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国家機密の元討伐員、D級から迷宮配信を始める ~同接9人の初配信でB級魔物を倒したら実力がバレた~  作者: 他力本願寺


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第36話 任せる、見えないまま

肺に吸い込む空気が、まるで熱された鉄の粉のように重く、熱かった。


 第七管区迷宮の最深部、アルファ地点。


 巨大なドーム状の空洞の中央には、巨大な水晶のクラスターと無数の触手が融合したような、異形の『複合魔物』が鎮座していた。災害指定個体に準ずるその熱源は、呼吸をするように高濃度の魔素を明滅させ、迷宮の岩盤そのものを内側から侵食し、崩壊させようとしている。


「……くそっ」


 榊冬真は、全身の骨が軋むような激痛に耐えながら、直剣を岩盤の亀裂の節目に突き立て、自身の魔力を流し込み続けていた。


 彼の行っている『前兆読み』は、未来を予知する魔法ではない。環境のすべてのベクトルを演算し、崩壊の起点となる箇所を先回りして物理的・魔力的に相殺し続けるという、途方もない精度と集中力を要求される作業だ。


 魔素の過負荷が冬真の神経を焼き、ひどい吐き気と眩暈を引き起こす。


 だが、彼がここで一秒でも長く崩壊を押し留めなければ、後方のチャーリー地点にいる民間人たちは生き埋めになる。


 ズォォォォンッ!


 複合魔物が不快な咆哮を上げ、触手の一本を鞭のように振り抜いた。


 冬真は岩盤の補強に意識の九割を割きながらも、残りの一割の感覚でその軌道を読み、最小限の動きで回避する。


 しかし、触手が岩壁に激突した余波で鋭い岩の破片が散弾のように飛び散り、冬真の斜め後方を浮遊していた『公式遅延中継用ドローン』に直撃した。


 バチッ、という破裂音とともにドローンが火花を吹き、地面に墜落して完全に沈黙する。


「……っ、メインカメラ、ロストか」


 冬真は舌打ちをした。


 それはつまり、後方の安全圏で指揮と記録を統括している澪のモニターから、そして何十万人という視聴者の画面から、冬真の姿が完全に消失したことを意味していた。


 映像が落ちただけではない。メインの通信ユニットが破壊されたことで、冬真の耳から、後方の状況を知らせるクリアな音声が途絶えてしまった。


 残っているのは、ノイズ混じりの予備インカムだけだ。


『――ザザッ……神代……ブラボー地点……魔物の数が……』


『……水城です……第2ルート……瓦礫が……』


 断片的な単語と酷いノイズだけが、冬真の耳を叩く。


 神代の防衛線で何が起きているのか。水城の誘導で、民間人たちは無事に瓦礫を抜けられたのか。


 自分の目で見えない。音声もまともに聞こえない。


 その『完全な情報の遮断』が、限界まで張り詰めていた冬真の精神に、冷たい楔を打ち込んだ。


(民間人は……間に合っているのか?)


 三年前の記憶が、鮮烈なフラッシュバックとなって脳裏に蘇る。


 システムを信じて見殺しにされそうになった命。通信を切り、自分一人の力ですべてを救い出そうと足掻いた地獄。


 あの日、自分が直接その目で見なければ、彼らは確実に死んでいた。


 今、神代の防衛線が突破されていれば? 水城の誘導が少しでも遅れていれば?


 自分がここで岩盤を支えていても、結局彼らは魔物に食われるか、別の場所で生き埋めになるのではないか。


(戻って……俺が直接、安全を確認しなければ……)


 強迫観念が冬真の思考を黒く塗りつぶす。


「自分が行けば早い」「自分の目で見たものしか信じない」。それが、理不尽な組織に裏切られ続けた男の、最も深く根強い防衛本能だった。


 冬真は、突き立てていた直剣を引き抜き、崩落の遅延を放棄してでも後方へと駆け出そうと――足に力を込めた。


『榊さん!! 動かないで!!』


 その時、ノイズだらけのインカムを劈くように、雨宮澪の叫び声が飛び込んできた。


「澪……! そっちの状況は」


『ザザッ……映像は、落ちました……! 榊さんの姿は、もう私たちには見えません!』


「なら、俺が戻って――」


『でも、私には全体が見えています!!』


 澪の声は、いつになく荒々しく、そして力強かった。


『神代班が、ブラボー地点の魔物を完全に抑え込んでいます! 一匹たりともそちらへは通していません!』


「……!」


『水城さんの誘導は完璧です! 自治体隊が瓦礫を撤去し、民間人は今、全員が自力で歩いて第3隔壁へ向かっています! あと一分……あと一分で全員が安全圏です!』


 澪は、映像という客観的な証明が失われた状況下で、ただ必死に『言葉』だけで現場の事実を冬真に伝えようとしていた。


『あなたの目はもういらない! 今は彼らを信じてください! 絶対に持ち場を離れないで!!』


 その言葉が、強迫観念に囚われかけていた冬真の脳を、強烈に打ち据えた。


 記録がすべてを証明する。そうやって、自分の能力を社会に認めさせてきた。


 だが今、彼に求められているのは、記録にも残らず、自分の目にも見えない不確実な闇の中で、他者の仕事を『完全に信頼して任せる』ことだった。


(……ああ。そうだったな)


 冬真は、踏み出しかけた右足をゆっくりと元の位置に戻した。


 自分はもう、たった一人で世界と戦っているわけではない。


 背中を預けられる最強の火力がいて、現場を統制するかつての部下がいて、そして、自分の目が届かない場所を必ず見ていてくれる相棒がいる。


「……了解した」


 冬真は深く息を吸い込み、再び直剣を岩盤の亀裂へと突き立てた。


 全身の血管が焼き切れるような魔素負荷が襲いかかる。だが、彼の心からは一切の迷いが消え去っていた。


 他人の領域に口出しはしない。自分がやるべきは、このアルファ地点の崩落をあと一分間、何があろうと押さえ込み続けることだけだ。


 数十秒が、永遠のように長く感じられた。


 やがて、インカムのノイズの奥から、水城のクリアな声が響いた。


『――こちら水城! チャーリー地点の民間人全員、第3隔壁の外へ退避完了しました! 怪我人の搬送も完了です!』


 その報告を聞いた瞬間、冬真の口角がわずかに上がった。


 見えないまま任せた仕事が、これ以上ない完璧な結果として返ってきたのだ。


『神代さん! アルファへの通路、確保できました!』


『おうよ! 榊、よく保たせたな! あと少しだ!』


 神代の猛々しい声がインカムに響き、背後の通路から凄まじい足音と熱波が近づいてくる気配がした。


 守るべき命は、すべて外へ出た。


 あとは、目の前にいるこの忌まわしい崩壊の元凶を、完全に破壊するだけだ。


「……よくやった。あとは頼むぞ、神代」


 冬真は限界を迎えた岩盤から剣を引き抜き、迫り来る複合魔物へ向かって、静かに構えを取った。

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