第三部前編
気分の落ち込みが酷かった。些細なことに苛立ちを覚えた。お手洗いのあと、レバータイプの水栓に手を伸ばした際に、水の勢いが強すぎて水滴が袖に跳ね返ってきた。別に汚れるわけじゃないけれど、その激しい水圧のジャーという耳障りな音と、手にあった洗剤をポタポタと周囲に撒き散らす様にふと目に前にある鏡を、いや、鏡に映る私自身を殴りたくなった。お風呂にももう二日も入っていなかった。服の外側はソファーやベッドから染みついた良い香りを振り撒いているのに、その内側では柔軟剤と代謝で熟成されたむわっとした匂いが閉じ込められている。手癖でふと襟元を整えると、ふわっと立ち上がってくる匂いが、今の自分の疲労感と堕落した現状を自覚させる。
今日もお風呂に入る気はさらさらなかった。ある本にはお風呂に入れないのは見落としていけない重大なサインだと書いていいて、その内容も大袈裟に書かれていた。背景には鬱やその他疾患、セルフネグレクトなど昨今よく目にする病名があるらしいが、私は鬱かはともかくセルフネグレクトなどありえないと思った。鏡の自分を殴りたくなったのは決して自身を痛みつけるわけではなく、自分を律したかったのだ。健康のためといいジョギングに勤しみ膝の軟骨をすり減らす人や、食が大好きで美など顧みずもせず異常に太っている人、その逆で彼女のように痩せ細っているのを美とするその感覚。私からすればどれも自分に負を負わせる行為でセルフネグレクトに違いない。重要なのは自分がどう感じていて、何故そのような行為に至ったのかはっきりとしていればそれはセルフネグレクトではないということだ。
私がこの話を彼女にすると彼女はごもっともだと言った。けれどそのあとにあなたは鬱だと付け加えた。過去に何度もその傾向や症状が出ていて、昔は私は精神科に通い詰めていたそうだ。通院することさえもままならない時期もあり、今はたった二日しか入っていないだけのお風呂も二周間、三週間さえも入れない時期があったそうだ。季節に変わり目に再発あるいは症状が重くなることが多く、そう言えば今は夏と秋のちょうど真ん中だった。だから彼女は私を別に匂いだどうだからって私を不自然に避ける必要もないし、もし自分を傷つけたくなったのならそれは現状からの戦略的撤退とでも思っていれば良い。あなたの左手首の常につけているブレスレット。丈夫さが売りだけの質素な物だけどつけているのには訳があって、手と手首の境目に深い皺があるでしょ、彼女がそういうと私はその皺があることに今気づいた。彼女は続けた。昔あなたが台所にポツンと立っていて、右手に包丁を持っていた。そんなあなたをたまたま見つけた私が手首を切るのと問いかけるとあなたはうんと答えた。また私は質問し、死にたくなちゃったと聞くとあなたはいいえと答え、なんか手首を切りたくなったのとだけ言った。それから私は包丁を取り上げ、代わりにカミソリを渡した。死にたくないのならカミソリでやることと、また切りたくなったら同じ場所をやること、これは私との約束。そうしたことで今のあなたの腕は傷だらけにならずに綺麗な状態を保てているし、ちょっと目立つ傷跡もブレスレットで隠せる。あなたがブレスレットをつけているのは実はそういう訳があったの。
私は言った。もし私が今再び同じことをしようとしたらあなたは止めるの。彼女はすかさず返した。今のあなたにそんなことをする理由もないし勇気もない、くだらないこと言ってないでせめて洋服でも着替えてみればどう。私は服を着替えるくらいならいっそのことシャワーでも浴びてスッキリした状態で服を着たいと思った。でなければベドベドした肌触りを服で包むことになってしまう。結局私はシャワー浴びにお風呂場へと向かった。
私は頭からシャワーを浴びながら考えていた。自分がかつて鬱病だったこと、そして現在その傾向にあること、そして間違いなく私が思っているよりも彼女は私について詳しく知っている。私が私自身を深く知る手掛かりは彼女がいつも肌身離さず持ち歩いている記録媒体のなかだ。しかし彼女が容易に見せてくれるとは思わないし、なにより今は私は私に興味があまりなかった。さっきの話を聞くに過去を知ることは悪ことばかりだと思う。私はシャワーを終えると何となく彼女に聞いた。あなたがいつも書いてある日記の中身を見せてよと。ソファーでダラダラくつろいでいた彼女は一瞬表情を曇らせ、天井を見つめたまま、見ない方がいいと言った。日記と言ってもそれはあなたにとってはポエムのようなものかも知れない。そんな恥ずかしいものを人に見せたくはないでしょう。そこで私は提案した。今日から私も日記を書く、だから一日ごとに、一日分の日記を交換しようと。彼女は乗り気ではなく、その後の意図的な駄弁にこの話はうやむやにされたてしまった。
今日の天気は空全体を覆う曇り模様だった。遠くに見える山々の緑もどこか色褪せ、私の感覚ではロシア文学を読んでいるときに頭の中に描かれる景色の色合いそのものだった。雲のベール越しに太陽が真ん丸と薄白い光を放っているが、それはぽっかりと空いた穴のようで、この辛い現状から逃げるための出口のように感じられた。それはある種の希望の光である一方で、決して届かないところにある、つまるところこの現状からは逃れられないことを私に突きつけていた。そんな心の動きを通して、私はこの現実と向き合い、現状と上手く付き合っていかなければならないと思った。
しかしどう付き合っていけばいいのか。部屋の中を徘徊するたびに家具がぐわんぐわんと歪み眩暈が起こる。ソファーに腰を深くかけるたびにこうでもないそれでもないと体勢がしっくりこない、そのまま重力に身を任せ深く沈み込むと気分も一緒に底に落ちていくようだ。負の感情が胸奥でぐるぐると渦巻き、心拍と換気を加速させ、胃をギュッとつかむ。彼女は私にお構いなしだった。コーヒーが切れるたびに冷蔵庫の扉をパタンと開け閉めし、季節の変わり目はみんな気分が沈むものだ言った。私はその些細な音と言い方に腹が立った。その心配さえ微塵も感じない態度にも同様に。彼女はあなたの症状は私や他の人たちよりも重いかもしれないけれど、それは過去に何度も経験していることだし、そのときのあなたは笑ってさえいたと言った。
この時初めて私は彼女のことが嫌いになり邪魔だとさえ思った。私はコーヒを片手に突っ立っていた彼女に近づき、苛立ちを抑えきれず部屋から出ていってと強く言った。隣の一室を勝手に使っていいからと言ってそこで何時間か過ごすように促した。彼女は慣れた様子でノートパソコン、コップ数個とコーヒーをいくつか袋に詰めると夜までには戻ってくると言って、平然とした様子去っていった。私はこれでようやく鬱憤が一つだけ消えたと少しだけ心を落ち着けた気でいた。視界に映るのは本棚やテーブル、椅子といった家具や、側面に広がる壁と天井の点っていない照明。そして空っぽになっていた彼女のデスクだった。この時間帯ならばコーヒー、コップが数個とスリープ状態まま開いたノートパソコン、それから本を読んでいるかスマートフォンをいじりながら映画を流し見にしてる彼女がいた。
私はしばらく眠ることにした。ベッドに移動すると毛布を頭の上まで被り込んだ。少しだけ心地の良い疲労感が押し寄せ、五臓六腑、手足の先まで全身がじわんわりと暖かった。うとうととし始めたのはいいもののあまりにも静かなこの部屋はかえってノイズとなった。今まで心地の良かった環境音は私が遠ざけてしまったのだ。気づけばじんわりと暖かった全身が鉛のように重くずんとベッドの奥へ奥へと束縛されていった。手足が動かなくなりごーごーという耳鳴りが私の蝸牛を襲った。唯一目と口だけがかろうじて動かせる状態で、隣の一室にいる彼女を呼ぼうにもお腹に重い錘がのっかているせいで声が全く出せなかった。そのままお腹の錘はベッドと割るようして床ごと突き破っていった。私は酷い重力に抑えつけられながらその穴に自由落下していった。周りはどこまでも広がる暗黒の空間で満たされていて、私はただただ落下していくばかりだった。わけのわからないこの状態にも涙腺は動かず、私の全身はぎしぎしと伸び縮みしながら、収縮、圧縮されていった。
ふと気がつくと私はベッドの上で汗だくだった。彼女はちょうど扉を開け帰ってきたところで、ただいまと言った。私は息の切れた声でおかえりなさいと返すと彼女はどうしたのそんな汗だくで息を切らして、気晴らしに運動でもしてたのと、少しだけ心配する様子になった。私はまともな精神のあなたには決して経験できることのないことを体験してただけと返した。彼女は貴重な体験じゃないといい、どんな体験だったのと返した。私はまるでレールから放り出されたジェットコースターに乗っているかのような感じだったと言った。それから彼女はいつものようにデスクへと向かっていった。
夢を見た。どんな夢だったかはもう覚えていない。上体を起こすと、心臓のあたりがずっしりと重く、ひどく呼吸が乱れていた。
ソファーで丸くなって寝ている彼女の背中を横目で見ながら、呼吸を落ち着けようとした。肺いっぱいに空気を充して、ゆっくりと吐く。吐くときのスピードは吸ったときの二倍。副交感神経を優位にし、リラックスを促す。それでも脈動は落ち着くどころか、増していく。
喘ぎをあげる荒々しい自分の呼吸が、遠くのほうから聞こえてくる。世界が遠のき、手足の感覚がなくなっていく。視界いっぱいに広がるホワイトノイズが私という一点に向かって一気に収束していく。
気づけば私は床に座り込み、彼女の腕の中にいた。顔を埋める私の口に、指先が割って入ってくる。彼女は気分が落ち着く薬だからと言って、それを噛み砕くように促した。すると次第に体の収縮が解れ、遠のいていた感覚が戻ってきた。彼女の抱擁はなんというか、私の震える肢体を優しく抑えつけるような、そんな感じの抱擁だった。彼女の服を強く握りしめながら、私は尋ねた。変な薬じゃないよねと。彼女は澱のない声でただの抗不安薬と睡眠薬だと返した。それから、症状が酷かったから、けっこう強めのだけど、と付け加えた。呼吸が荒いことには気づいていたけれど、てっきり思春期によくやるあれかと思ってた。だから助けるのが遅れちゃってごめんねと、彼女は言った。私は返した。そういうのは普通は一人きりのときにすから。落ち着けてくれてありがとう。彼女はすかさず言った。一人のときはそういうことしてるんだ。私のもすかさず返した。そういう意味じゃない、そうことを直接聞いてくるのはやめて。彼女の笑いながら言った。ごめん、そう言う冗談好きじゃないのは知ってるけれど。
私は彼女から離れ、ベッドに座った。彼女はその場から立ち上がり、デスクへと向かった。椅子に腰掛けた彼女の長い髪の毛先が腰あたりで散らばっているのを私はじっと見ながら、彼女がノートパソコンに日記を書き込む音をずっと聴いていた。カタカタという一定のリズムが途切れることなく、何十、何百、何千という文字を入力していく。たまに止まったと思えば、彼女は休む間もなくすぐに入力を再開した。三十分、それくらいが時間が経だろうか、意識が朦朧としてきて、私は何故だか陽気な気分になってきた。私は彼女の元へふらふらとした足つきで行き、彼女の肩に顎を乗せながらノートパソコンの画面を覗き込んだ。ふにゃふにゃした文字が画面のあちこちに行ったり来たりしているのを目で追って楽しんだ。私はこれなんて書いてあるのと何度も何度も彼女に訊ねたが、彼女は日記に集中していて淡々とした返事ばかりが返ってきた。そのカラッとした彼女の応答がどうしてか面白おかしく、私のだる絡みは止まらなかった。つにめんどくさくなったのか、彼女はノートパソコンを閉じ、私は彼女の介助を受けながら再びベッドへと連れていかれた。そして座らされ、ベッドに寝かされ、布団を被せられた。私は彼女にいくらか文句をたれたが、彼女はやれやれと言って無視した。
朝、私は違和感に気づき飛び起きた。自分の着ていた服のボタンが全開で、着こなしも大きくはだけていた。私は彼女に問い詰めた。昨夜あなたに薬を飲まされてからの記憶が曖昧だと。そして私のこの有り様なにと。朝までデスクで作業をしていた彼女は立ち上がり、振り向き背伸びをしながら言った。それね、あなたが眠りそうになったとき暑いといって自分でやったの、覚えてないの。それを聞いて私はさらに問い詰めた。あなたにベッドに連れて行かれた、そこで四肢を押さえつけられ、抱きしめられた感覚も鮮明に覚えている。彼女は言った。順序が逆、それに四肢を押さえつけてるように抱きしめていたのはあなたが酷いパニック発作を起こしていたから、それも忘れちゃったの、あなたは勘違いをしている。私はすぐさま彼女のノートパソコンの書きかけの日記を確認した。彼女の言うようにこれら全ては私の勘違いだった。私は彼女に謝ると彼女は日記を改竄してるかもよと悪戯に笑った。




