊さん個人の実績が凄まじくても、たった一人の個人事業主では、この規模の契約主体にはなれません」
それが、国家という後ろ盾を持たないことの、現実的な代償だった。
個人の暴力がどれほど突き抜けていようと、社会のルールと保険の壁を越えることはできない。
安全で完璧な環境が用意された『国家の所有物』へ戻るか。
それとも、この途方もない制度の壁を越え、自らの力で『独立した契約主体』となるか。
「賠償能力、代替要員、指揮系統……か」
冬真は深く息を吸い込み、窓の外に広がる灰色のビル群を見据えた。
茨の道であることは明白だった。だが、彼の目には決して諦めの色はなく、ただ次の盤面を攻略するための冷徹な光だけが宿っていた。




