第一部
ある日の朝、夢から完全に覚めきってない頭をもたげ、トイレに向かっていた。冬の朝というのはどうしてこんなにも寒いのだろうか、ふわふとしたそう頭で考えていると、ふと玄関に投函されている一枚の封筒が目に入った。遠目からでもわかる、規格封筒とはまた違った歪な形をした白い封筒だった。ひんやりとする廊下になるべく足をつけないようにそっと歩き、目の前までいくとそれを手にした。差出人は書かれていなかった。少し崩れた形を見るに、この封筒はどうやら手作りようだった。
トイレを済ませ急いで手を洗うと、寒さから逃げるように洋室へ戻った。ベッドのなかにもぐり、頭と手だけをひょい出して、封筒の形は崩さないように中をそっと開いた。いったい誰の手紙なのだろうとふいにどきどきした。しかし、内容はいたってシンプルだった。久しぶりだということ、これは約束であり近いうちにまた会おうということ、そして私の名前と、連絡先が最後に綴られていた。
長い間、それが何日、何ヶ月、何年の間かは分からない。食料の買い出し以外で外に出なかった私が、外出することにした。理由は単純で、身だしなみを整えること、行く先は美容院だった。
空は凍てついていた。動きがなく、雲はただ貼り付けられたかのように浮かんでいるだけだった。幸いなことに風はなく、上着は一枚で事足りた。道中、猫や鳥の数匹を見かけたが、なかなか人とすれ違わなかった。この辺りは閑散とした住宅地とはいえ、こんなにも人と出会わないものなのだろうか。そう思いながら歩いていると比較的立派な家屋から人が出てくるのが遠目に見えた。近づくにつれ姿形がはっきりしていき、その女性は恐らく六十歳くらいのお婆さんだった。
私たちは軽い挨拶を交わした。それからどうしてだか雑談が始まった。とは言っても私が一方的に話しかけられているだけで、会話は成立していなかった。日常の些細な出来事とか、そんなことを長々と聞かされていた。ところで奇妙なこと、どうやらこのお婆さんは私のことを知っているかのようだった。話の節々でそう感じた。だが私はこの人のことを忘れてしまっている。私は適当なタイミングで話から抜け出した。
美容院は住宅地のすぐ外の大きな通りに面している所にあった。特に取り立てていうべきところもない普通の美容院だった。店主は四十代後半くらいの男性で、店主は私を席に座らせると私の髪をまじまじと眺めた。私はそれを鏡越しに見ていた。それからいくつかの質問をされ、定期的に美容院へは通っていないこと、伸びた髪は家にあるハサミで自分で切っていること、髪型は何でもいいことを伝えた。店主は顔を悩ませるようにし、しばらくした後、私の髪を切り始めた。それから洗髪をされたり、何かいい香りがするものを髪に塗られたりした。
店を出たあと肩周りがひどく寒く感じた。腰まで伸び乱れた髪をばっさり切り落とされ、いわゆるショートボブになったわけだが、どうやら前髪は短く切られすぎたようだった。
私は家に帰りつくとさっそく出来栄えをしっかりとチェックするため部屋に戻り鏡の前にたった。
目を凝らすと、それまで陰鬱な雰囲気をまとっていたであろう私が一変して、明るくふんわりとしていた。インクを溢したかのような真っ黒な髪がこれほどまでに光を透き通すとは知らなかった。瞳孔は閉じ切りそうになり、驚いた目がぱっちりとしていて、小さな唇が半開きになっていた。体躯はかなり痩せ細っていて、鎖骨の窪みが影に深く染まっている。左の手首にはブレスレットがついていて、手は角張っている。外出し疲れてしまった私はそんな自分の姿を少し誇らしく思いながらもベッドに深く背を預けた。
次の日私は枕元にあった手紙を読んだ。どうしてここに謎の手紙があるのかわからなかった。差出人もなく、文章は短くて、連絡先が不気味に感じた。私には昨日の記憶を忘れてしまうという疾患があった。どうしてこうなってしまったのかはわからない。きっとこの手紙は昨日開けたに違いない。枕元にこうし大事そうにおいてあるということはそういうことだ。
ある日、ふと鏡の横をを通り過ぎたとき一瞬誰か違う人が中にいたような気がした。振り返りはしなかったが、それはどこか懐かしい感覚だったような気もした。
その日以来、私の中で何かが変わった。良いか、悪いか、どちらにせよ、それまで寝る度に消えてしまっていた昨日の記憶が思い出せるようになった。ただし、こうなる以前のものついてはやはり抜け落ちていて、ずっと空白のままだ。朝早くに目を覚まし、まだ日が登らないうちにランニングをはじめ、日が昇ると同時に帰宅する。朝ごはんをしっかりと食べ、シャワーを浴びたあと、部屋で読書に興じる。部屋の一角にある大きな棚には本がずっしりとつまっていた。いつ買ったのやら、はたまた誰かに譲ってもらったものなのか、すべてを忘れてしまっているが、だからといって思い出そうともしなかった。ジャンルはバラバラで、恋愛やホラー、ファンタジーといった大衆向け小説や、堅苦しい文字が並ぶ純文学、勉強する気が失せてしまうほどの難解な学問書といった面々が、ちぐはぐに並らべられていた。私はそんな本たちの中から人との関わりの場面、あるいは人との接し方の知見を探した。一字一句読み逃すことはせず、そのページ写真として脳裏に刻み込むまで何度も読み返した。だが文字と理屈だけで学んだコミュニケーションなど、実際にはほとんど役に立たないだろう。
こうして四苦八苦しているのはもちろん手紙の送り主と会うときのためだった。それでもその日が来るまでの暇つぶしとしては過不足ない。
ところでいったい誰がこの手紙を送ってきたのだろう。切手が貼っていないということはポストに直接投函されている。私の青白い肌は当分の間は外に遊びに出かけてないことの証左で、部屋の中を見渡しても他の誰かがいた形跡も一切なかった。恐らく私はここ数年、全くと言っていいほど知人と会っていない。そもそもその人のことを知人だと忘れてしまっている。それにしても今の時代に、それも手作りの、手紙を送ってくる人物といえば恐らく相当変わった奴であるに違いない。
その日が近づくにつれ、寝る前に幾度となく軽い不安に襲われた。どんな人なんだろうか、なぜ今になって私との約束を果たそうとしているのか、しかしどう悩んだってその日は必ずやってくる。耐えるしかないのだ。今になって手紙の連絡先に誰かを尋ねるべきだと思うのだった。
今日は朝早くから外出の支度をしていた。少しだけ太ってしまった体を隠すようにワンサイズ大きめの服を着て、鏡の前に立ち、笑顔の練習をする。あれだけ練習したというのに表情はどこかぎこちなく、どうしても理想の笑顔を作れない。あれでもないこれでもないと試行錯誤のなかで、時間が迫っていることに気づき家を出る。やれることはやったのだ。
日差しは全くといっていいほど酷くはなかった。空を覆い隠す雲が傘がわりとなって光を遮っている。住宅地はどんよりと影に染まり、まるで雨が降っているかのようなジメジメとした肌寒さが大気を支配している。外の世界は思っていたよりも怖くなくて、これから起こることへの不安と期待が心のなかをぐるぐるとかけめぐった。
幾つもの信号機が歩みを妨げ、唸りをあげる車に私は歩道の隅へと追いやられた。体はそんなふうにして死を避けたがるが、跳ねられることにどうしてだが恐怖はなかった。ただふいに思ったことは誰かの腕の中で暖かく死を迎えたいということだけ。しかしそれはけっして肉親の誰かの腕ではなく、今の自分は知らない誰かの腕のなかだ。目的の場所へはもうすぐそこで、多くの車が行き交う大きな交差点の一角にあった。ガラス張りのその店は、店内の様子を伺おうとしても自分の周辺の景色が反射するばかりで、ネットに載っていた店内の雰囲気と現実との乖離を知ることはできなかった。
扉を開けるとりんと鈴が鳴った。すると横長いカウンターに一人立っていた男性の店員の視線がこちらに向いた。爽やかな挨拶は耳元を通り抜け、シックな内装と天井真ん中にある小綺麗なシャンデリアに目がぐるぐると回った。ひどくおしゃれな場所で、店員に流されるがままにカウンター席へと案内された。席につき、店内を見渡すと客は私一人で、他のカウンター席にもテーブル席にも誰もいなかった。店員さん恐らく四十代後半くらい年齢で、メニューを読み上げる低い声が私の体に心地よく響き渡ってきた。
メニューをいくつか読み上げてもらった私はもう一人知人が来ることを伝え、コーヒーを頼んだ。苦味の程度、甘さの程度、ブラックかホワイトどちらにするかを尋ねられたが、咄嗟に私は普段決して飲まないほうのブラックコーヒーを注文してしまった。
コーヒーが眼下の置かれ、お待たせしましたと言う声と同時に、禍々しく渦をまく、見えるからに苦い液体に香る、少し焦げくさく匂いが鼻についた。君のような若い子が苦いコーヒーを注文するなんて珍しいことだと店員は言ったが、私はこれから会う人物への不安のあまりてきとうに注文したなどといえず、思わず甘いものは苦手でと嘘をついてしまった。
店員が目の前からはけ、コーヒーを一つ口にしたがあまりの苦さにコップをカウンターにこんと音を立て置いてしまった。店員さんの視線がこっちに向き、気まずい雰囲気になりそうになったそのとき、りんと鈴が鳴りった。店員が入口に立っていた女性のほうを振り向き、店員が私にもう一人の子かと尋ねかけた瞬間、入り口に立っていた女性がとばり久しぶりと私の名前を飾りっけなく呼んだ。彼女は背が高く、ネックの狭いタイトな長袖を着ていて、こっちに向かって手を振っていた。彼女の提案で私たちはテーブル席に座ることにした。彼女は私の前に腰を下ろし、肘から手先までをテーブルの上に乗せ、少し前のめりになりながら自分をかがりと名乗った。彼女は眩しいくらいの満面の笑みだった。だが、私は率直に正直に伝えた。彼女のことを覚えていないことを。私は申し訳なさそうにそれを口にしたが、驚いたことに彼女はもう何年も前だもんねといってそれを笑い飛ばしてしまった。
彼女は店員を近くに呼ぶでもなくやや大きめな声でカフェオレを注文した。ミルク多めのふわんとした舌触りのもをと更に付け加えた。カフェオレが届くと彼女は口を一切つけることなくそれを私に飲んでみてと言った。私はかがりが注文したものだからと遠慮したが、本音は自分が頼んだコーヒーよりもカフェオレのほうがよかった。彼女は強引に私にここのカフェオレすごく美味しいからと言って私の押し付け、代わり私にほうにあったコーヒーをしれっと取っていった。私はそれに口をつけてしまっていることを伝えたが、彼女はとばりそういうの気にするタイプじゃなかったのにと言いつつも口をつけた。私も彼女から受け取ったカフェオレを飲み始めた。彼女の注文通りふんわりとした口当たりで、とてもまろやかだった。濃厚なミルクの味であるにもかかわらず、喉を通した後の口の中の変んなベタつきもなかった。彼女の方はすっかりあの苦いコーヒーを飲み終え、私に微笑みながらほんとは苦いの苦手でしょと言った。私はなんで知ってるのと疑問を投げ、彼女は昔からそうだったからと答えた。それから私は彼女び自身ことをいくつか質問した。返ってきたのは、私が記憶喪失であるということ、それは徐々に進行していったこと、私たちは数年来の友達であったこと、約束というのはまたいつか会おうというもので、私がかがりを忘れるたびに知らない人に訪ねれるのはよくないと思い時間を空けたとのこと、他にhs私に短めの髪が似合っているということ、もっと痩せ過ぎているのかと思っていたそうだ。
私たちは店を出たあと大通りを歩くことにした。彼女は背が高く、スキニーパンツに包まれた脚を奥へ奥へと伸ばしながら、早々と歩いていった。低体重という訳ではなさそうでも、そのシルエット丸出しの体は私よりも細っそりとして見えた。やや長い黒髪が肩甲骨を隠すようにふわっと広がっていて、どこか艶やかに見えた。彼女はふと後ろを振り返り、私が早足であることに気づくとペースを落とした。彼女はごめん早かったねと言い、疲れたり他にも何かあれば遠慮なく言ってと言った。私はありがとう、大丈夫と返した。
途中、水を買うためにコンビニに立ち寄った。飲料を置いてある場所は大抵一番奥であり、例に漏れずここのコンビニもそうだった。私たちは道中の棚には一切目もくれず、飲料の売り場に向かった。その中から一番安い水を手に取った。レジの会計の途中、彼女がせっかくだからあれを買っていこうよと突然言い出し、カウンターの後ろにある棚を指差した。それはタバコだった。彼女の会計の番がくると、彼女ははっきりと百十七番を指定した。
コンビニを出てからというもは通りを歩きながらとりとめのない、それも仕切りのない会話を私たちは始めた。彼女は色んな話題を次々と口にし、それらの多くは結論または落ちをつける前に次の話題にかき消されていった。ところで、どうして数ある中のうちの中であのタバコにしたのかを彼女に尋ねてみたが、彼女は少し宙を見つめたあと、わからないと言った。そしてつけ付け加えたかのように、深層心理が働いたのだと言った。体を寄せ、私の顔を覗き込むようにして。彼女の表情はなんと言うか、とても無邪気だった。
ちょっとした公園を目にし、そこで休むことにした。いくつかの長椅子があちこちにあったが、私たちはもっとも人目につかないであろう場所に向かった。理由はタバコを試すためだった。
私たちは腰を下ろした。彼女はさっそく袋からタバコを取り出し、テーピングを丁寧に剥がした。彼女が言うには、そのタバコはソフトパッケージだとかで、上部左側を剥いだあと、その反対側をぽんぽんと何度か叩いた。するとタバコが少し飛び出してきて、その一本を摘み出した。そう言えば今になってライターを買い忘れたことに気づき、彼女にそのことを伝えたが、彼女は大丈夫だと言った。彼女は空いている左手を手提げバッグのなかに深く突っ込み、ライターを取り出した。
彼女はタバコを口に咥え、火をつけはじめた。籠った声でタバコを上下に揺らしながら、火をつけるときはタバコを吸いながらつけると火がつくと、説明した。言いたいことは理解できるが、それを文面におこすと訳がわからなくなりそうだと、私は思った。
火が起こり、タバコの先端がオレンジ色に光った。彼女は口からタバコをそっと離し、それから静かに息を吸い込む音が聞こえた。透き通る白い煙を吐き出しながら、彼女は空を見上げていた。その目はどこか虚だった。彼女は何かを言うでもなく、空を見上げたまま、腕だけをこっちに寄せ、タバコを渡してきた。私はタバコを受け取ると、口元まで持っていった。フィルターに唇をつけ、軽く吸った。咽せることはなかったが、香ばしい煙が口内に充満し、胸の方へと流れていくのを感じた。タバコは趣向品だとは言うが、いったい何が美味しいのだろうか。景色に消えていく吐き出された灰色の煙を眺めたあと、光を取り戻した彼女の黒い瞳を見ながら私はそう思った。
その後私たちは家路についた。私の家に帰りつくと、彼女はさっそく靴をささっと脱ぎ、入っていいか尋ねると、私よりも先に部屋に入って行った。この部屋はマンションの一階の一室にあって、玄関を開けると右手にトイレ、左手にお風呂場、短い廊下を進むとリビングダイニングキッチンがあり、その奥が八畳フローリング、その更に奥にベランダといった構造だった。彼女はそれら一つ一つを懐かしむように見回った。私がお茶を出しリビングのテーブルに座り催促すると、彼女は唐突として真剣な表情で私の横に座った。彼女は私の方に体ごと向け、私の手を包みがら話をしてくれた。両親は昔に亡くなっていること、この住宅地や建物全ては両親の遺産の一部であり、住んでいるのはと私除いて一人、以前に出会った私のことを知っていた管理人のお婆さんだけで、だからこの周辺には人が住んでいない。
彼女は暗い話は終わりと言ってぱっと明るさを振りまき、私の手を引き箪笥の前に行くと、なかから白いワンピースを取り出した。鏡の前に私を連れていき、着替えてといってそれを私に手渡した。私が着替え終え、いつ取り出してきたのやら彼女は手にもったヘヤアイロンで私の髪を弄り始めた。彼女がそれをしているあいだ私は彼女が言ったことが本当なのかを考えていた。記憶喪失なのは確かだった。彼女が友達だったと言うのも恐らく間違っていない。切手のない手紙をポストに投函していたのもそうだし、直接家に押しかけるのではなく、カフェで会うという形で私にアプローチをかけたのも私の記憶喪失の過程をちゃんと知って理解しているからに違いない。何よりそんな私を両親が放っていくはずもないし、買い出しなどに出かける際にいつも使っているキャッシュカードは今だ稼働し続けている。両親の資産、それだけで福祉の世話になることもなくこの部屋に何年間も一人で住めているのも納得だった。彼女は完成といってヘヤアイロンを私の髪からどかしたあと、何か考えていたでしょと言った。私は白いワンピースに良く似合うふわっとした髪型、そのサイドに小さなリボンの髪留めがサイドに付いているを眺めながら、可愛いリボンだね、何も考えてないよと返した。昔はこうして髪や服装を変えたりしてよく遊んだと彼女は語った。
日が暮れ始めると彼女は家を後にした。その際にこのタバコをあげるといい、ライターと一緒に玄関の隅に置いて帰って行った。私は部屋に戻りソファーに腰を下ろすと髪留めのリボンを外した。指先でそれを照明に向け、わずかにキラキラと黒く光るそれは恐らく今日ずっと彼女がずっと身につけていたものだった。私はベッドに潜り疲れはどっと押し寄せた。
それからというもの私たちはしばらく会うことはなかった。彼女から連絡がくることは決してなく、それは私の連絡先を彼女は聞かなかったからだ。知っているのは私だけで、もしかするとそれは彼女なりの配慮だったのかもしれない。何年も会っていなかった人物、しかも彼女と過ごした日々の記憶を失っている私が急に昔のようにすぐに戻れるはずがない。
変的のない日々を過ごした。生きるために最低限の食事をとり、軽く運動をするのはそれはメンタルに良いと本に確か書いてあったからだった。シャワーを浴び、髪を乾かし、肌のケアをし、眠る。昼間は本棚にある本をてきとうにとり読書をし、少し眠たくなればソファーでそのまま夕方まで昼寝をする。夕方になると寂しさに目覚め、ふと夕焼けに染まる住宅地を散歩したくなる。この狭い世界には誰もいなく、外の世界に私が知るものは彼女だけ。東の空が青暗くなり、星々が輝きを取り戻す前に家に帰る。
ある日の深夜ふと私は彼女への衝動に襲われた。会いたいだとかそう言った類の感情ではなく、無性に一人でいることに退屈し、ベッドの中、常夜灯を見つめながら左脚を揺すりベッドをカタカタといわせた。
水をとりに冷蔵庫の前に立ったさい、玄関の隅に彼女がタバコを置いて行ったのを思い出した。私はおもむろにそれをとりに行きキッチンの換気扇の下でタバコを吸い始めた。前吸った時とほとんど同じ味だった。違うのは彼女に持って行かれてしまっていた一口目だった。とは言っても一口目よりも、五回ほど吸った後の中間層の部分のほうがより美味しかった。
私は手紙に書いてあった彼女の連絡先へ今度また会わないかとメッセージを送った。返信が来たのは朝でそれまでのあいだ私は何度もタバコを吸っていて、気づけば残り三本ほどだった。私は彼女が来るまでの間にタバコを買い出しにいき、部屋に戻ると残っていた四本を連続で吸い、いわゆるチェーンスモーキングというやつで残りを片付けた。新しく買ったタバコは今のと同じで、それはポケットの中にライターと一緒にしまった。
お昼になると彼女がやってきて、私はコンビニでついでに買っていたブラックコーヒーで彼女をもてなしたが、彼女はすでにカバンの中に入っているといい私の思いやりを嘲笑うかのようにやっとした。以前会ったときとはどこか違う雰囲気で、彼女が口にする言葉のトーンは低く、語尾は気だるそうに毎回下がっていた。私はその態度を彼女にそれとなく会話の中で尋ねると、最近よくないこと続きで参っているから、と言ってもこれが本来の私だと言った。以前会ったときは取り繕った姿だとのことだった。彼女は前のように仮面を被っていたほうがいいかと私に訊ねたが、私は素のままでいいと言った。すると彼女はタバコを吸おうと言って私をベランダに引っ張り出した。彼女は慣れた手つきでタバコを取り出し火をつけ、私も新しく買ったタバコのに火をつけようとした瞬間、彼女は咥えたタバコの火先を私の顔元に近づけ、シガーキスって知ってると言い、ライターのオイルが勿体無いからと付け加えたあとそれを私に迫った。私はシガーキス自体に興味はなかったが、オイルの無駄だということに同意し、彼女の火種を介してタバコに火をつけた。
タバコを吸った後は彼女の提言で私たちは別々のことをした。彼女は会いたいから呼び出されているのではないと察している様子で、やや大きめの手提げに入っていた小型のノートパソコンを淡々と取り出し、私のデスクの上に勝手に広げ何かをしていた。一方で私は読書をしていた。英語のみの七割ほどなんと書いてあるかわからない、断片的な情報から恐らく写実主義者の著者の小説で、次第にそれは記号を眺めるだけの作業に変わった。うとうとが止まらなくなり、はっと目が覚めて気がつくと、身体には温かなブランケットがかかっていた。干してあったものをわざわざ持ってきたなと私は思った。
ソファーから立ち上がると時刻は十七時を超えていた。しかしあの寂しさはなく、私はうーんと背伸びをし、いつ帰るのかを、まだデスクで何かをしている彼女に訊ねた。彼女は未定とだけいって背を向けたまま作業を続けていた。だがすぐノートパソコンを閉じると、ベランダにタバコを吸いにいった。
以降、私たちは互いに連絡を取り合うようになり、たびたび遊ぶようになった。遊ぶとはいってもほとんどは私の家でタバコを吸い、軽い近況報告を交えたあと、別々のことをする。けっして互いが互いの何か必要としているかと言われれば微妙で、私であれば夕方の寂しさが紛れるくらいだった。会う回数が増えるたびにその日家にとまっていくこともあり、深夜に差し掛かるといつも彼女は決まってデスク向かいノートパソコンを広げていた。
初めはカタカタという音が気になり寝付けなかったが、不思議といつしかそれは雨音のように心地の良い環境音に変わっていった。先に起床するのは大体私で、そうでないときは夜通し彼女が作業をしているときだった。毎日私が朝食を作り、とは言っても私たちは共に少食だったので、朝はトースト一枚だけの日も珍しくなかった。私が朝食を食べ終えると計ったのように彼女はソファーから目を覚まし、食べにくる。使った食器は早く洗ってしまいたい私にとって彼女のその行動と、スマートフォンをいじりながらのろのろとパン一枚を十数分かけて食す様にはイライラすることもあった。
他には彼女はブラックコーヒーが大好きなので彼女がボトルで買いだめしているのだが、彼女には妙な癖があってわざわざコップについで飲むうえ、同じコップを使わないで他の新しいコップをなぜか棚から取り出しそれに注ぐ。私は洗い物が増えるからやめてと言っても彼女はその方が美味しいから、自分で洗うからと言って聞かない。彼女が洗いものをすると決まってパンのくずや、コーヒーの残りが付着していて結局二度手間どころか私の洗い物が増えるだけ。それ以外は特に問題もなく、日を跨ぐごとに会う回数は毎日と言って良いほどに増え、ほとんど同居状態とはいえ過ごしやすいものだった。
雨の激しい昼下がり、食料が切れかけ買い出しに出かけなければならなかった。彼女もコーヒーの在庫がないといいついてくることになった。問題だったのは傘が一つしかなった。しかし実際に問題だったのは彼女の方で、彼女が余計一言、合傘と口にしたことだった。
傘は私が持つことになりそのせいで彼女は雨に濡れないためだと冗談めいた様子で私に肩を寄せてきた。少しだけ猫背になり骨組みに頭にが当たらないよう体制が辛そうなのは悪いが爽快だった。でも彼女は私が道路側を歩かないよう右側を歩き、横切る車に時折足元を濡らされながら歩みを進めていった。それに関しては私は申し訳なさがあり、彼女の温情の片鱗を垣間見た。
スーパーへ着くや否や、彼女は飲むも売り場へ向かってしまい、私は保存のきく食料や栄養補給フードやドリンク、マルチビタミン剤などと言った生きるのに必要な物だけを次々とカゴに入れていった。店内のあらゆる場所に張り巡らされた広告や天井から吊るされた看板、試食の誘いといったあらゆるものを無視してレジに向かった。今日はどうやらレジが混んでいるようで私は一番左のレジに並んでいたのだけれどその行列の一因を作っているのはどうやら彼女だった。四つのカゴいっぱいに恐らくこの店舗に陳列されている全ての種類のコーヒーをカゴに放り込み、それも同種を何本も、それを新人らしき店員が一つ一つ丁寧にバーコードを通しているのが見えた。
帰り道は雨がさらに激しさを増していた。両手ががっつりと塞がっていた私たちは濡れながら帰ることにした。彼女は左右の手に二つずつの大きな袋をぶら下げていて、私の中サイズの袋を同じようにぶら下げていた。髪はすでにずぶねれで私たちは幸いにも肌着や下着が透けるような服装をしていなかったから周囲の目を気にする必要はなかった。それでも傘を担ぐ子供に指を刺されることもあったが、彼女は和むなといったふうに微笑み返した。彼女はずぶ濡れになるにもたまには悪くないだろうと私に言ってきたのけれど、それは彼女がいつもタイトな服を着てきて、濡れたときの質感があまりわからないだけで、ワンサイズ大きめのシャツを着ていた私の肌触りはベチャベチャで最悪だった。
家に帰り着くと私は先に彼女にシャワーを浴びさせた。理由はずぶ濡れの状態で部屋を歩かれたり、デスクやソファー、ベッドに腰掛けられたりでもされたら、シャワー上がりの体以外にも、それらを拭くという手間が増える。コップ問題と同じようになってはたまらない。
私がシャワーを終えると彼女はラフな格好で冷蔵庫の前で作業をしていた。どれだけ効率よくコーヒーをしまえるかをあーでもないこーでもないと手を動かしながら考えていて、もちろんあれだけの量が全て収まるきるはずもなく私が買った要冷蔵の品々も入れるスペースも必要だった。それを彼女に伝えると彼女はさすがに諦めた顔をし、全体の七割ほどをコーヒーで埋め尽くした後私と交代した。並々ならぬコーヒーの量に可笑しくて笑ってしまったが、結局私の買ってきたもので冷蔵庫は四割埋まり、彼女のコーヒーが占める全体の割合は六割に収まった。野菜室までもがコーヒーでいっぱいだった。
タバコ以外で極力外に出たくない私たちの冷蔵庫はこうしてコーヒーと保存用食品の塊となった。
ところでどうして私たちタバコをカートンで買わないのだろうか。売ってないこともあるかも知れながいが人気の銘柄を吸っている私たちはそうすることもできるはずだ。なのにそうしない。きっと理由は単純でこの一箱を吸ったら禁煙してやると心の中のどこかで思っているからに違いない。少なくとも私はそうだ。ソファーでゴロゴロとくつろいでいたところの彼女に私はそう言った。すると彼女は言い返した。いくら外出が嫌とはいえ全く外に出ないわけにもいかないし、コンビニまで片道十五分、帰り道も含めると系三十分の運動になる。それに五百円と五千円じゃ心理的負担の大きさも違う。もっとも遺産のあるあながには関係のないことだけれど。それにタバコをやめたいのにあなたも私もだけど一日に一箱も吸っている。私は数十分おきに一本ずつ、あなたは数時間おきにチェーンスモーク。
私は想定していた回答とあまりにも違う内容に少しイラッとした。そういえばもう二時間はタバコを吸っていない。ベランダに出ると雨は上がり、雲の隙間から太陽が顔を出していた。湿気のある日のタバコはまずい。それでも私は一本、二本、三本と気持ちが満たされるまで私はタバコを吸い続けた。四本目の差し掛かると彼女がベランダに出てきて私のタバコを取り上げた。タールが十を越える重いタバコなのにそんなに連続で吸ったら体に悪いからやめろと。そんなもっともらしい文句を言った彼女だったが、彼女は平気そうな顔で、それも私の隣で自分はタバコを吸い始めるのだった。




