第28話 戻ってこないか
「……迷宮安全庁からの、非公式な面会要請ですか?」
ギルド本部のラウンジで、雨宮澪は渡された封書を見て訝しげに眉をひそめた。
B級への異例の短期昇格を果たし、自治体公開訓練での鮮やかな事案収束を見せた榊冬真。彼に対する上位クランからの勧誘は引きも切らないが、まさか行政の中枢機関から直接声がかかるとは澪も予想していなかった。
封書の差出人欄には、『迷宮安全庁 緊急対応部長・御厨誠一』と記されている。
「罠かもしれません」
澪は声を潜め、周囲を警戒しながら言った。
「最近のネット上の騒ぎ――『第零班』の噂や、三年前のニュース映像との比較動画の拡散に業を煮やして、行政側があなたを直接牽制しに来た可能性があります。私も同行して、念のためカメラを回しましょうか?」
「いや、いい」
冬真は封書を受け取り、淡々と首を振った。
「御厨という男は、そういう陰湿な手を使う人間じゃない。……それに、これは俺個人の過去のけじめだ。お前を巻き込むわけにはいかない」
「……」
「機材は置いていく。俺一人で行く」
冬真の言葉に、澪はそれ以上食い下がることはしなかった。
彼の目には、いつもの魔物と対峙する時と同じ、一切の油断も感情のブレもない冷徹な光が宿っていたからだ。
*
指定された場所は、ギルド本部からほど近い高級ホテルの、セキュリティが確保された完全個室のラウンジだった。
ドアを開けて中に入ると、革張りのソファに二人の男が座っていた。
「……よく来てくれたな、榊」
白髪の混じった初老の男が、重々しい声で口を開いた。
迷宮安全庁・緊急対応部長、御厨誠一。三年前、冬真が所属していた『特別迷宮災害対処室』の室長であり、冬真の直接の上司だった男だ。
そして、その隣にはもう一人。整ったスーツを着こなし、神経質そうに眼鏡を押し上げる男――監査局企画官の久世章吾が座っていた。
「お久しぶりです。御厨部長」
冬真は感情を交えずに短く一礼し、勧められた向かいの席に腰を下ろした。
「君の最近の活躍は、私も見ているよ。B級昇格、おめでとう」
御厨は、どこか懐かしむような、そして悔恨が混じったような複雑な目を冬真に向けた。
「圧倒的な初動判断、被害局限の徹底。……君の腕は少しも錆び付いていない。いや、当時よりもさらに洗練されているようにすら見える」
「評価には感謝します。ですが、思い出話をするために俺を呼んだわけではないでしょう」
冬真が単刀直入に切り出すと、御厨の隣にいた久世が冷ややかな笑みを浮かべて口を開いた。
「相変わらず可愛げのない男だな。……単刀直入に言おう。迷宮安全庁は、君を『非公式顧問』として再び迎え入れたいと考えている」
「非公式顧問?」
「そうだ」
御厨が引き継ぐように身を乗り出した。
「現在の君の民間探索者としての身分と活動は保証する。だが、赤色警報以上の災害時や、我々が指定する特殊な事案が発生した際には、優先的に行政の指揮下に入ってもらいたい。待遇は約束しよう。装備の調達優先権、活動資金の援助、そして何より……君が望むであろう、最高ランクの災害補償を国家が担保する」
それは、一介のB級探索者に対して提示されるものとしては、破格すぎる条件だった。
御厨は、悪意で冬真を陥れた男ではない。彼は純粋に冬真の実力を高く評価しており、三年前の事件で彼を組織から追い出してしまったことへの罪悪感も抱えていた。だからこそ、自分の権限で用意できる最大の誠意として、この復帰案を持ってきたのだ。
だが、冬真の心は一ミリも動かなかった。
「……なるほど。飴としては極上だな」
冬真は静かに久世の方へ視線を移した。
「だが、久世企画官。アンタの狙いは別にあるはずだ」
「……何が言いたい?」
「最近ネットで騒がれている『第零班』という俗称。そして、三年前の事件を掘り返そうとする特定班の動き。俺を体制内に取り込んで飼い殺せば、俺が外部に向けて余計な情報を漏らすリスクを完全にゼロにできる。過去の事案の再調査を求める世論の機運も、当事者である俺が行政側に付けば自然と削がれる。……違うか?」
久世の眉間がピクリと動いた。
図星だった。久世にとって、冬真が野に放たれ、圧倒的な実力で世間の注目を集めている現状は、いつ過去の隠蔽(意図的な情報の切り分け)が暴かれるか分からないという時限爆弾に等しい。冬真を厚遇で取り込むことこそが、最も安全な口封じだったのだ。
「一つ、聞かせてください」
冬真は再び御厨に向き直り、静かな、だが決して退かない声で問うた。
「俺が戻ったとして。……三年前の、あの処分の記録はどうなるんですか」
「それは……」
御厨の顔に、苦渋の色が濃く滲んだ。
「すまない。あれはすでに完了し、確定した事案だ。君の命令違反の事実は消せない。システムのエラーについての見直しも……現在の組織の秩序を保つためには、今更ひっくり返すことはできないんだ。理解してくれ」
御厨は、組織の人間としての限界を超えられなかった。
彼は冬真の実力を惜しんではいるが、同時に「組織の無謬性」を守らなければならない立場にある。だから、冬真の技術だけを都合よく買い叩き、過去の不手際はそのまま蓋をしておきたいのだ。
「……そうか」
冬真は短く息を吐き、ゆっくりとソファから立ち上がった。
そこに、怒りや落胆はなかった。ただ、使い物にならない不良品を廃棄するような、極めて事務的で冷徹な諦観だけがあった。
「悪い話ではないはずだぞ、榊」
久世が焦ったように声を上げる。
「君は民間資格を取るために、わざわざ一からD級の泥水すするような真似をしてきたのだろう? 国家の庇護を受ければ、そんな苦労をする必要もなくなる。過去の意地を張って、この特権をフイにするつもりか?」
「特権?」
冬真は見下ろすように久世を一瞥し、そして、まるで興味がないというように言い放った。
「俺はすでに、B級のライセンスと最高ランクの災害補償保険の契約を完了している」
「……なっ」
「すべて公開された記録と、現在の俺の実績だけで手に入れたものだ。お前たちが握りしめている『国家の特権』とやらがなくても、俺はすでに俺の仕事をするための権限と安全網を構築し終えている」
久世の顔が、屈辱と驚愕で歪んだ。
特権を与えれば、日陰者は喜んで尻尾を振る。そう高を括っていた組織の驕りが、ただ一人の男が積んだ『公開実績』という事実の前に、完全に粉砕された瞬間だった。
「俺が求めているのは、待遇じゃない。現場の人間が、魔物ではなく人命を優先して合理的な救助判断を下せる『仕組み』だ」
冬真は最後に御厨の方を見た。
三年前、自分を見捨てた上司への恨み言は一切ない。
「三年前のシステムの不備を認めず、何も変わっていない組織に……戻る意味はない。お帰りください」
罵倒も、説教も必要なかった。
ただ事実と結果を突きつけ、静かに席を立つ。その冬真の背中は、彼がもはや国家の所有物ではなく、完全に独立した一個のプロフェッショナルであることを、何よりも残酷に証明していた。
*
ホテルの外に出ると、夕暮れの風が冬真の頬を撫でた。
「榊さん」
少し離れた場所で待機していた澪が、小走りで駆け寄ってくる。
彼女は冬真の表情を盗み見るようにして、おそるおそる尋ねた。
「あの……交渉は、決裂したんですか?」
「交渉ですらない。ただの不用品の処分だ」
冬真は首を鳴らし、いつものように淡々とした声に戻った。
「終わった過去に縋ってくる連中の相手をしている暇はない。明日は第四管区の討伐案件だ。機材の調整と、ディレイ配信のノイズ設定を頼む」
冬真は迷うことなく前を向き、歩き出した。
冬真は提出予定の配信記録を澪と確認し、次の仕事の支度を始めた。
だが、冬真がどれほど過去を切り捨てようとも。
ネット上に撒き散らされた火種は、もはや彼らや行政の手の届かないところで、新たな延焼を始めようとしていた。
『――三年前の湾岸災害で救助された十二人の一人です。直接お話ししたいことがあります。南雲奈緒』
冬真が端末を伏せたあとも、澪の問い合わせ窓口には未読が一件残っていた。
差出人欄には「南雲奈緒」。




