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日常日記  作者: ろか
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第二部

 夏バテで食欲がないのか、それとももともと食欲がないからそんなものなのかを彼女と話しているところだった。テーブルに突っ伏している彼女は私たちはもともと少食だからといって話を終わらせにかかったが、私は夏バテだと主張した。以前よりも一つの動作をとるたびに、わたしたちで言えば水分を補給したり、トイレにいったり、タバコを買いに行ったり、するたびに疲労感に襲われる。それに最近痩せた気がする。それは彼女も含めて。

 私は風呂場の近くの隙間にすっかり放っておいた体重計を引っ張り出してきた。埃を払いそれを彼女の前に置いたが、彼女は面倒くさがって立ちあがろうとしなかった。私は彼女の腕を引っ張り強制的に乗せた。数字は五十一を表していた。彼女に身長を訊ねると百七十弱と答え、それは明らかに低体重だった。乗ったのだから、次はあなたの番といわれ、私も乗った。五十四キロだった。その数字を見ると彼女はふっと笑い、私よりも遥かに数センチ低いのに私よりも重いのと彼女は言った。私はいったいって標準体型なだけ、標準の中でも痩せてはいるし、低体重のあなたのほうが問題、低体重を何とも思わない感覚は今のあなたにとってはよくないと至極真っ当に返した。

 体重を知ったものの、そもそも私たちは元の体重をここ数ヶ月測ったことがなかった。ゆえに比較できることはなく結局この議題は消えていった。

 その後、彼女は再びテーブルに突っ伏したなま動かなくなった。私はソファーへ腰をかけそんな彼女に何をしているのかと聞くと、彼女は瞑想をしているから邪魔をするなと言った。そのとき私は何を思ったのか彼女の瞑想とやらの妨害をしたくなり、気が散りそうな質問を繰り返した。初恋の相手はどんな人だったのか、彼女は私よりも三キロ体重が重い人と言った。ファーストキスの相手は誰だったのか、彼女は瞑想の邪魔をするようなうざいやつと返した。今好きな人はいるのか、彼女は無意味な質問繰り返すとてもとても素敵な人と彼女は言った。私は素直に降参し質問をやめた。

 夜になり深夜に差し掛かるころになっても私たちは固形物をほとんど口にしていなかった。食べたものと言えば栄誉食のゼリーと桃の缶詰を二人で一つ、それ以外は私は水で、彼女はコーヒーだった。

 部屋の明かりを落とすとようやく彼女は動き始めた。もちろん向かう先はデスクであり、私のほうはベッドに寝転がった。壁に向かって姿勢を整え、彼女がノートパソコンを広げ作業を始めた音を聞いた。カタカタと規則的に叩く音は文字入力、カタタンと連続で鳴る音は改行、タンと弾くような音はエンターキー、その数々の配分は恐らく何かを書いていた。一瞬、彼女はライターでもやっているのかと思ったが彼女はそんな器用なことはできないし仕事はずっと前にやめていると言っていた。それなら散文でも書いているに違いないと思ったが内省するタイプでもない。いずれにせよ私にはは関係ないことで、睡眠の邪魔にさえならなければなんでも良かった。

 

 某日。冷蔵を整理していると、無数の賞味期限切れの品々が出てきた。多くは果物の缶詰だったが、納豆やスナック菓子、ソースといった面々も出てきた。消費期限切れではないので、食べるかどうか迷っていたところに彼女がやってきて、彼女はもったいない、食べれるから大丈夫だと言って、テーブルの上に賞味期限切れの品々を恣意的に並べ始めた。彼女は全て並べ終わるとどこに隠しもっていたのやら、お酒の入った大きいサイズの瓶を持ち出し、それを自分の座る場所の前に置いた。

 私は彼女の正面に座り、普段食欲はないのにこういうときは食べるんだ、お酒を飲むことを知らなかったと言うと、彼女はお酒は久々とだけ答えた。彼女はさっそくコップに一杯お酒を軽く注ぐとそれを一気に飲み干した。私はそれって割って飲むものじゃないのかと問いかけたが、彼女はストレートに限る、本来の味や風味が失われるではないか、それにアルコールが鼻腔をくすぐる感触が好きだと言った。私はスナック菓子をおもむろに齧りながらそんな彼女の戯言を聞いていた。彼女はというとそれから何度もお酒を軽く注いでは飲み干す行為をそこそこのスパンで何度も続けた。さすがに急性症状が出てしまっては困るからと言って私はもう少しゆっくり飲みなよと提言した。それでも彼女は一向に言うことを聞かず、それどころか間隔はどんどん短くなっていくばかりだった。次第に彼女の頬は赤く染まっていった。

 しかし彼女の表情は至って冷静だった。いや冷静どころではなく冷静そのものだった。お酒の作用か否か、目はややジト目にはなっているものの、私のほうに真っ直ぐと視線を当て、口数はほとんど減っていた。割り箸も綺麗に割りってみせて、私が広げていたスナック菓子に箸先を伸ばすと、それを一つ器用につまんだ。それから自分の口に持っていくと思いきや、私の口元に差し出した。やはり彼女は酔っていた。彼女がスナック菓子を一つずつ私の口に運ぶたびに、私はそれを食した。もういらないと言っても聞かず、彼女は口を開いたかと思えばもっと太りなさい、あなたは痩せすぎなどと自分を棚に上げた。

 酒飲み特有の昔話が始まったのは彼女が丸々一ビン開けてからだった。そのときになって彼女はようやくスナック菓子を自分も食べ始めた。昔はとばりはいい子だった。愛想が良く、とても元気でインドアな私を毎週のように外へどこかへ連れて出かけた。常に誰に対しても笑顔を振り撒き、みんなから慕われるくらいの礼儀の良い子だった。深夜私がデスクで作業を終えるまでのあいだずっと見守ってくれて、一緒にベッドに入るまで眠ることは決してなかった。実は大の寂しがりやで、好きなものにはとことん一途で、それは恋人である私にもそうだった。ファーストキスのときに、ふと迫られたあなたがどんな顔をしたのか今でもずっと覚えてる。一線を超えた日のこともけっして忘れることはない、頭の中に鮮明に感触が残っている。

 私は話が変な方向に行き始めると残ったスナック菓子を手いっぱいに掴んで、それを彼女の口いっぱいに詰め込んだ。彼女はスナック菓子をボロボロと溢しながら咀嚼しながらはしたなく、ごめん冗談が過ぎた、でもすべて本当のこと、すべて記録している、いや実際のところ私は嘘つきだと言った。私は知ってる、この手の冗談は聞き飽きたと言った。

 そのあと彼女はテーブルの横にパタっと倒れこむようにして眠ってしまった。私はテーブルの上にあるものを全てをゴミ箱、ゴミ袋へと片付け、湿ったタオルで綺麗に拭いた。私たちが食べたものといえば結局スナック菓子一袋だった。そしてそのほとんどは彼女が私に食べさせたものだった。

 

 珍しく日中彼女はデスクで何やらカタカタとキーボードを叩いていた。鼻奥で小さく唸りをあげながら、何度かため息を吐いていたりもした。そんな彼女の様子を見たのは初めてで、私はどうしたのと近くによると彼女はパソコンの調子が悪いと言った。具体的にはキーボードの接触感と、動作があまりにも遅くなっているとのことだった。

 それから彼女は再びキーボードを何度も叩くように強く押したり、開いていたタブを全部閉じて動作を試していた。それでもやはりダメで彼女は、昨日までは平気だった、と少し苛立ちをあらわにしながら、時折その言葉を繰り返した。私はもう何年も使い続けてきたから壊れたんじゃないのかと聞くと、彼女は耐久年数はとっくに越してるしそれからも不調なかったし、それに定期的に分解してメンテナンスを行っていたと強く主張した。しかし実は最近はそれを怠っていたそうだ。この夏猛暑の続く日々で、エアコンにある部屋にしか置いていなかったとはいえ熱でやられたとの結論だった。

 それならさっそくと彼女はその寿命間近のパソコンでインターネットを開き、ノートパソコン、小型、高性能と検索した。私には詳しくはわからない、恐らく各パーツのスペックやらがずらりと出てきて、それら一つ一つを重い動作のなか、彼女はクリック先を間違えず、余計なページを開かないように、丁寧に閲覧した。彼女がなかなか気にいるのがないと言いページを追うことに動作は重さを増して行った。ついにパソコンが限界を迎え動かなくなるとそこにはあるノートパソコンが、高スペック、お得、割引などと言った文句と共に画像として載っていた。色は真っ白のさらさらとした質感だった。

 彼女はそれをしばらく眺めると、ここで止まったのは運命に違いない、このパソコンが気に入った、これに決めたといい、値段はおよそ五十万弱、正直彼女には相当重い金額だった。彼女はそれをわかってはいるものの諦めきれない様子で、なんと私にねだってきた。来月私の誕生日だから、そこでのプレゼントとして早めに買っておくのはどうかなと彼女は言った。

 私は冗談でもそういうこと言うのは良くないと咎めつつ、何をしているのかわからないが彼女の日課のデスクでの作業ができなくなるのも可哀想だった。彼女の再三の催促、そして土下座する勢いのお願いにおれ、それを買ってあげることにした。

 後日パソコンが届くと彼女は大喜びした。包装はボコボコに開け散らかし、パソコンだけは丁重に扱いながらデスクの上に置いた。

 彼女は私に買ってもらったそれを自慢するかのように言った。最新のCPUとマザーボード、四テラバイトのSSD、そこまでは私は何となく聞きながらしていたが、彼女は続けて、最新世代のグラフィックカード、メモリ三十二ギガバイト、その言葉を聞いた瞬間私は冷ややかな口調で尋ねた。あなたって三次元デザイナーか何かなの、彼女はいいえと言った、良い画質で映画を見るとかにしてもそんな高価なグラフィックカードが必要なの、彼女はいいえと言った、じゃそのノートパソコン返却して安いやつ改めて買おっか、彼女は頑なにも最後までいいえと貫いた。

 

 昼下がりあまりにも暇だったので外を出歩くことになった。とはいっても遠出をするわけではなく、住宅地を散歩するだけだった。この夏久しく太陽の日を浴びてなかった私たちは揃いに揃って肌が焼かれていようだと言った。

 私たちは家々の影を縫うようにして歩いた。影が途切れると眩い光に瞼が下ろされた。家屋のほとんどは築数年から十数年といった具合の綺麗さで、通りにはまったくといっていいほどゴミが落ちていなかった。こんなあつい日には猫一匹さえも姿を見せず、道端の雑草たちもどこかへなって見えた。

 途中、家とは思えないほどのボロ屋がポツンと小さく四つ角の脇に立っていた。二階建てで、屋根は虫食いにあったかのようにところどころに穴が空いていて、壁の塗装は色褪せ一部壁ごと崩れ落ちているばかりかそこには数枚の板を貼って補強していたが、完全には塞ぎきれていなかった。窓ガラスにはガムテープが張り巡らされていて、玄関の扉はどこに行ってしまったのやら、中では隙間から日光が差しこみところどころが薄く照らされて見えた。こんな風になるまで大切にされていた家にいったい誰が住んでいたのやら私たちは話していた。彼女は気のいい婆さん住んでいて、きっとそこは猫の溜まり場になっていて、獣の臭さと糞尿の匂いで酷かったに違いない。それでもその婆さんはその猫たちを大切にし自身で作った残飯を与え続け、猫たちは繁殖に繁殖を重ね大所帯になっていたとさと語った。

 よくもまあボロ屋からそんな想像が生まれるものだと私は感心した。私たちは少し大きな公園を目にした。すると彼女はこんな場所があったのか知らなかったと少し興味をもち入っていった。遊具がいくつかあり、象を模した滑り台しかし鼻は折れている、ジャングルジムやブランコといった基礎的なもあったが酷く鉄くさい、そしてどうしてそうなってしまったのやら造形から察するに白色になってしまっているパンダと黒色になってしまっている白熊のスプリング遊具と言った面々あった。彼女は今にも崩れそうなブランコに大胆に乗り、ギコギコではなくギシギシと漕ぎ出した。鎖をがっつりと素手で触り、それから満足すると彼女はその手で汗を掻いた額を拭った。

 住宅地がゆらゆらと影に染まり始め、私たちは一番背の高い建物、私のマンションを目指して踵を返した。ようやく少しは涼しくなってきたのやら虫たちが草木に隙間から薄っすらと顔を出し始め、蝉はミンミンと、コオロギはりんりんと、そして謎のほーほーほーという鳴き声が聞こえ始めた。

 家に帰り着くと彼女は汗びっしょりだった。私はすぐさま彼女を風呂場に押し込み、そしてシャワーを浴び終えた彼女は服を着替えていた。そういえばどの季節にも関わらず彼女はいつも胸元の狭い服を着ていた。

 私は彼女に冗談で隠す胸もないのにどうしてそんな服ばかりなのかを聞くと彼女はこう言った。私の胸の真ん中、心臓がある場所に大切なものがあると。私は目を凝らすと、彼女の白いシャツの平坦な両胸の真ん中に小さな凹凸があるのを見つけた。彼女は胸の中に手を入れるとそれを取り出した。銀の鎖のネックスの先に、何かを収納するごく小さなプラスチックケースがあった。私は中身を尋ねると彼女はマイクロSDだと答えた。

 彼女はプラスチックのケースからそれを取り出し私の眼下に差し出し、何が入ってるのか知りたいかと言った。私は中身には興味はないが、何故そんな大切そうにしまってあるのかだけを聞いた。彼女は大切なものを忘れないためだからと言った。それに私はすぐにものを無くすから肌身離さず持っておかないといけないでしょと、付け加えて言った。私は中身など知りたくなかったが、彼女が毎晩ノートパソコンに何かを一生懸命記録している媒体であると理解した。私は冷蔵庫にコーヒーを取りに行き、コップに注ぐとそれを彼女に渡した。彼女の好みのミルクや砂糖の一切のない無糖ブラックだった。彼女が不思議そうな顔でそれを受け取ると私は言った。今日は久々に外出して太陽に焼かれながら一緒にこの閑散とした町を半日中歩き回った、だから書くことがたくさんあるでしょうと。よく考えずとも簡単にわかることだった。夜私が就寝する前彼女は毎日デスクに向かい、日記を書いていたのだ。彼女に興味に惹かれないばかりに考えもしなかった。それに知ったからと言ってどうこういうつもりもなかった。

 私はベッドに寝て、照明を落とした後深く沈む込んだ。彼女はいつも通りデスクに向かいノートパソコンを開いてカタカタと文字を入力し始めた。私は目を閉じその規則性のある打鍵音を聴きながら眠りにつくこうとした。ただの変哲のない日常を一緒に過ごしているのに何をそんなに書くことがあるのだろうか。少しずつ気になり出した彼女の日記の内容に意識が持っていかれ、いつもなら小さな雨音のようにそこそこ心地よく眠れいた打鍵音も今日はどこかうっとおしい感情に変わっていった。

 朝日が瞼を刺し、眩しさで目が覚めた。私は日差しから逃れるためデスクのほうへと上体を捻ると彼女は未だ腰をかけコーヒーを飲んでいた。あれから五時間経つというのに彼女はずっと打鍵音を部屋の一室に響かせ、ノートパソコンに向かっていた。机にはコップが六個も横並んでいて、彼女が深夜カフェインをかなり摂取し集中していたことの現れだった。コップは一つを使ってと何度も言っているのに、自分が洗うからと言って未だ聞いてくれない。私は再び口論する気にもならなかったので残り二時間眠りについた。

 

 私が大きな花火を近くで見たいと唐突に言い出すと彼女はまたかと言った風に肩を落とした。この話題は過去に何度もしており、そのたびに彼女は諦めろといった。そもそもあなたはは人混み酷く苦手だし、何時間も先入りして待たなきゃならない。そんな体力あなたもだけど私もない。近くで見たって遠くで見たって迫力は違えど美しさは変わらない。どうしても見たいのならマンションの屋上から遠目に見える花火でも見ていたらいいと彼女は言った。でもと反論しようとすると、何より路上喫煙禁止だからと制された。

 正直、彼女の言っていることは概ね正しくて、花火は大きさなんかじゃない。心が動かされる、それが重要。と言うことで私はせめて手持ち花火だけでもと彼女にせがんだ。彼女はそんなの一人でやれと言いたげな顔をしたが、まずは買いに行かなきゃならないなとコンビニに行くことにした。

 時刻は二十四時を越えたあたりだった。住宅地は普段から人がいないせいか昼とあまり変わらない静けさで、外灯がポツンポツンと行く先を照らしているかのようだった。いくつもの角を曲がり、くねくと奥に伸びていく道を前へ前へと進んだ。十数分歩いた頃だろうか、住宅地と住宅外の境界線を示す、横に流れる少し大きめな道路の向こうに側にコンビニがある。

 客は私と彼女の二人だけでレジの裏の方から気怠げに店員が出てきた。私たちはまず雑誌などが置いてある、ずらりと並ぶ雑貨棚を探した。しかしどこにもなく、私たちはついでだと言って一個ずつ新しいライターを手にした。次は子供用のちょっとしたおもちゃ売り場の棚を覗いたがやはりここにもなかった。となるとレジ前等に置いてないかとそちらに期待したが結局どこにもなかった。彼女は仕方ないといい、せっかくきたのだからアイスでも買っていこうと言った。私は百円そこらの氷にレモンを染み込ませただけのアイスで安く済ませた。一方で彼女は三百円以上もするどこのメーカーかもわからない謎のアイスを手にとった。会計中、私と彼女は自分のお気に入りのタバコを買った。休憩していたところだったのか、はたまた会計が別々だったのがよくなかったのか、店員は少しイラついているように見えた。

 帰り道の道中、彼女はある一軒家の外壁に背を預けると、ここで一服していこうと言った。私は路上喫煙は良くないと諭したが、いいもの見せてあげるからと言って言うことを聞かなかった。彼女がすい始めたので私も吸うことにした。いいものって何と私が聞くと彼女はほんの一瞬だけど線香花火くらいなら見れるといい、半分まで吸ったタバコの先端を外壁に押し当てすっと下に擦った。すると散乱したオレンジ色の光が刹那の間、線香花火のようにピカッと光り、地面へと消えていった。私はそれを見て決して花火じゃないけれど線香花火よりも遥かに短く儚いオレンジ色の光に綺麗だなと感じた。私も一本吸い終えると同じようにやって見せて、彼女も綺麗だと言った。そしてチェーンスモーカーの私が何回かそれをやっている最中、彼女はずっとアイスを食べながらあまり美味しくないなと何度もぼやいていた。

 

 寝起きに水をとりに行った時のことだった。冷蔵庫を開けるとふと彼女の常用しているブラックコーヒーに目が行った。私は悪いなと思いながらそれを手にした。五百ミリリットルのちょうど手に収まるサイズの、飲みやすそうな形状だった。いつも私の水を勝手に共有しているのだからお互い様だ。

 私は彼女の真似をし、どんなものかと体感するためベランダへと出た。タバコに火をつけ咥えた後、空いた両手でキャップを外す。それから一吸い目を味わう。彼女は左利きだから私は左手でタバコをたどたどしく扱い、右手でコーヒーを一口味わう。口内に泥のような苦味が満ち、鼻腔へと充満するとともに香ばしい香りとなって鼻先を抜けていく。ブラックコーヒーは苦手だが、市販程度の苦さなら何とかなった。タバコとコーヒーの配分は一対一。十回吸うとして五十ミリリットルずつ飲めばちょうどいい。コーヒーを飲み終えようとするころになっても、タバコはまだ三分の一ほど残っていた。

 私は部屋に戻るとあまりパッとしなかったなと思った。彼女は起きてくると冷蔵庫からコーヒーをとりベランダに出た。彼女は私が模倣した動作と全く同じ動きをしながらブラックコーヒーを嗜んでいた。そんな様子を私はようやく空いたソファーから眺めていた。いったいブラックの何がいいのだろうか。そう考えているうちにどこか自分の息遣いが荒く聞こえた。心拍も普段よりも高めで、ドキドキと胸のあたりを叩いてくるのがわかる。

 私は冷や汗をかき始めた。いったいいつもはどこに視点を置いているのやら焦点が定まらなくなり、目はぐるぐると回った。彼女はベランダから出てくるやいなや、そんな私を見てコーヒー勝手に飲んだだろと言った。彼女は笑いながら、カフェインに過敏なのだから摂取するのはよくないと、私が記憶から消えてしまっている事実を告げた。私はソファーの上で完全に固まり、彼女にどうすればいいのかを訊ねた。彼女は水をたくさん飲んでカフェインの排出を促すしかないといい、あるいはタバコを吸いまくって代謝を促進させる、勝手に飲んだ罰だしばらくそのままでいろと言った。私は言い返す余力がなく彼女の言われるまま、気分を落ち着かせる効果も期待し、水をちびちびと飲み続けた。ただでさえ心拍数が高いのに、タバコを吸うなどありえなかった。

 四時間が経ちやっと心拍は落ち着いた。お腹は水でいっぱいで何度お手洗いに行ったことか、以降カフェインは摂取しないことにした。私は彼女に聞いた。一日何本も、何杯もコーヒーを飲んで気分が悪くならないのかと。彼女は言った。私はカフェインが効きにくい体質、分解が早いし、喫煙者だし、慢性的な睡眠不足でそもそも効果を実感しにくい。それを聞いた私は彼女は自覚していないが決してコーヒーが好きなのではないなと確信した。

 

 私たちは本を読んでいた。彼女はデスクで歴史本を、私はソファーに寝転がりながらタイトルさえ見ていない、てきとうに手にとった小説を読んでいた。部屋はとても静かだった。ページを捲る音が遅い遅いメトロノームたちのように一ページまた一ページと捲られていく。お互いの読む速度、一ページに記載されている文字量、ペースは違えど各々読みを進めていく。そんな中で私は偶然にもページを捲る音が重なる瞬間をいつのまに待っていた。

 読書というのはどうしてこんなにも退屈なのだろうか。面識のないどこかの誰かが書いた文章を読んでる内に、勝手に先の内容が気になり、先へ先へと能動的に読んでいるというよりは後へ後へと受動的に読まされている気分だ。起承転結、それらの詳細やオチなど、さらにわかりやすく踏み込んだ部分が、今の時代調べてれば解説つきで情報がいくらでも出てくるというのに私たちは時間を浪費しているだけ。とはいっても私も彼女も時間を浪費するのは実は好きで、本さえ読まず、話に花を咲かせることせずに微かに聞こえる互いの呼吸のリズムを聴いているだけのときもある。ここまでくればもはやただの同居人ではない、友人でありそれさも越えた大親友であり、いやもはやそれは恋人のようなもので、いや彼女が恋人などとは決していやだ。

 頭の中であれこれと考えながら今の私はただ文字を目で追っているだけの人だった。私のページの捲る速度が速くなれば当然確率的にページを捲る瞬間が一致する可能性は増えるわけだが一向にその気配はなかった。デスクに腰掛ける彼女の横顔を見て、目線や指先に視線を凝らし、そのタイミングを見計らってページを捲ったかと思えば彼女は本を持ち直す。私は意図的に合わせるのもなんだかなと思い、結局飛ばした部分を読み直すことにした。

 それから十分が経ったころ、そのことが意識から消えかけた瞬間、私たちのページを捲る音が偶然にも重なった。私は重なった、重なったよ、と彼女に向かって二度言った。何のことわからない彼女は私が恋愛小説を読んでいるとでも思ったのか、キスでもしたの、そんなはしゃぐような言い方して、唇が重なることがそんなに珍しいことなの、などと冷たい返事が返ってきた。私は、ページの捲る音だよと言った、まるでメトロノームのようでと。彼女は言った。メトロノームって何の話なのそれ、というかちゃんと読んでなかったでしょ、ページを捲るスピードが早すぎる、横でそんなふうにてきとうに本を読まれるとちゃんと読んでいるこっちもやる気が削がれるからやめて。結局彼女に一からことを話してもそんなこと考えないで真面目に読めお馬鹿さんとだけ言われた。こうした何気ない気づきや瞬間が、彼女と一緒にいる理由なんだと私は内省するかのように、確かな学びを一つ得るのだった。

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