第18話 連絡できない元部下
「榊さん。昨日の『初心者向け安全手順』の実地検証配信ですが、アーカイブの再生数がとんでもないことになっています」
朝。冬真の住むアパートのリビングで、朝食のコーヒーを飲んでいた雨宮澪が、目を丸くしながらタブレットの画面を掲げた。
画面には、各種SNSや探索者専門の掲示板でトレンド入りしている冬真の名前と、彼らが構築したマニュアルへの称賛のコメントが並んでいた。
『あのマニュアル、今日さっそく使ってみたらマジで落石の予兆わかったわ』
『今まで感覚でやってた安全確認が全部理屈で説明されてる。神教材かよ』
『D級のオッサンが作った資料が、下手なA級の講習より役立つってどういうことだ……』
「それに、ギルドの教導部門からも正式に連絡が来ています。あの安全手順を、新規探索者向けの基礎教材として買い取りたいそうです」
「そうか」
冬真は、新調した長剣の刃を布で拭いながら、短く、淡々と応じた。
自身が徹夜で捻り出した言語化の労力が、こうしてギルドの公式教材として認められたというのに、彼の表情には誇るような色も、名声を得た喜びも浮かんでいない。
「もう少し嬉しそうにしたらどうですか? あなたの技術が、社会に認められたんですよ」
「俺は自分の名前を売りたいわけじゃない。ただ、あのマニュアルを読んだどこかの素人が、無駄に死なずに済むなら、手探りで言語化した甲斐があったというだけだ」
冬真にとって、配信の反響やコメントの数は自分の仕事を後から検証できる記録として受け止めるようになっていた。
彼が本当に安堵しているのは、自分が一人で抱え込んでいた『暗黙知』が、他者でも再現可能な『教えられる技術』として形になり、安全という結果を生み出した事実そのものだった。
「さて。今日は午後に第三管区の採取案件が入っている。機材のチェックを頼む」
「はいはい、わかってますよ。全く、ブレない人ですね」
澪は苦笑しながら、自律型認証カメラのバッテリー確認に取り掛かった。
*
同日の夜。
迷宮安全庁・緊急対応部門のオフィス。
多くの職員が退勤し、静まり返ったフロアの片隅で、A級相当の公的救助員である水城蓮司は、自身の端末のモニターをじっと見つめていた。
画面に表示されているのは、ギルドの公開データベースから照会した『榊冬真』の連絡先メールアドレス。
水城の指先は、キーボードの上でかすかに震えていた。
(……一言だけでも)
水城の胸の奥で、強烈な衝動が渦を巻いていた。
三年前のあの日、絶望的な崩落の中で自分たちを逃がし、一人で死地に残った『隊長』。組織の論理によって追放され、二度と表舞台には立てないと思っていた彼が、今、民間探索者として信じられないほど真っ当な形で、社会に自分の技術を残そうとしている。
その事実が、水城には嬉しくてたまらなかった。
『隊長。ご無事で何よりです。マニュアル、拝見しました。あなたらしい素晴らしい仕事だと思います』
たったそれだけの、労いと再会を祝するメッセージ。
それを打ち込み、送信ボタンを押すだけの簡単な作業。
だが、水城の指は、エンターキーの数ミリ上でピタリと止まり、それ以上はどうしても動かなかった。
「……駄目だ」
水城は絞り出すように呟き、バックスペースキーを長押しして入力した文字をすべて消去した。
彼は現役の公的機関の人間だ。旧・特別迷宮災害対処室という、未解除の国家機密を抱えた部署の元メンバーでもある。
もし自分が彼に接触し、その通信ログが庁内の保全システムや監査部門に引っかかればどうなるか。
『現役の公務員である水城蓮司が、無名の民間探索者である榊冬真を隊長と呼んでいる』という事実が、公的な記録として残ってしまう。それは、旧組織の「未解除任務」と「現在の榊冬真」という個人識別を、明確に結びつける最悪のトリガーになり得る。
隊長は今、過去の機密に縛られず、個人の力で新しい人生を築き上げようとしている。
自分の安易な感情で、その自由を脅かすわけにはいかない。
「……俺は、見守るしかできない」
水城は深く息を吐き、連絡先のウィンドウを閉じた。
「へえ、この榊冬真って人、マジですごいっすね」
その時、オフィスの数メートル先から、若い声が聞こえてきた。
夜勤のために残っていた、緊急対応部門の若手職員だ。彼は三年以上前の極秘任務など知る由もない世代であり、休憩がてら端末で探索者用の匿名掲示板を眺めているようだった。
「水城先輩、見ました? この『初心者向け安全手順』ってやつ。今ネットでバズりまくってるんですけど」
「……ああ。有益な資料だとは思うが」
「ですよね。でも俺、ちょっと気づいちゃったんすよ」
若手職員は、面白半分といった軽薄な笑みを浮かべ、カタカタとキーボードを叩き始めた。
「このマニュアルに書いてある『波紋による荷重計算』とか『空気の反響音による崩落予測』って、うちの庁が昔出した公開講習資料に、考え方がすげえ似てないですか?」
「……ッ」
「もしかしてこのオッサン、元・政府系の人間だったりして。……ちょっと匿名掲示板に『あいつ元公務員じゃね?』って書き込んで、ネットの反応見てみましょうか。特定班が動くかも――」
若手職員の指が送信キーに近づいた。
「送るな」
水城の声に、指が止まる。水城は職員の肩越しに投稿画面を見た。公開資料との類似を、庁の職員という立場から匿名で補強する文面だった。
「公開資料からの推測でも、職務で知った情報と結びつけて外へ出せば問題になる。下書きを消して、保全担当に経緯を報告しろ。俺も同席する」
「……すみません。冗談のつもりでした」
「送る前に止まれてよかった。二度目はないぞ」
若手は投稿を消し、水城と一緒に上長への報告画面を開いた。
残されたオフィス。
水城は一人、窓ガラスに映る自分の顔を見つめた。
水城は未送信の画面を確かめた。榊の過去を知る者が一人でも職務上の断片を漏らせば、公開映像の推測は別の重みを持ってしまう。
「……隊長」
水城は、窓の外に広がる都市の夜景――無数の命が息づくその光を見下ろし、心の中で固く誓った。
「俺は俺の場所で、あの時の借りを返します。……あなたの引いた線を、絶対に守ってみせる」
彼らが再び、同じ現場で交わる日が来るまで。
連絡できない元部下は、孤独な防衛戦を続ける。




