第17話 教えられる技術
「……だから、その岩盤が鳴る音とやらが、一般的な探索者の耳には聞こえないんです。もっと具体的な指標に落とし込んでください」
「岩は岩だ。鳴るものは鳴る。それ以外にどう説明しろと言うんだ」
深夜。榊冬真の安アパートのリビングには、ひどく疲労した雨宮澪の溜め息が響いていた。
テーブルの上には数台のタブレットと、膨大な環境データが乱雑に広げられている。二人は昨晩から、冬真が行っている『前兆読み』の技術を言語化し、一般の探索者でも使える「初心者向け安全手順」に落とし込む作業を続けていた。
だが、作業は難航を極めていた。
最大の障害は、手元に『わかりやすい手本となるデータ』が存在しないことだ。
先日、旧班固有の合図が映り込んだため、澪は高解像度のアーカイブ映像を自主的に非公開化した。真偽を証明する署名データは残っているが、冬真の異常な視線移動や微細な環境音を詳細に記録した生データは、もはや教材として使用できない。
結果として、旧班の合図を含まない新たな撮影データと、計測し直した波形、そして冬真の「絶望的に短い口頭説明」だけを頼りに、一からマニュアルを再構築しなければならなかった。
守秘義務を守るために支払ったコストが、途方もない労力となって二人を苦しめていた。
『ハッハッハ! 澪ちゃんの言う通りだぜ、榊。俺もそっちの意見に一票だ』
卓上に置かれた端末から、愉快そうな男の声が響く。
オンライン通話で作業に付き合っている現役S級探索者、神代岳だ。
彼は先日の一件以来、冬真の技術に強い関心を持ち、実地での感覚のすり合わせ役として面白半分に助言をくれていた。
『お前が普段やってることは、極限まで研ぎ澄まされた変態的な感覚ありきだ。それをそのまま「やれ」って言われても、並の魔力感知しか持ってねえ連中には自殺行為にしかならねえ。才能のない凡人が、どうやってその“岩の鳴る音”を判別するか、そこまで噛み砕け』
「……神代の言う通りですね」
澪が深く頷く。
「榊さん。音ではなく、視覚的な変化や、安価な魔素センサーの数値のズレなど、別の要素に変換できませんか?」
「……視覚的な変化」
冬真は腕を組み、記憶の中にある無数の現場を検索した。
「……岩盤の歪みが生じる直前、硫化ガスの漏出によって、床のくぼみに溜まった水面が微細な干渉縞を描く。市販のセンサーでも、湿度パラメーターの誤差としてなら検知できるはずだ」
「それです! その条件なら、マニュアルのチェック項目にできます!」
澪の表情がパッと明るくなり、猛烈な勢いでキーボードを叩き始めた。
「よし、これで項目三はクリアですね。次、魔物の荷重ベクトルの予測についてですが――」
澪が次の議題に移ろうとしたその時。
彼女の業務用端末に、一件の優先通知が割り込んできた。送信元の表示を見た澪の顔が、サッと険しくなる。
「榊さん。……また、迷宮安全庁の保全法務窓口からです」
「内容は?」
「『現在貴殿らが作成・公開を予定している新たな安全手順は、旧特殊災害対応系統における秘匿プロトコルの再現にあたる懸念がある。詳細な内容の事前提出を求める』……と」
画面越しの神代が「チッ」と舌打ちをするのが聞こえた。
旧組織は冬真の現在の活動を直接止める権限は持たない。だが、「国家機密の漏洩」という境界線に関しては極めて敏感に反応し、こうして牽制をかけてくる。
「どうしますか? また非公開化しますか?」
「いや、その必要はない」
冬真は焦る様子もなく、冷徹に言い切った。
「俺たちが今作っているのは、旧組織の特殊機材や非公開の作戦手順をベースにしたものではない。市販の民間装備のデータと、俺個人の経験知を組み合わせて『一般化』した、全く新しい独自の手順だ。指定保護情報には一切該当しない」
「……なるほど。そういうことなら、突っぱねられますね」
澪は冬真の論理的な整理に納得し、即座に法務窓口への返信を作成し始めた。
『ご指摘の懸念にはあたりません。本手順は市販品の検知誤差を応用した民間の経験知であり、いかなる公的機関の機密にも抵触しない独自の研究成果です』。
法的な書式に整えられたその返信は、旧組織からの干渉を見事に退けた。
守るべき線は守る。だが、自分たちがこれから社会へ残そうとしている知識まで、不当に奪われる筋合いはない。
*
翌日。第三管区・中級迷宮の浅層エリア。
冬真と澪の姿は、ギルドが管理する安全エリアの端にあった。
「榊さん、雨宮さん! 今日は本当にありがとうございます!」
ペコペコと頭を下げているのは、先日冬真の真似をして死にかけ、腕を骨折した若手探索者・悠馬とそのパーティメンバーたちだった。
彼らは今日、完成した『初心者向け安全手順(簡易版)』の実地検証テストに参加するため、この場に呼ばれていた。
「俺の落ち度で怪我をさせた。これくらいは当然だ」
冬真は淡々と返し、分厚いマニュアルのデータが入ったタブレットを悠馬に手渡した。
「お前は腕が使えない。今日は前線には出ず、後方からこのマニュアルに従って『安全管理と指揮』に専念しろ」
「はいっ!」
「いいか。俺は今日、よほどの緊急事態でない限り剣は抜かない。判断はお前たちに任せる」
冬真の言葉に、悠馬のパーティは緊張した面持ちで頷いた。
澪の認証カメラが空中に浮遊し、検証配信がスタートする。
探索が始まり、二十分ほどが経過した頃だった。
冬真の目には、すでに前方十五メートルの空間に生じている『微小な魔素の淀み』と、天井の岩盤の『軋み』がはっきりと見えていた。数十秒以内にC級の魔物がスポーンし、局所的な崩落を引き起こす。
いつもなら、冬真はすでに一歩半ずれた位置に移動し、剣を構え終わっているタイミングだ。
(……待て)
冬真は、無意識に動き出そうとする自分の足を、強靭な意志で床に縫い付けた。
「自分が行けば早い」。その悪癖を殺し、彼はじっと悠馬たちの行動を見守った。
「ストップ! 前衛、止まれ!」
沈黙を破ったのは、最後尾でタブレットと市販の魔素センサーを見比べていた悠馬だった。
「どうした、悠馬!?」
「マニュアルの項目三だ! 市販センサーの湿度パラメーターが基準値から0・5ズレてる! 足元の水たまりに干渉縞が出てるはずだ、確認してくれ!」
「っ……マジだ! 波紋がおかしい!」
前衛の探索者が叫ぶ。
悠馬は瞬時にマニュアルの次の項目に目を走らせた。
「魔力滞留の兆候あり。前衛、そのまま左へ三メートル迂回してシールド展開! 崩落が来るぞ!」
悠馬の指示に従い、パーティが素早く左側へ陣形をスライドさせた直後。
ズガンッ! と音を立てて前方の天井が崩れ落ち、その瓦礫の中から二体のロックリザードが姿を現した。
だが、魔物が現れた時には、すでに悠馬たちは『安全な退避位置』に陣取っていた。
不意打ちは完全に無効化されている。魔物の突進ベクトルは瓦礫によって制限されており、盾役が落ち着いて攻撃を受け止めることができた。
「いける! 後衛、魔法撃て!」
危なげない連携。
五分後、悠馬のパーティは誰一人かすり傷を負うことなく、二体のロックリザードを討伐することに成功した。
「……やった。俺たちだけで、安全に処理できた……!」
悠馬が、吊った腕を押さえながら歓喜の声を震わせた。
「才能なんてなくても……あの人の動画みたいな『完璧な初動』ができたんだ!」
その言葉を聞き、冬真は小さく息を吐いた。
自分が手を出さずとも、他人が安全に危険を回避し、結果を出した。それは、冬真にとって新鮮で、確かな手応えのある光景だった。
『おおおおお! 若手パーティが無傷で勝った!』
『すげえ。あのマニュアル、マジで実用性あるじゃん!』
『野生の勘だと思ってたものを、ここまで体系化できるのかよ』
『俺もあのマニュアル欲しい。いくらで売ってくれるんだ?』
コメント欄は、純粋な驚愕と称賛で溢れかえっていた。
冬真の技術は、もはや「彼だけの特権」ではない。社会に還元され、多くの探索者の命を救うための『知識』へと昇華されたのだ。
*
その日の夕刻。
迷宮安全庁・緊急対応部門の対策本部。
「……驚きました」
デスクのモニターで、冬真の検証配信のアーカイブを見ていた水城蓮司は、深い感嘆の息を漏らした。
水城の知るかつての榊冬真は、圧倒的な実力で部下を守る反面、すべてを一人で抱え込み、「自分が行けば早い」と自己犠牲を厭わない男だった。
だが、画面の中の彼は、若手に判断を委ね、じっと堪え、彼らが自力で安全を確保するのを見守っていた。
ふと、水城の手元の端末にギルド本部からの通達が届いた。
『榊冬真氏が公開した「初心者向け安全手順」について。極めて有用性が高いため、ギルドの公式安全講習の基礎教材として採用を打診する』という内容だった。
「……隊長」
水城はモニターを閉じかけ、もう一度開いた。公開版の安全手順には、かつて隊長しか読めなかったものが、別の言葉で書かれている。
守秘担当への照会文を、彼は一行ずつ読み直した。




