第29話 十二人の一人
「南雲さん、夜勤お疲れ様。あとの引き継ぎはやっておくから、もう上がって平気よ」
「ありがとうございます、先輩。お言葉に甘えますね」
白み始めた空が窓を照らす、首都圏の総合病院。
救急病棟のナースステーションで、夜勤明けの看護師・南雲奈緒は先輩に軽く頭を下げ、スタッフ用の休憩室へと向かった。
二十七歳。救急救命の最前線で働く彼女の日常は、常に時間と命のプレッシャーに追われている。だが、それほどの過酷な職場を選んだのには、彼女の中に決して消えることのない明確な理由があった。
休憩室のパイプ椅子に腰を下ろし、南雲は缶コーヒーを開けてスマートフォンを取り出した。
画面に表示させたのは、昨夜から何度も見返している動画のアーカイブだ。
『榊冬真の迷宮探索』。
今、ネット上で最も注目を集めているB級探索者のチャンネル。
画面の中では、灰色の防刃ジャケットを着た榊冬真という男が、迷宮の中でパニックに陥った新人探索者たちを誘導し、あるいは怪我人の応急処置を行っている。
「……やっぱり」
南雲の指先が、画面をなぞるように震えた。
今から三年前。『湾岸第九迷宮災害』。
当時まだ看護学生だった南雲は、その大規模な構造崩壊の現場に運悪く居合わせていた。逃げ遅れ、巨大な瓦礫によって退路を断たれた閉鎖区画。そこには南雲を含め、十二人の民間人が取り残されていた。
何人かは崩落の衝撃で重傷を負い、暗闇と絶望の中で誰もが死を覚悟した。粉塵による視界不良と酸欠で、次々と意識を失っていく人々。南雲もまた、医療の知識があったからこそ、自分たちの置かれた状況がいかに絶望的かを理解してしまっていた。
だが、そこに『彼』が現れたのだ。
面体付きの重防護服に身を包み、たった一人で瓦礫をこじ開けて入ってきた隊員。
防護服と粉塵のせいで、顔は見えなかった。声も、マスク越しに加工されたくぐもった響きしか聞こえなかった。
『息を整えて、前の人間の背中だけを見て歩け』
その声のトーン。
そして何より、南雲の記憶に焼き付いて離れないのは、彼が重傷者に対して行った『応急処置の手順』だった。
動脈出血に対する的確すぎる圧迫止血、頸椎保護を優先した体位の変え方、そしてパニックを起こしている人間を落ち着かせるための、固定された声かけの順序。
看護学生として必死に意識を保っていた南雲にとって、顔や声という曖昧な情報ではなく、その『洗練され尽くしたプロの手順』こそが、命の恩人を形作る最も鮮明な記憶となっていた。
そして今、画面の中の榊冬真が、あの時の隊員と『全く同じ手順』で怪我人を動かしている。
「……会わなきゃ」
南雲は強く唇を噛み締め、コーヒーを一気に飲み干した。
ネット上では現在、彼が三年前の部隊の生き残りだという『第零班』の噂が過熱し、特定班が当時の救助者である自分たちを探し回っているらしい。
暴露系配信者が自分たちを嗅ぎ回っていたというニュースも見た。
だが、南雲は逃げ隠れするつもりはなかった。あの日、自分の命を救ってくれた人が、今、ネットの悪意や不確かな噂の渦中にいる。
確かめなければならない。そして、伝えなければならないことがあった。
*
二日後。
探索者ギルド本部に併設された、外部の視線を遮断できる完全個室の面会室。
ギルドの連絡窓口と、雨宮澪の管理するチャンネルの問い合わせフォームを二重に経由してコンタクトを取った南雲は、緊張で冷え切った手を膝の上で握りしめていた。
カチャリ、とドアが開き、二人の人物が入ってくる。
「……初めまして。榊冬真だ」
「雨宮澪です。ご足労いただき、ありがとうございます」
現れたのは、動画で見ていた灰色のジャケットの男と、そのバディである検証配信者の女性だった。
南雲は立ち上がり、深く頭を下げた。
「お忙しいところ、お時間をいただきありがとうございます。南雲奈緒と申します」
対面の席につき、南雲は冬真の顔を真っ直ぐに見つめた。
防護服のない、素顔の彼。顔を見ても、「あの時の人だ」という確信は湧かなかった。
だから南雲は、自身の記憶の中にある最も確かな『鍵』を口にした。
「榊さん。突然こんなことをお聞きして申し訳ありません。……三年前の湾岸部の迷宮で」
南雲は、一つ一つ言葉を確かめるように紡いだ。
「崩落した地下区画で、右脚の大腿動脈を損傷した男性に対し、止血帯の固定前に副子として周囲の瓦礫ではなく『自身の予備の剣の鞘』を当て、その後、パニックになった私に対して『脈拍は安定している、お前が自分の呼吸を数えろ』と言ったのは……あなたですか?」
それは、現場にいた人間と、それを専門知識として記憶していた南雲にしか絶対に分からない、極めて具体的な手順の確認だった。
冬真は、眉一つ動かさなかった。
だが、その冷徹な黒い瞳の奥に、わずかな温度が灯るのを南雲は見た。
「……あいつの脚は、無事に繋がったのか」
冬真の短く、だが確かに南雲の言葉を受け止めたその問いが、すべてを物語っていた。
南雲の目から、ブワッと涙が溢れ出した。
「はいっ……! あの時の止血が完璧だったおかげで、彼も、他の皆も、誰一人後遺症を残すことなく生活できています。私も、無事に看護師になれました……っ!」
「……そうか。なら、良かった」
冬真は短く頷き、それ以上は何も言わなかった。
自分の命令違反のことや、その後組織からどんな処分を受けたかなど、彼が自ら語ることは決してないだろう。だが、南雲にとっては『彼が生きていること』、そして『あの時の結果が誰の命も奪わなかったこと』を確認できただけで、三年分の胸のつかえが下りた気がした。
「南雲さん」
隣に座っていた澪が、ハンカチを差し出しながら静かに口を開いた。
「今日、私たちにご連絡いただいたのは、確認と感謝だけではないですよね。……ネットの状況は、ご存知ですか」
「はい」
南雲は涙を拭い、顔を上げた。
「『第零班』の噂と、特定班が私たち救助者を探していることも知っています」
「彼らの追及は常軌を逸しています」澪が険しい顔で告げる。「私たちは昨日、新しい情報公開の基準を作りました。あなた方当事者の同意がない限り、過去のシステム遅延や救助の記録に関するデータは一切出しません。ですが、ネットの集合知が自力であなた方に辿り着く可能性はゼロではない」
澪の言葉を遮るように、冬真が口を開いた。
「心配は要らない。ネットの連中がどれだけ騒ごうと、実害が及ぶなら俺が物理的に止める。お前たちは、ただ平穏に暮らしていればいい。それがあの時、俺が現場で下した判断の唯一の報酬だ」
冬真は、どこまでも南雲たちを『守られるべき存在』として保護しようとした。
彼がどれほど不器用で、真摯な男であるか。その言葉から痛いほどに伝わってくる。
だが、南雲はしっかりと首を横に振った。
「いいえ。私は、そのためにここへ来たのではありません」
冬真と澪が、わずかに目を見開く。
「榊さん。あなたが私たちを守ろうとしてくれるのはわかります。でも、私はもう守られるだけの学生じゃありません。……誰かに暴かれる恐怖に怯えながら隠れるくらいなら、誰かに勝手に暴かれて消費される前に、私が『私の意思』で話します」
「南雲さん……それは」
澪が息を呑む。
それはまさに、昨日澪が冬真にぶつけた「当事者本人の意思を聞かずに隠すな」という価値観に対する、南雲自身による明確な『答え』だった。
「勘違いしないでくださいね。私は、国家の機密を暴いてやろうとか、榊さんがどんな不当な扱いを受けたのかを告発したいわけじゃありません。そんな政治的なことは私にはわかりませんから」
南雲は、真っ直ぐに冬真を見つめ返した。
「私が語るのは、ただ一つだけ。……あの絶望の暗闇の中で、一人の隊員が、決して私たちを見捨てずに命を繋いでくれたという『事実』です。その人命側の事実だけを、私の名前で、社会に証言します」
それは、過去の亡霊やネットの陰謀論に踊らされることなく、命の現場にいた者としての誇りをかけた決断だった。
冬真はしばらく南雲の強い瞳を見つめ返し、やがて、小さく、だが深く頷いた。
「……わかった。お前の命だ。お前の好きにしろ」
「はいっ」
澪もまた、南雲の決意に寄り添うように微笑み、タブレットを起動した。
「南雲さん。あなたが証言をするなら、私が責任を持って、最も安全で正確な形で世間に届けます。彼らが『餌』になどできないように」
*
翌日。
雨宮澪の検証チャンネルを通じて、一本の短い動画が公開された。
それは、顔を出し、自身の身分を明かした現役看護師・南雲奈緒による、三年前の湾岸災害に関する『自主的な証言動画』だった。
『――あの時、私たちの命を救ってくれたのは、間違いなく彼でした。私たちが今生きているという事実だけが、あの日の彼の行動のすべてです』
動画は、国家機密には一切触れず、ただ現場の惨状と、そこにあった一つの救済の事実だけを静かに語っていた。
これまで「第零班の闇」や「榊冬真の正体」といった、ネット上のオカルトや陰謀論として消費されていた事象。
そこに、当事者本人の口から『十二人の命が確かに救われた』という、絶対的な重みを持つ人命側の事実が投下されたのだ。
『マジか……』
『生身の証言は重すぎる』
『榊冬真、本当に三年前の災害現場で人助けしてたのかよ』
『なんでそんな英雄が、今はD級スタートでやり直してんだ? 絶対におかしいだろ』
南雲の動画の下には、救助の手順についての質問が増えていった。澪は個人を特定するコメントを消し、南雲本人に公開範囲を確かめてから、次の説明文を置いた。
冬真はそれを見て、「助かった」とだけ返した。




