第三部後編
彼女は私に内省しろと言った。鬱である今の状態を利用するのだと言った。内省とは簡単には言うが、私の記憶の大部分は失われている。覚えているのは彼女とのここ数ヶ月の記憶くらいで、何をどう内省しろと言うのだ。そこで彼女が日記を見せてくれることになった。驚きだったのはその総字数で、五百万字をゆうに超えていた。いったいいつから書いているのかと訊ねると、十二歳の時から毎日だだと言う。一日あたり千四百字で、一日二十字にみたいない時もあれば三千字に登るときもあったそう。
私は適当にスクロールをし、日付から私がまだおおよそ高学生頃の日記を開いた。
『一通りテストが終わり、ほっと一息ついた。皆も同じ気持ちで、各々が席をたち、いつもの面々が顔を合わせながら放課後の予定を立てている中、一番前の席のとばりだけが一人浮かない様子していた。予想通りだった。私はペンと消しゴムをポケットに放り込むととばりの隣の席に座った。
「とばりはテストどうだった❔」
「自己採点では七十点ってところかな。あんまりだった」
「今日のテストは難しかったからね。平均は六十点そこらだと思うし、私は五十点てところかな」
窓の外は夕焼けに染まりきり、廊下に影を落とし、下校が遅くなった生徒たちは矢継ぎ早に帰宅をはじめているころだった。
「私らもそろそろ帰ろ❔」そういうととばりはやっと腰を上げた。帰宅の準備からといもの、階段、廊下、昇降口までと手にはずっと教科書を持ち、とばりはテスト範囲からずっと目を離さなかった。
校門を出るとやっと教科書を鞄にしまい、とばりは自分の落ち着くペースでゆっくりと歩き出した。とばりの身長は平均あるかないかで、私は背が高いからどうしても歩調をいつも合わせる必要があった。けれどそれはむず痒いというよりは、調和をとっている安心感に近かった。
「ここの喫茶店寄って行かない❔」
道中、私がそういうととばりは少し嫌そうな顔をした。
「少しだけ」そう言ってとばりは先に中へと入っていった。
ここは前々から気になっていた喫茶店で、実際中に入ってみると席は少なくすっきりとした印象だった。水色を基調とした装飾で、白色の壁が淡い黄色の光でほのかにライトアップされていた。夜に来たらきっと綺麗に違いない。席はほぼ満席で、幸いにも私たちの分は余っていた。席に通されるとさっそくとばりはカフェオレを頼み、私はブラックコーヒーを頼んだ。
「席が少ないから人があまりいなくてよかった」
「人が多かったらそもそも私は入らなかった」
今日のとばりは乾いた返事が多った。テストのせいと言うよりは、ちゃんと勉強していたのに一部内容が記憶からすっかり消えてしまっていることに落胆しているのろう。でなければとばりなら満点に近い点数をとることなんぞ容易い。毎日勉強に励み、趣味だってそれらしい読書だ。
私らは二人ともカップの中身を飲み終えると喫茶店を後にした。細い通りに出て私は最近面白かったことをあれこれと口にしたがとばりは上の空だった。視線は私にではなく真っ直ぐと帰路を見つめ、何も考えていないと言った表情で、でも実は何かを考えているのを私は知っている。恐らく、いやいつだってそうだ。とばりは表には出さないけれどいつか完全に記憶が消えてしまうのではないかと恐れている。それが常に脳裏によぎって仕方がないのだろう。
この間も普通に談笑し、お互い腹筋が攣りそうになるまで笑い合っていたのに、ふとよばりは悲しい面持ちでトイレに向かった。きっと楽しいこの思い出もいつか消えてしまう、そう思ってしまったに違いない。
トイレから出てくるととばりは涙ぐみながら私の胸元へ駆け寄ってきた。とばりは私の抱擁の中で声にならない声をあげ、肩を上下に揺らし呼吸はかなり乱れていた。私はそんな彼女を強く出し締め、過呼吸にならないよう静かに呼吸を落ち着かせ、優しく寄り添うことしかできなかった』
こんなものは日記ではない。まるで私と彼女の小説風の実話物語ではないか。だからそんなにも文字数が多いのか理由がわかったと私が言うと、彼女は日記に形式なんてない、例えそれが小説風でも、韻文風でも、全てが支離滅裂でも日記は日記だと言った。しかし私は続きが気になり読んだ。
『東の空が青白く染まるころ、とばりの家についた。とばりの家はマンションに一階にあって、ここにはとばりと私以外だれも住んでいない。このマンションは、昔に亡くなったとばりの父の遺産で、このあたりいったいの住宅地は開発途中で一人を除いて誰も住んでいない。
部屋に上がるととばりは制服のままベッドにダイブした。私も一緒にダイブしてとばりの横に寝転んだ。
「今日のテスト疲れたね」
「そうだね。本当に」
私らは天井を見上げていた。眩い照明に目を細め、少しだけ駄弁をはじめた。そのときとばりは今日初めて笑い、それが私はにはなにより嬉しかった。表情に笑顔が戻り、とばりはこっちへ顔を振り向け、恥ずかしげな含みのある顔を見せてくれた。私はすかさず左手でとばりの手を、指の隙間に指を這わせるようにして、ぎゅっと握った。とばりも握り返してくれた。
「照明を暗くしよう❔」
私がそう言うととばりはううんと顔を横に振った。
「ごめん。やっぱり今日はダメみたい」
そう言いながらとばりは私に背を向けた。その小さな肩は震えていた。私は却ってとばりを傷つけているのかも知れない。私がいることで、私の存在そのものがとばりの心に、深い傷を何度も言わせているのかも知れない』
私は彼女に言った。私たちの関係ってそうだったのと。彼女はしばらく考えたあと複雑なんだよ色々とねと、それ以上は口では何も教えてくれなかった。だが以降日記は勝手に見ていいと言ってくれた。私はロックがかかっているものはと聞くと見てもいいけれど内容はかなり酷いと言っていた。
それから私はくる日もくる日も日中、彼女のデスクで彼女の日記を読み漁った。大抵のものは大したことのない日常であり、変哲のない何気ない記述ばかりだった。となると気になるのはやはりパスワードの掛かっている日記で、パスワードまでかけてた日記を何故彼女は私に見せてくれるのだろうか。パスワードは聞かなくとも簡単にわかってししまう、彼女自身の誕生日だった。
『遊びにしろ日記を書くにしろ勉強にしろ、深くのめり込めばのめり込むだけ嫌な気持ちになる。周りはそんなことないというけれど自分は何事にもおいても劣っていている。自分のちっぽけさに気づく。決して大きくなろうとは思わないけれどせめて中くらいにはなりたい。完璧主義とまではいかないけれど並大抵ではありたい。今はそんな気持ちだ』
この日記はそれだけで終わっていて、この時の彼女何か自己嫌悪にでも陥っていた。私はもっと昔のパスワードのかかった日記を見ることにした。
『どばりとろかの後ろをついていった。とばりはろかと楽しくおしゃべりをしていた。私は後ろからついていくだけで仲間に入れなかった。いつもとばりはろかとだけ楽しそうにおしゃべりしていた。ろかが私に「一緒にかがりもおしゃべりしようよ」と誘うととばりは不満げな顔をした。三人ってどうしてこんなに難しいのだろう。とばりと二人の時だけはちゃんとお話してくれる。でも三人となると私は邪魔者扱い。私はとばりが好きなのに』
『今日は帰り道で、三人で影ふみをして遊んだ。暑い夏の日だったから日陰は少し涼しかった。校門をでてすぐの家がいっぱい並んだ場所にはたくさんの影があった。それを一歩ずつ大股で進んで、遠い場所は勢いよくジャンプしなくちゃいけなかった。たまにろかととばりが失敗して日向を踏んでしまっても、私だけが難なくクリアしていった。私は背が高く脚が長かったから。夕方になると涼しい風が吹き、影は大きく伸びどんどんと深くなっていった。そうなると影踏みは終わりで、私とろかはどっちが足が速いか競走することになった。距離は大体百メートルで、小さい交差点の場所までだった。とばりの「スタート」と同時に私たちは全力で駆け出した。途中まではいい勝負だったが、半分が過ぎたころろかのスタミナに圧倒されはじめた。私は負けたくないと必死でろかの横に張り付きゴール間近、私らは脚を絡めてしまい転んでしまった。その様子をみたとばりが急いでかけよってきて、カバンの中から絆創膏を取り出した。けれどそれは最後の一つだと言った。体の大きくて丈夫なかがりよりも体の小さなろかの方が怪我が大変だといい、擦りむいたろかの膝にとばりは絆創膏を貼った。出血量は私の方が多かった』
私は彼女に聞いた。ろかって誰かと。彼女はソファーでスマートフォンをいじりながら平静を装った声であなたの昔の友達と言った。その声はいつもよりワントーン低く、明らかに篭って聞こえた。私は何故同様しているのかと訊ねると、ろかはとばりを奪う憎い奴だったからね、その記憶が蘇ったのと返した。それから私は比較的最近の違う日記を読みはじめた。
『今日は三人で高台から夜景を見る予定だった。私は二人の恋仲に気を使い、先に一人でとばりの家を出て、わずかに遠目に見える仄暗い山に向かって足を進めた。広い住宅地を横断し、山道に差し掛かるころ、道標となっていた街灯が途絶えた。暗くおぼつかない山道を懐中電灯で照らし、そこそこ急勾配の軽く舗装された坂道を歩いた。三十分そこら歩けば目的地の高台に到着し、そこから一望できる景色は正直言って私には何の特別感もなかった。
二人はなかなか姿を見せなかった。今頃手を繋いだりして話に花を咲かせながらゆっくりと登ってきているのだろうか。何故私が誘われたのかわからない。ろかはみんなで行こうと言って、とばりもそれに嫌な顔せずに賛同した。私が自分で勝手に気を使って落ち込んでるいだけ。いつだってそうだ。二人は私をけっしてのけものにしないのに、自分自身がのけものにしている。
二人はようやく現れた。
「かがりなんで先に行っちゃったの」ろかは言った。
「先に一人きりで景色を見たくなって。一人と皆とで見る景色はどこかこう違って見えるでしょう」私は心にもないことを言った。
「かがりは昔から一人が好きだよね」とばりが言った。
私はまったく一人が好きなんかじゃない。二人が昔から特別に仲がいいせいで私がなかなか軸に入れないだけだ。そして今や二人は恋仲になってしまった。ろかは私が仲間外れにならないようあれこれ尽力しているが、私はいったいどうすればいいというのか。
私らは横並んで夜景を見た。真っ暗な住宅地の中で一際高いマンションだけが明かりを灯していて、その背景には広大な街が広がっている。いつくもの車が脈々と伸びている道路を行き交い、数々の建物がキラキラと光を放っている。大きく横切る高速道路の向こう側には海が見え、灯台の赤い光がぽつんと寂しげにと点滅を繰り返している。
とばりは景色を堪能していた。その瞳に街の光を映し、手はろかと繋がれていた。私のほうには一切目もくれず、たまにろかと顔を見合わせてはにこやかに笑い、恥ずかししうな表情を見せては手を深く握りなおした。
ベンチに移動していた私はそんな二人の様子を眺めていた。とばりとろか。背丈はほぼ同じで、少しだけろかの方が高い。二人とも本当にほっそりとしていている。かくいう私が一番痩せている。
私は写真を撮ってあげることにした。二人は指を絡めあい、空いた手でピースを作り、煌びやかな街を背景に満面の笑みを浮かべた。とても自然だった。ありのままの姿で、リラックスしていて、もしこの瞬間ろかではなく私がとばりの隣にいられたらとふと思ってしまった。
帰りは三人で降って行った。ろかは「また近いうちに三人で来ようね」と言ったが、とばりは同意しつつその発言にどこか切なげな様子だった。私のもう正直、何かが起こり三人の仲がバラバラになってしまえばいいとさえ感じた。とばりはろかのもの。もしとばりが私に振り向いてくれるとしたらそれは天地がひっくり返りような出来事が起こったときだけだ』




