第35話 また二択が来る
最深部である『アルファ地点』に近づくにつれ、迷宮内の空気は粘り気を帯びたように重くなっていった。
視界を遮る紫色の魔素の靄。岩盤の奥深くからは、まるで巨大な獣が呻き声を上げているかのような、地鳴りに似た軋みが絶え間なく響いている。
「……あそこです、榊さん! 生体反応、複数!」
公式遅延中継のカメラを浮遊させながら、雨宮澪が前方の暗がりを指差した。
崩落した巨大な瓦礫の山の向こう側。そこには、逃げ遅れた数十人の民間人――低ランクの採取業者や、装備の乏しい新人探索者たちが身を寄せ合っていた。
「助けてくれ!」
「もう駄目だ、岩が崩れてくる! 死にたくない!」
彼らの顔は恐怖で引きつり、完全なパニック状態に陥っていた。
無理もない。澪の手元にある環境魔素センサーの数値も、すでに岩盤の強度が限界を示す『レッドゾーン』を振り切っている。遅延中継を見ている視聴者たちも、画面越しに伝わってくる絶望的な状況に息を呑んでいるはずだ。
だが、榊冬真の認識は違った。
(岩盤の軋む周期と、風の抜け方。……魔素の滞留は激しいが、力の逃げ道がまだ一箇所残っている)
冬真は目を細め、天井に走る無数の亀裂の『最も深い一本』を見据えた。
センサーの数値は限界を示しているが、現場の環境音と物理的な構造のバランスを読み解く冬真の目には、全く異なる事実が映っていた。
まだ崩れない。少なくとも、あと『七分』は完全崩壊には至らない。
パニックに陥る周囲の人間たちとは対照的に、冬真の脳内では極めて冷徹にタイムリミットのカウントダウンが刻まれていた。
『榊さん、応答してください。こちら本庁の水城です』
インカムに、迷宮安全庁・緊急対応部門の水城からの通信が入る。この回線には、上位クラン連合の高瀬も繋がっていた。
『第七管区のシステム解析が完了しました。アルファ地点の奥に、災害指定個体に準ずる巨大な熱源が存在します。それが迷宮の構造を内側から破壊し、崩落を誘発している』
「ああ。だろうな」
『巨大熱源およびそれに伴う魔物の大群の流出を防ぐには、遅くとも「あと五分以内」に、アルファ地点の手前にある第3隔壁を物理的に落とし、完全封鎖する必要があります。……五分を過ぎれば、魔物が市街地に溢れます』
水城の声は、酷く強張っていた。
彼自身も、自分が今、冬真に対して『何を突きつけているのか』を痛いほどに理解していたからだ。
「……五分」
冬真は、瓦礫の向こうで震える数十人の民間人を見た。
瓦礫を撤去し、怪我人を抱えながら安全な第3隔壁の外まで彼らを避難させるには、どれだけ急いでも最低『十分』はかかる。
五分で封鎖すれば、民間人は見殺しになる。
十分かければ、魔物が流出して市街地に多大な被害が出る。
それは、今から三年前。『湾岸第九迷宮災害』で冬真が直面したのと全く同じ、絶望的な『究極の二択』だった。
『……っ。榊さん』
水城の声が震える。三年前、彼はこの冷酷な二択を前に組織の決定に逆らえず、冬真一人に重荷を背負わせた。
『現在のシステム上、本庁の権限で隔壁の封鎖を遅らせることは……』
「水城」
冬真は、静かに、だが確かな力強さを持って口を開いた。
「焦るな。三年前とは状況が違う」
三年前。冬真はこの二択を突きつけられた時、通信を自ら切断し、命令を無視して一人で救助に走った。結果として民間人は助かったが、封鎖が遅れたことで港湾施設に甚大な被害を出し、彼は組織から追放された。
自分が行けば早い。自分が背負えば済む。
だが、その独断の果てに何が起きたか、彼は嫌というほど学んでいる。
「高瀬統括、聞こえているな」
『ああ。聞いている』
「お前たちの上層部のシステムでは五分が限界だろうが、俺の『前兆読み』による現場の観測では、完全崩壊までまだ『七分』の猶予がある。それに加えて、俺が崩壊の起点に立ち、魔力操作で岩盤の崩落を意図的に遅延させる。それでさらに三分稼ぐ」
『……なんだと?』
冬真は通信を切らない。
彼は統合回線に向かって、自分が観測した事実と、そこから導き出される作戦、そしてその『リスク』を隠さずに説明し始めた。
「合計十分だ。その十分間で、水城が誘導している自治体の救助隊をここへ突入させ、民間人を引き上げろ。俺は限界まで崩落を押さえ込み、民間人が隔壁を越えた瞬間に防衛線を放棄して脱出する」
『……正気か、榊』
高瀬が驚愕の声を上げた。
『お前が前兆読みで崩落を遅延させるというが、それはお前自身に凄まじい魔素負荷がかかることを意味する。もしお前が途中で限界を迎えれば、その瞬間に民間人も救助隊も、全員が岩の下敷きになるんだぞ。そのリスクを理解しているのか!』
「理解している。だから、これは『合意』が必要な提案だ」
冬真は、瓦礫の向こうの民間人たちを見据えたまま言った。
「システムを信じて五分で封鎖し、見殺しにするか。俺の観測と技術を信じ、全滅のリスクを背負ってでも救助に踏み切るか。……決めるのは俺一人じゃない。お前たちだ」
独断ではなく、情報の共有と合意。
それが、冬真が三年の歳月を経て手に入れた、最強のプロフェッショナルとしての『成長』だった。
通信回線に、重い沈黙が降りた。
だが、その沈黙を破ったのは、迷宮安全庁の水城蓮司だった。
『……本庁、緊急対応部門として、榊冬真氏の提案を支持します』
「水城!?」
『行政のシステムが十五分の遅延を起こしているという事実は、すでに公式記録として確定しています。エラーを起こしているシステムより、現場のA級探索者の観測を優先するのは極めて合理的です。本庁の権限において、隔壁の封鎖時間を十分後へと延長します』
水城は、今回は決して逃げなかった。
組織のシステムを絶対視するのではなく、自らのキャリアを賭けて、冬真の観測を『公式な代替案』として担保したのだ。
『……チッ』
高瀬が、マイク越しに舌打ちをする音が聞こえた。
『本庁が責任を持つというなら、安全統括の俺が口を挟む筋合いはない。だが榊、現場のプロの判断として、一つだけ言っておく』
「なんだ」
『リスクは高すぎるが、今の盤面をひっくり返すにはそれしかねえ。……死ぬなよ』
高瀬は、安全を重視する立場でありながら、冬真の技術の『合理性』を認めた。
かつて冬真を縛り付けた「組織の壁」が、透明な情報共有と互いのプロ意識によって、彼を支える「土台」へと変わった瞬間だった。
「……交渉成立だ。行くぞ、澪」
「はいっ!」
冬真は直剣を抜き、瓦礫の山へと歩みを進めた。
澪はカメラを操作し、自治体隊との合流と民間人の誘導という、彼女自身の役割を果たすために走り出す。
「澪。ここは俺一人で押さえる。民間人の引き継ぎが終わったら、お前も迷わず隔壁の外へ出ろ」
「榊さんこそ、無理をしないでくださいね。……あなたの記録は、私が最後まで残しますから」
冬真は振り返らずに短く頷き、最も高濃度の魔素が渦巻く崩壊の起点――魔物の群れが迫る最奥の防衛線へと、一人で足を踏み入れた。
与えられたタイムリミットは、十分間。
三年前の亡霊を完全に払拭するための、極限の耐久戦が幕を開けようとしていた。




