第37話 一人では止められない
最深部『アルファ地点』の空間は、もはや正常な物理法則から切り離されたような異様な圧迫感に満ちていた。
紫色の高濃度魔素が渦を巻き、視界を毒々しく染め上げている。
その中央に鎮座する異形の複合魔物は、岩と肉と水晶が混ざり合ったような悍ましい姿をしており、その体内には不気味に明滅する『三つの核』が確認できた。
「……ガハッ!」
榊冬真は、肺の奥からせり上がってくる血の味を無理やり飲み込み、直剣の柄を握り直した。
この魔物は、単純な力押しで倒せる相手ではない。
体内の三つの核が放つ魔力パルスは、第七管区迷宮の岩盤構造と完全に『同期』していた。中途半端な魔法で核を一つでも破壊すれば、その反動で魔力バランスが崩壊し、第3ブロック全体を巻き込む致死的な連鎖崩落を引き起こす。
倒す前に、迷宮そのものが崩れて生き埋めになる。それが、災害指定個体に準ずるこの魔物の厄介すぎる特性だった。
(同期の周期……三秒に一回。ズレはコンマ一秒以内……!)
冬真の眼球には血走ったひびが入り、視界は真っ赤に染まっていた。
彼が行っているのは、攻撃ではない。
魔物が岩盤と同期するコンマ数秒の隙間――『窓』を前兆読みで完全に予測し、その瞬間に自身の魔力を逆位相で叩き込むことで、魔物の活動周期を強制的に『停止(封じ込め)』させているのだ。
だが、岩盤全体と繋がった巨大な質量を個人の魔力で押さえ込むという行為は、冬真の肉体に凄まじい魔素負荷を強いていた。血管が焼き切れ、神経が悲鳴を上げている。
これ以上の長時間維持は不可能。
そして、冬真の魔力量と装備では、同期を止めた瞬間に三つの核を同時に消し飛ばすだけの『最終破壊の火力』は出せない。
三年前に冬真が直面し、単独での討伐を諦めざるを得なかった『能力の絶対的な上限』が、今、再び彼を死の淵へと追い詰めていた。
(……だが、今は三年前じゃない)
膝が折れそうになるのを気力だけで堪え、冬真が視線を上げた、その時だった。
背後の洞道から、紫色の魔素の靄をすべて吹き飛ばすほどの、強烈な熱風が叩きつけてきた。
ゴォォォォンッ! という爆発音とともに、分厚い岩の壁が融解して吹き飛ぶ。
「ハッ! 何べそかいてんだよ、榊!」
もうもうと立ち込める白煙の中から、巨大な大剣を肩に担いだ男が、獰猛な笑みを浮かべて歩み出てきた。
現役S級探索者、神代岳。
要請から十分でブラボーに到着し、三分で魔物を押さえた。防衛線を部下に引き継ぎ、アルファまでの洞道を五分で駆け抜けてきたのだ。
「……遅いぞ、神代」
「ブラボーは部下に任せた。こっちへ来る道中の雑魚も灰にした。待たせたか?」
ボロボロになった冬真の横に、神代が並び立つ。
その圧倒的な存在感と、底知れぬ魔力のプレッシャーは、目の前の複合魔物すら警戒して後ずさらせるほどだった。
『榊さん、神代さん! 聞こえますか!』
ノイズの晴れたインカムから、澪のクリアな声が飛び込んでくる。遅延中継のサブカメラの回線が復旧したのだ。
『複合魔物の魔力周期の解析、完了しました! 榊さんの観測データと完全に一致しています!』
『こちら水城。外周部および第3隔壁の外側にて、自治体隊による魔力シールドの展開を完了しました! これで、万が一衝撃波が発生しても市街地への流出と二次被害は防げます。いつでもやってください!』
澪の解析。水城と自治体隊による外周封鎖。
必要なピースは、すべて揃った。
「神代。……奴の核は三つだ。中途半端に削れば崩落する」
「俺を誰だと思ってんだ」
神代はニヤリと笑い、大剣を両手で構え、全身から太陽のような極大の炎熱魔力を立ち昇らせた。
「俺の仕事は、お前が作った隙に、一番デカい火力を叩き込むだけだろ。……合わせろ、榊!」
「ああ!」
冬真は最後の気力を振り絞り、直剣を前方へと突き出した。
視界が明滅し、意識が遠のく中、環境のすべての情報を統合して『数秒先の未来』を読む。
岩盤の軋み、魔素の対流、核の瞬き。
三、二、一――。
「今だ……撃てッ!!」
冬真が絶叫とともに全魔力を解放し、複合魔物の活動周期を完全に『停止』させた。
魔物と迷宮の岩盤との同期が、わずか三秒間だけ完全に切断される。
その、冬真が命を削って作り出した絶対の『窓』へ向けて。
「灰になれええええええッ!!」
神代岳の、S級としての存在意義そのものである『単体最大火力』が炸裂した。
大剣から放たれた極太の炎の奔流が、空間そのものを歪めながら複合魔物へと直撃する。
岩盤との同期を絶たれ、防御機構を失っていた魔物は、断末魔の咆哮を上げる暇すらなく、三つの核ごと瞬時に蒸発した。
ドォォォォォォォォンッ!!!
迷宮の最深部を揺るがす大爆発。
だが、冬真の正確なロックと、水城たちが外側に張ったシールドのおかげで、迷宮の岩盤が連鎖崩落を起こすことはなかった。
ただ魔物だけが完全に消滅し、紫色の魔素の靄が、浄化されるように晴れていく。
冬真の『前兆読みと封じ込め』、神代の『最大火力』、澪の『解析』、水城たちの『封鎖』。
誰一人として欠けていれば成立しなかった、完璧に統合された連携による、災害指定個体の撃破だった。
*
「……対象の、完全な消滅を確認……。二次崩落の、兆候……なし……」
インカムに向けて短く報告した直後。
冬真の口から、どす黒い血が止めどなく溢れ出した。
「榊さん!?」
インカムの向こうで澪が悲鳴を上げる。
限界をとうに超えていた魔素過負荷が、一気に冬真の肉体に牙を剥いたのだ。全身の力が抜け、直剣が手から滑り落ちる。視界が急速に暗転し、冬真の身体が冷たい岩の床へと崩れ落ちそうになる。
だが、その身体が地面に叩きつけられる前に。
力強い腕が、冬真の肩をガシッと掴んで支えた。
「無茶しやがって。一人で全部背負い込む癖は、少しは治ったと思ったんだがな」
神代が、呆れたような、だが確かな敬意のこもった声で笑っていた。
「……うるさい。俺は、俺の仕事をしただけだ……」
「へいへい、わかってるよ。お前が俺たちを信じて作ってくれた隙だ。最高の仕事だったぜ」
三年前は、すべてを一人で背負い、一人で裁かれた。
だが今は、自分が倒れても、背中を預けられる強者が隣にいる。
自分の仕事を引き継いでくれる、信頼できる仲間たちがいるのだ。
「あとは任せて、大人しく寝てろ。バカ野郎」
神代のその言葉を聞き届けたのを最後に。
冬真の意識は、深い、底なしの暗闇へと沈んでいった。




