第39話 システムは壊れていなかった
迷宮安全庁、監査局の奥深くにある企画官室。
久世章吾は、胃の腑を焼き焦がすような痛みに耐えかね、引き出しから取り出した胃薬を水も飲まずに噛み砕いて飲み込んだ。
第七管区における大規模崩落の危機から、すでに数日が経過している。
ネットとメディアは連日、このニュースで持ちきりだった。A級探索者・榊冬真が『前兆読み』という異常な技術で三地点同時の崩落を単独で遅延させ、S級の神代岳や自治体隊と連携して完全な被害局限を成し遂げたという英雄譚。
だが、久世にとって胃を痛める原因は、榊冬真の活躍そのものではない。
彼らによって公式に確定されてしまった『十五分の大規模なシステム遅延』という事実だ。
「……忌々しい。どいつもこいつも、終わった過去をほじくり返しおって」
久世はデスクの上に散乱した書類を睨みつけた。
彼は今、この第七管区でのシステム遅延を「現地の魔素干渉による突発的な一時エラー」として矮小化し、三年前の『湾岸第九迷宮災害』とは無関係の独立した事象として処理するための報告書をでっち上げようとしていた。
そうしなければ、過去の調査記録の正当性が崩れてしまうからだ。
コンコン、とノックの音が鳴り、部下が青ざめた顔で入室してきた。
「き、企画官……。先ほど、緊急対応部門を主導とする『再調査委員会』から、システムの解析レポートが回ってきました。水城主任のチームが、本庁の演算リソースを使って深層解析を終えたとのことです」
「置いていけ」
久世は部下を下がらせ、忌々しげにその分厚いファイルを開いた。
どうせ、現場の状況を針小棒大に書き立てた、言い訳がましいレポートだろう。そう高を括っていた。
だが、数ページをめくったところで、久世の目はある一文に釘付けになり、全身から一気に冷や汗が噴き出した。
『――結論として、第七管区および三年前に発生した位置情報統合システムの遅延は、「故障」や「突発的エラー」ではない。本システムは、広域の崩壊監視演算を優先する通信設計がなされており、処理能力が限界に達した場合、局地的な探索者の位置情報更新を意図的に後回しにする。これは不具合ではなく、システムが【設計通りの優先順位】に従って動作した結果である』
「な、なんだこれは……」
システムは、壊れていなかった。
バグでもエラーでもなく、広域の安全を監視する計算を優先させるため、目の前の民間人の位置情報更新を切り捨てるという、冷酷だが合理的な『仕様』だったのだ。三年前も、今回も。
それはつまり、三年前にシステムを過信し、「退避済み」という画面の表示だけを見て封鎖命令を出した当時の上層部の判断そのものが、根本から覆されることを意味していた。
同時に、久世の脳裏に三年前の記憶が鮮烈にフラッシュバックした。
三年前の事故直後。久世は懲戒面談の場で、対面に座る榊冬真に対してこう告げたのだ。
『榊くん。君が現場の生体反応を信じたことは理解する。だが、これ以上監査結果と処分に争う気なら、君の命令違反だけでなく、救助の詳細や手順までもが機密指定され、今後一切公表不能になるぞ。……救われた十二人の私生活に、我々の手が及んでもいいのか?』と。
冬真は、その言葉を重く受け止めた。自分がこれ以上抗えば、十二人の平穏が脅かされ、彼らがいつまでも過去の事件に縛られることになる。だから彼は沈黙し、すべての泥をかぶって組織を去った。
彼はずっと、それが「法規上の必然」だと思っていたはずだ。
だが、真実は違う。救助の詳細が機密指定されるなどという規定は、当時のどこにも存在しなかった。あれは単に、自分が主導したシステム導入監査の不備を隠したかった久世個人が、冬真を黙らせるために放った『裁量による脅し(ハッタリ)』に過ぎなかったのだ。
「……私は、間違っていない」
久世は震える手でレポートを閉じ、独り言のように呟いた。
「システムの仕様と、現場の越権行為は別問題だ。私は議論が複雑化するのを避けるために、別件として資料を整理しただけだ。組織の秩序を守るための、正しい判断だった……!」
ガチャリ。
ノックもなく、企画官室のドアが開かれた。
「――その言い訳が通用するかどうか、監査委員会で詳しく聞かせてもらいましょうか。久世企画官」
現れたのは、監査局の局長。
そしてその背後には、分厚いバインダーを抱えた緊急対応部門の水城蓮司が、氷のような無表情で立っていた。
「き、局長……? 一体何の真似ですか。私は今、第七管区の事案の事後処理で――」
「芝居は終わりです、久世さん」
局長を遮るように、水城が一歩前に出た。
水城はタブレットを操作し、空中に二つのホログラム文書を展開した。
「三年前。システム開発元から『高負荷時の位置遅延リスク(信頼度低下)』に関する警告文書が提出されていました。本庁のサーバーには、あなたの個人IDによる明確な『受領ログ』が残っています」
「そ、それがどうした! 毎日膨大な資料に目を通しているんだ、見落とすことだってあるだろう。それはただの不作為だ!」
見落とした、と言い張れば、重過失には問われても意図的な隠蔽にはならない。久世は必死に保身のロジックにしがみついた。
だが、水城の目は哀れみすら浮かべていなかった。
「見落とし、ではありませんよ」
水城がもう一つの文書を指し示す。
それは、三年前に久世自身が起案し、決裁印を押した榊冬真の『懲戒付議資料』だった。
水城の指が、その資料の備考欄の極小の文字を拡大する。
「あなたはこの懲戒付議資料の備考欄に、自筆の電子署名でこう記している。――『なお、システム遅延に関する当該警告の受領は確認されない』と」
久世の喉から、ヒュッと息を吸い込む音が漏れた。
「……あ」
「受領ログという絶対的なデジタル記録が残っているにもかかわらず、あなたは公的な懲戒資料において、能動的に『確認されない』と虚偽を記載した。これは単なる資料の綴じ間違いでも、見落としでもありません。故意の虚偽記載が疑われる重大な手続違反です」
久世が言い返す前に、局長が文書の保全を命じた。受領ログと付議資料は、正式な聴取に回される。
「ちが……違う……! 私はただ、組織のために……!」
完璧だったはずの自己正当化の城が、ガラガラと音を立てて崩れ去っていく。
膝の力が抜け、久世はデスクに手をついて崩れ落ちた。
言い訳も、脅しも、もはや誰の耳にも届かない。
局長は資料を閉じた。「説明は聴取の席でお願いします」。久世は返事をしなかった。




