第38話 助けられる側
深い、泥の底に沈み込むような眠りだった。
ゆっくりと浮上する意識の中で、最初に感じたのは、全身の神経が細かい針で刺されているような鈍い痛みと、鉛のように重い肉体の倦怠感だった。
榊冬真が重い瞼を押し上げると、視界には見慣れない無機質な白い天井が広がっていた。
消毒液の微かな匂い。腕に繋がれた数本の点滴のチューブ。
そこが、ギルドが上級探索者向けに提携している総合病院の特別病室であることは、すぐに理解できた。
「……」
冬真は上半身を起こそうとして、あまりの体の重さに顔をしかめ、再び枕に頭を沈めた。
無理もない。第七管区迷宮の最深部で、災害指定個体に準ずる複合魔物の活動周期を、ただ一人で『前兆読み』によって数分間も強制停止させたのだ。
迷宮の岩盤全体とリンクした巨大な質量を魔力で押さえ込むという行為は、冬真の肉体という器に、致死量スレスレの魔素負荷を強いていた。血管はボロボロになり、魔力回路は焼き切れかけている。医者が診れば、よく生きていたと呆れるレベルのダメージだった。
(……三日、か)
壁に掛けられた時計とカレンダーの日付を見て、冬真は自分がどれだけ意識を手放していたかを正確に把握した。
そして、冷徹な理性が一つの絶対的な結論を導き出した。
(もしあの時、三年前のように『自分が行けば早い』と、すべてを一人で抱え込んでいたら。……俺は間違いなく限界を超えて死に、民間人も救助隊も全員岩の下敷きになっていた)
冬真の能力は、微細な兆候を読み取り、被害を局限することに特化している。だが、広域の事象をすべて一人で長時間押さえ込み、最終的な殲滅まで行うだけの魔力量(出力上限)は持っていない。
かつて彼を縛り付けていた「一人で背負う」という強迫観念。
それを捨て、仲間を頼ったからこそ、彼は今こうして生きて天井を眺めていられるのだ。
枕元に置かれていた冬真の携帯端末が、短い振動音を立てた。
画面を見ると、迷宮安全庁の水城蓮司からの暗号化されたメッセージだった。
『榊さん。意識が戻ったと病院から連絡を受けました。まずはゆっくり休んでください。……ご報告します。チャーリー地点に取り残されていた民間人は、全員無傷で退避を完了しました。自治体隊による外周シールドも機能し、市街地への魔物と魔素の流出による二次被害はゼロです。作戦は、我々の完全な勝利です』
その文面の端々から、水城の安堵と、職務を全うしたことに対する静かな誇りが伝わってくる。
さらに、ギルドのメッセージボックスには、神代岳からも乱暴なテキストが叩き込まれていた。
『よぉ、やっと起きたか。あの後、最深部の瓦礫の処理と、残党の魔物の掃討は俺の班で全部終わらせといた。A級の仕事としちゃ上出来だ。あとはこっちで処理しとくから、てめえは大人しく寝てろ』
冬真は、二つのメッセージを交互に眺め、やがて小さく、本当に小さく、息を吐くように笑った。
彼らは完璧に盤面を支え、冬真が作った隙を最高の結果に結びつけてみせた。
他人に命が関わる仕事を任せることを、あれほどまでに恐れ、避けてきた自分が。今、他人の手によって完成された結果を受け取り、心からの安堵を覚えている。
「……悪くないな。こういうのも」
誰に言うでもなく呟いた、その時だった。
コンコン、と控えめなノックの音がして、病室のドアが開いた。
姿を現したのは、雨宮澪だった。彼女の手には、分厚いファイルケースと、立派な見舞い用の果物籠が握られている。
「……あ、榊さん。起きてる」
「ああ。今しがたな」
澪はホッとしたように肩の力を抜き、ベッドサイドの丸椅子に腰を下ろした。
彼女の目の下には、うっすらと隈ができている。冬真が倒れてからの三日間、彼女がどれほど奔走していたかは、その手にある分厚いファイルを見れば明らかだった。
「体調はどうですか? お医者様は、魔素の過負荷で一週間は絶対安静だと言っていましたが」
「体が鉛のように重いが、生きてはいる。……色々と、事後処理を押し付けたようだな」
「ええ、もう大変でしたよ」
澪はわざと大げさにため息をついてみせた。
「あなたがぶっ倒れた後の、公式遅延中継のアーカイブデータのギルドへの提出。自治体の救助隊との記録のすり合わせ。それから、高瀬統括への『災害対応登録者』としての事後報告書の作成。あなたがサインするだけの状態まで、すべて私がやっておきました。感謝してくださいね」
「……すまない。面倒をかけた」
冬真は、素直に頭を下げた。
彼には、他人の善意や労力を受け取るのが極端に下手だという自覚がある。特に、自分が原因で他人に負担をかけることを、ひどく嫌悪してしまうのだ。
だからこそ、無意識に出た「すまない」という謝罪だったが、澪はそれ聞いて、少しだけ眉を吊り上げた。
「……榊さん。そういうところですよ」
「ん?」
「『面倒をかけた』じゃありません。私はあなたのパートナーとして、当然の仕事をしただけです。それなのに、どうしてあなたはいつも、自分が悪いことをしたような顔で謝るんですか」
澪は果物籠をサイドテーブルに置き、冬真の目を真っ直ぐに見据えた。
「あなたは強すぎるから、いつも自分一人で背負って、他人を守ってばかりいる。三年前の救助者の皆さんの時もそうでした。でも、この世界はあなた一人で回っているわけじゃないんです」
「……」
「今回、あなたは神代さんや水城さんを頼り、見事に全員を救ってみせた。それと同じです。私だって、ただ守られるだけの足手まといじゃありません。あなたの記録を残し、事務的な壁からあなたを守るのが私の仕事です」
澪は、少し怒ったような、でもどこか泣き出しそうな声で言った。
「たまには、私や周囲の人間から『助けられる側』に回ることを、素直に受け入れてください。迷惑だなんて、誰も思っていませんから」
それは、冬真の心の最も奥底にこびりついていた『孤独な自己完結』の殻を、優しく、だが力強く打ち砕く言葉だった。
冬真はしばらく澪の真っ直ぐな瞳を見つめ返し、やがて、憑き物が落ちたような静かな顔つきになった。
「……そうだな。俺が間違っていた」
「わかればいいんです」
「ああ。……ありがとう、澪。お前たちに、頼るよ」
冬真が初めて口にした、心からの感謝と依存の言葉。
それは甘い恋愛の告白などではない。極限の現場で互いの背中を預け合い、命を繋ぎ止めた者同士が交わす、絶対的な『対等なバディ』としての関係性が確定した瞬間だった。
澪は少しだけ頬を染め、「……どういたしまして」とそっぽを向いた。
*
数時間後。
澪が帰り、再び静寂に包まれた病室で、冬真は窓の外に広がる青空を見上げていた。
(一人で、背負わなくてもいい、か)
こんなに穏やかな気持ちで空を見たのは、三年前に特別迷宮災害対処室を追われて以来、初めてのことだった。
自分の能力は誰かに必要とされ、そして自分もまた、誰かを頼ることができる。その事実が、冬真の肉体の痛みを少しだけ和らげてくれた。
だが。
冬真がこの穏やかな病室で休息を取っている間にも、外の世界では、彼が残した『記録』が凄まじい嵐を巻き起こしていた。
第七管区の迷宮において、冬真が『前兆読み』で三箇所の崩落を完全に予測し、遅延させたという異常な公式記録。
そして何より、水城蓮司が行政の権限で確定させた『迷宮の位置情報更新が、三年前と同じく十五分遅れていた』という動かしようのない事実。
南雲奈緒の証言によって火がついていた世論の関心は、この第七管区での実例(証拠)が投下されたことで、完全な沸点に達していた。
『三年前も、システムが壊れていたんじゃないのか?』
『当時、あの現場で一人で命令違反に問われた榊冬真は、エラーを起こしたシステムではなく、自分の目で真実を見ていたからこそ、民間人を救えたんじゃないのか?』
冬真は画面を伏せた。病室の外では澪が面会時間を延ばせるか看護師に尋ねている。
庁からの再調査通知は、まだ届いていなかった。




